「……貴女は? 何故こんなところに?」
最初に思った疑念を女性にぶつける。女性は妖艶に肩を竦めた。
「ここら辺に住んでいるだけよ。月が綺麗だから踊ってたの。見た通りよ。それより……」
女性はすっとルイシェの前に立ち、しゃらん、と鈴を鳴らしながらルイシェの白い頬に右手を当てる。
「あなた、綺麗ね。綺麗な男は好きよ。名前は?」
「……ルイシェ」
軽く身を引きながら、ルイシェは答えた。
「ふうん。いい名前じゃない。そのウブそうなところもも気に入ったわ。いいわ、私の名前を教えてあげる。私の名前はディジニー」
少し勿体ぶりながら教えた名前は、ルイシェにとって特別なものとは思えなかった。そんなに珍しい名前ではない。ディジニーはルイシェの態度が気に入らなかったとみえ、軽く鼻の頭に皺を寄せた。
「いやね、若い子は。物を知らないんだから。ルイシェ、あなた、王になるんでしょ? 駄目よ、そんなんじゃ」
自分の名前を知っていたことに、ルイシェは少し驚いたが、次期国王と指名されて数年が経つ。国の成り行きを気にする者であれば、知っていて当然かもしれなかった。
ディジニーはくすっと謎めいた微笑みを漏らすと、ルイシェから離れ、またゆっくりと踊り始めた。息を切らせることもなく、喋り続ける。
「ロージョだっけ、あなたのお兄さん。あの子とも会ったことがあるの。残念だったわね。戦争で死んだと風の噂で聞いたわ」
「兄と?」
「ええ。随分に偉そうにしてたけど、根っから悪い子じゃなかったわ。私はあの子が王になっても構わないと思ったけれど……あなたを見ちゃうと、そうも言えないかしらね。あなたのお父さんの時もなかなかと思ったけれど、あなたの方がもしかしたらいい王になるかもしれない。色が白すぎるようだけれど、砂漠の民の血は絶えていないようね」
ルイシェの中に、段々疑念が生まれてきていた。
「あなたは一体、何者なんですか?」
ディジニーはルイシェの側まで舞い、すうっと止まるとルイシェの両頬を両手で押さえ、目をじいっと覗き込んだ。
「そうね。いい王になる子は、その質問が必ず出るわね。今まで私が会った子はね。……これでわかった?」
深淵を覗き込んだような、ぐらりとする酩酊感。思わず目を瞑ると、頭の奥深い部分がちくりと刺激をされたような気がした。
浮き上がってきた泡がぱちん、と弾ける。
「ディジニー……」
はっとして口にした途端、ふと目の前にいた筈のディジニーの存在感が消えた。目を開けると、そこには誰もいない。ルイシェは茫然と立ち尽くした。
それは幼い頃に聞いたことがある、砂漠に伝わる話である。
王が住んでいた砂漠には、砂の精霊が住み着いているという。砂に宿った精気の結合体で、美しい女性の姿をしているのだそうだ。踊りが上手く、男が好きなその精霊は、かつての王族と友人のように親しく付き合っていた、と。その精霊の名が、ディジニーであった。
たった、それだけの伝説。しかし、彼女は忘れ去られた後も、巡礼に来た王族をずっと見ていたのだ。一人一人、丹念に。昔の友人達の面影を重ねつつ。
多分、巡礼に来た王族は彼女に全員が会っているのだろう。だが、幻想であると決めつけたり、夢の出来事であると考えたり。或いは、彼女との思い出を自分の中だけに秘め。
だから、巡礼はなくならないのだ。何に巡礼に行くのかは告げられずに、ただ行ったことのある者のみが、自分なりの真実を掴む。
ルイシェもまた、真実と出会ったのだった。
砂丘を吹き渡る風の中に、しゃらん、という鈴の音が響いたような気がする。
我に返ったルイシェは膝をつき、目を閉じてディジニーに祈りを捧げた。
「あなたとの出会いを感謝します」
言葉を発した途端、脳裏に直接響く、不思議な声が聞こえてきた。
『礼儀正しい子は大好きよ。私も、あなたと会えてよかったわ。ルイシェ』
揶揄るような、しかし優しい声。ルイシェは、目を開け、ふうっと微笑んだ。蒼い世界がどこまでも美しく続いている。
それは砂漠の、一夜の夢だったのかもしれないが。
彼女の存在を疑いたいとは、思わなかった。
そしてルイシェは長くなった旅を終わりにすることを決意する。