リシアは、本当にすぐに可愛くなった。エクタは妹に夢中になった。父や母を奪われたと思うこともなく、ただひたすらリシアを可愛がった。
 リシアに最初に離乳食を食べさせたのが自分であるとか、最初に覚えた言葉は「あーに」であるとか、エクタにとってリシアの成長に関わることは何よりもの幸せになっていた。
 父と母、兄妹で幸せな暮らしが続いていた。永遠に続くと思っていた。

 だが数年後。
 エクタが十二になった年、母マリサが病に倒れた。
 泣きじゃくるリシアをしっかりと腕に抱え、母の枕元に立つと、残りの命の短さを知ったのか、母はエクタの手を取って言ったのだった。
「エクタ。リシアのことをお願いね。父様は、お仕事がお忙しいから、いつもリシアに目をかけてあげる訳にはいかないかもしれない。でも、リシアがもう少し大きくなるまで、リシアのことを誰かが見てあげなければいけないわ。リシアはあなたが大好きだから、あなたの言うことなら聞くでしょう。だから、リシアをよろしくね」
 エクタは必死に涙を堪えながら、無言で頷いた。
 母の命がもうあと僅かだということは、十二歳にもなれば気配を読み取れるようになっていた。言葉の合間に母が苦しみを耐えかねて黙り込む様は、見ているだけでも辛かった。
 何も言われなくとも、リシアの面倒は自分が見るつもりだった。そんなことよりも、母がこういうことを願う段階に来ているのだということが悲しかった。
「リシア……兄様と、父様の言うことをようく聞いてね。母様は、あなたが大きくなるまで一緒にいることができないかもしれないから……」
 マリサは苦しみを抑え、微笑んだ。その目から、子を想う涙がこぼれ落ちる。
「あなた達は、本当にいい子だわ。大好きよ……さあ、いきなさい……私は、少し眠るから」
 優しい、母の言葉だった。
 エクタとリシアが聞いた最後の言葉だった。
 その後、深夜一度目を覚まし、イークに一言語りかけたマリサは、そのまますぐに意識を失い、死の世界へと旅立ったという。
 リシアをしっかりと腕に抱き締めたまま、エクタはそのことを聞いた。
 泣きじゃくるリシアの髪に顔を埋め、エクタもまた無言で涙を流した。
 腕の中の、妹の湿った暖かさが切なかった。
 自分より、母と長くいることができなかったリシアを守ろうと、強く思った。その本当の淋しさは消すことができないかもしれないけれど。妹が、淋しさを心から癒せる日まで、一緒にいようと。

 そして、今日もエクタは、優しい目で妹を見守っている。
 時々見せる悲しい表情は、大分減ってきたと思う。だが、リシアがいつも心から楽しそうにする日まで、自分のことよりも、リシアのことを大切にしたいと思う。
 かつて、リシアを傷つけたことがあった。政治に追われ、自分の気持ちを忘れ、彼女を二の次にしていたことがあった。そして、彼女を失いかけた。その時、エクタはどんなに自分こそがリシアを必要としているか、わかったのだ。兄であることを強く意識し直したあの日以来、エクタは妹を守ってきた。
 しかし、その役目がそろそろ終わるかもしれないということを、エクタは感じている。
 ルイシェに出会って、リシアは盲目的に欲しがっていた母の愛への想いを徐々に昇華させたように思う。そして、母の代わりに、自分と対等の立場で話ができる人間を求めているように思える。
 兄である限り、二人の意識上、完全に対等になることは難しいから。その人間になることはできないから。その意味では淋しさを埋めることはできないけれど、ルイシェがその場所に来てくれれば、とエクタは密かに願っている。何故ならば、ルイシェがかけがえのない友達であると思っているから。
 役目を果たしたとしても、兄であることに変わりはない。リシアが可愛い妹であることも変わりがない。それは、リシアが生まれた時から決まっているのだから。

 ふと、目の前が暗くなり、エクタは顔を上げた。
 明るい青銀色の髪が目に飛び込んできて、目をしばたかせる。光に目が慣れた時、リシアが悪戯っぽい瞳で兄を覗き込んで、エクタの目の前でひらひらと手を動かしているのが見えた。
「兄様、何を考えていたの?」
 同じ長椅子に座り込み、リシアが無邪気に尋ねた。エクタは微笑んで応える。
「昔のことを思い出していたんだ」
 リシアの表情が何かを思いだしたのか、ふうっと優しくなった。
「たまにあるよね、そういうこと。私も思い出すわ。でも、最近は思い出すのが楽しいことが多くなった気がするの」
 エクタは、その言葉に救われる思いがする。リシアには、悲しい思い出ばかりの人生よりも、楽しい思い出がある人生であってほしい。
「そうか。いいことだと思うよ」
 二人は顔を見合わせて、ふふ、と笑った。
「あっ、そうだ、兄様、少しお散歩に付き合って欲しいの。母様が植えた薔薇の花が、とても綺麗に咲いているのよ」
「本当かい? それは見に行かなければね」
 リシアは子鹿のように元気良く立ち上がり、兄の手を引っ張った。
 エクタは穏やかな笑顔を浮かべ、その手に引かれていく。
 いつか、自分より大切な人間がリシアにできたとしても。もうできていたとしても。たった一人の妹、リシアの優しさに、救われ続けるのだろう、と思いながら。
 そして、たった一人の兄は、今日も優しい澄んだ青い瞳で、妹を見守るのだ。