その日、リーザは他国へ嫁いだ王女リシアの部屋を掃除していた。もう、この部屋は必要ないのだが、誰も無くそうとは言わなかった。部屋は、リシアの思い出がまだ息づいている。いつリシアが帰って来ても良いように埃が溜まらないようにするのは、リーザの一番始めに行う日課となっていた。
リシアが結婚したばかりの頃は、彼女がいない淋しさに、この部屋に入る度に泣きたい気持ちになった。でも、もう一年が過ぎようとしている。痛みは懐かしさに代わり、いい思い出が浮かんでくるようになっていた。
ベッド脇の小机を、固く絞った雑巾で拭いている時には、最近いつも同じことを思い出す。あの出来事が無ければ、リシアとリーザの間に信頼関係を築くには、もう少し時間がかかっただろう。大失敗を犯したことで、リシアに本当の愛情を抱くことになった事件。
それは、侍女になったあの日のことだった。
王女リシアの目に留まり、侍女として取り立てられたリーザは、王宮に来て半日で打ちのめされていた。ある程度は覚悟していたのだが、自分の礼儀作法が全く貴族の世界には通用しないものだということを思い知らされていたからだった。
「リーザ。あなたは今、ご自分のことを『あたし』と仰いましたか? 私の耳の調子が悪くございませんでしたら、これで四回目ですわね」
当時の侍女頭ベリーヌは、五十過ぎの女性で、厳格なことこの上なかった。灰色の髪に魔女のような鉤鼻、ぎゅっと引き結ばれた薄い唇。貴婦人が言えば優雅そうな今の言葉も、彼女が言えば、ただひたすらに冷たい。
リーザはたった数時間の間に、彼女の前に出ると、それだけで身体が震えることに気が付いた。
「ご、ごめんなさい。まだ、慣れてなくって」
「あら、そうですの。老婆心から申せば、誠心誠意どなたかに謝られるのであれば『ごめんなさい』ではなく『申し訳ございません』が宜しいと存じますわ。それに『慣れてなくって』などという崩した言葉は、王女の前でお使いになるには相応しくございません。また、これが一番大切だと存じますが、言い訳をするのは大変見苦しいことですわ。お相手が理由を思し召しになった時のみ申し上げるのが、侍女らしい振る舞いと存じますわよ」
ベリーヌは立て板に水を流すように言ってのけた。出会った時から、リーザが何か一言言う度に、このような素晴らしい解釈がついて回っている。リーザは殆ど口も聞けない状態に追い込まれていた。
返事もろくにできないリーザを批判的な目で眺めると、仕方ないとばかりにベリーヌは別の仕事を与えた。
「リーザ、あなたは宿屋のお嬢さんということですけれども、それならばベッドメークが得意でしょう。私が側で拝見いたしますから、王女のベッドを整えて頂けますかしら?」
返事といえども、迂闊に言葉を長くすることはできない。リーザはベリーヌに向かって上擦る声で「はい」とだけ答え、リシア王女のベッドメークを始めた。
いつものリーザだったら、目を瞑っていてもできるようなことだった。けれど、ベリーヌの目があると、身体が思うように動かない。
いつもなら一度大きく空気を含ませただけで広がるシーツは、折れてぺたんこのままで、リーザは泣きそうになった。初めてベッドメークをするかのように、ぎこちない動きで二、三回とシーツを振る。
その時、悲劇は起こった。
カツッ……カシャーン。
シーツを持つ手に軽い衝撃が走り、その後に何かが壊れた音。
「ひっ」
小さな悲鳴を上げたのは、リーザではなかった。隣にいるベリーヌが、顔をひきつらせ、顔を真っ青にしていたのだ。リーザは、壊れたものを見て呆然とした。
ベッドの横の小机にさっきまでちょこんと乗っていた、繊細なガラス細工の小鳥。それが見るも無惨に打ち砕かれていたのだ。
「あ、あ……」
何か引っかけたかもしれないとは思った。けれども、これ程のものとは想像だにしていなかった。
リーザの喉からは言葉も出てこなかった。ベッドの横に置いておくくらいのものである。大切なものなのであることは、疑いの余地がなかった。すうっと体中から血が引いていく。
「な、何ということを。ひ、姫様の一番のお気に入りを……」
先程までの沈着ぶりはどこへやら、ベリーヌは完全に動揺し、ガラスを素手でかき集め始めた。リーザはシーツを放り出し、ベリーヌの手を止めた。
「だ、駄目です、ベリーヌさん。素手じゃ、怪我します」
「何を言っているのです! すぐに直さないと!」
ベリーヌは強くリーザの手を振り払おうとした。
不思議なことに、自分より激しく混乱しているベリーヌを見ているうちに、リーザの頭は麻痺したまま冷えてしまったようだった。自分のものでないような声で、リーザは言っていた。
「これは直りませんよ、ベリーヌさん。それより、ガラスの破片が残る方が危ないです、姫様が怪我するかもしれないから。ベリーヌさんも怪我します、ガラスには手を出さないで下さいね」
その場にへたりこむベリーヌを尻目に、リーザは箒とちりとりを持ってきて、勝手に動く体でてきぱきと後片づけを始めた。
王女であるリシアが、学者の元での勉強を終え、帰ってきたのは、まさにその時だった。
青銀の髪をした小さな姫は、いつものように自分の部屋に入り、二人の侍女に微笑みかけた。が、二人が何をしているのかを見ると、その顔はそのまま凍り付いた。
小机の上から、消えてしまったものがある。代わりに、床とちりとりに小さなキラキラとした破片。意味することは、一つしかなかった。
リーザは、王女の大きな蒼い瞳が、小さく揺れるのを見た。感情が飛び去っていたリーザの胸が、その分強く罪悪感に締め付けられる。
「リ、リシア様、あ、あたし……いえ、私が……」
どもり、竦みながら、リシアの前に進み出る。リーザが面と向かって王女と会うのは、まだ二回目だった。一回目は、リシアが自分を選んでくれた時で、リーザが侍女になることを告げると、笑顔を見せてくれたのだ。なのに、最初から彼女の期待を裏切ってしまうとは。
リーザは箒とちりとりを床に置き、頭を下げた。
「ごめんなさい」
だが、その声は自分のものではなかった。目の前の王女から、発せられたのだ。
おそるおそるリーザが顔を上げると、王女が頭を深々と下げていた。信じられない光景に、リーザは狼狽えた。後ろにいるベリーヌを見ると、彼女は特別驚いた表情はしていなかった。
「ベリーヌにも、兄様にも、父様にも言われていたの。ベッドの横に置いてたら、いつか落とすよって。なのにリシアが置いといたから……ごめんなさい」
王女の目には、一杯に涙が浮かんでいる。リーザには、何が何だか分からなかった。何故王女が謝るのかさえ、理解できない。どうやら、言いつけに背いたから謝っているのだろう。けれども、小鳥が壊れたのは、彼女のせいだけではない。
「王女様は悪くありません。壊したのはあたしです。あたしが悪いんです。ごめんなさい」
「違うよ、お姉さんは悪くない。ごめんなさい、リシアが悪いんだ。リシアのせいなの。父様にも謝らなくちゃ。折角おねだりして買ってもらったのに……」
そう言って、王女はぽろぽろと涙を零し始めた。
リーザはこれまで、そんな考え方をする子供を、見たことがなかった。リーザの小さい頃も、リーザの弟妹達も、己の所有物を壊した人間を恨み、なじることしか考えなかった。なのに、この小さな王女は、他人を責めるということさえ思いつかないのだ。
泣きながら小さく「ごめんなさい」を繰り返す王女を見ているうちに、リーザは切なくなってきた。
こんなのは、間違っている。こんな小さな少女が、他人に酷いことをされたのに、全て自分のせいだと思うことは。子供なんて、もっと我が儘でもいいのだ。王女だからといって、何もかも我慢しなければならないなんていうことは有り得ない。
隣で見ていながら、何も言わないベリーヌにも少し腹が立った。こんな可哀想な考え方をする子供を、何故放っておくのだろう。
リーザはポケットからハンカチを取り出し、目の前のリシアの顔を優しく拭った。それから、蒼い目を真っ正面から見つめ、強い口調で言う。
「リシア様、いいですか? 言いつけに背いてガラスの小鳥を机の上に置いたのは、リシア様でした。壊したのは小鳥が目に入らず、シーツが上手く引けなかったあたしでした。もしリシア様があたしだったら、悪いのはどっちだったと思います?」
思いがけない問いかけだったのだろう。リシアは、しゃくりあげながらリーザの顔をまじまじと見つめた。
「きっと、やっぱり壊した自分が悪い、って言うでしょう? だから、リシア様は自分だけが悪いって思っちゃいけないんです。今回のことは、リシア様とあたしの、二人が悪かったんです」
自分でも妙な説得だということは分かっていた。普通で考えれば、悪いのはどう考えてもリーザなのだから。その証拠に、ベリーヌはとんでもないという風に、「リーザ!」と声を上げている。
しかし、リシアはこくりと頷いた。初めてそんな考え方をした、という顔をしている。
「だから、あたしはリシア様にごめんなさいを言うんです。リシア様はあたしとベリーヌさんにごめんなさいって言ったんです。後は、あたしとリシア様で、王様にごめんなさいを言いに行けばいいんです。怒られる時は、一緒です」
これまでリシアの周囲にいた侍女は、リシアが同じようなことで「ごめんなさい」と言うと、「姫様がそんなことを仰ってはいけません」と言うだけだった。何故言ってはいけないのか、説明してくれる人がいなかった。
しかし、この新しいお姉さん侍女は違う。最初は戸惑ったようだが、最終的に自分の謝罪を受け入れてくれて、尚かつ、彼女も悪いということを極めて明快に説明してみせたのだ。そして、一緒に罰を受けようと言ってくれる。まるで、亡くなった母と同じようにリシアを扱ってくれる人なのだ。
リーザの後ろではベリーヌが渋い顔をしていたが、リシアには気にならなかった。止まった涙を、自分のハンカチを取り出して、綺麗に顔を拭く。
「お姉さんの言うこと、すごくよくわかった。うん、二人とも悪かったんだね。ねえ、お姉さん、本当に一緒に父様に謝りに言ってくれる?」
しっかりと目を見ながら答えたリシアに向かい、リーザは微笑んだ。
「勿論です。あと、私のことはリーザと呼び捨てて下さい。これからずっと一緒にいるんですから。このガラスを片づけたら、すぐに行きましょう」
リーザの言葉に、リシアの目が輝いた。ずっと一緒にいてくれる人。それこそが、リシアにとって今一番必要な人だったからだ。母がいなくなってからの喪失感を、リーザは埋めてくれる人なのだ。
リシアははにかんだ笑顔を、リーザに向けた。
後ろでそれまで殆ど無言で聞いていたベリーヌは、事態が収まったと知るや否や、急に口を動かし始めた。
「全く、何ということでしょう。姫様は、自分が悪いと仰ってはなりませんし、リーザ、あなたは姫様を悪者になさったりして。普段だったら、絶対に許されないことですわ。けれど、お話は姫様が納得なさる形で、もう纏まってしまったようでございますし。私は、文句など申し上げる立場にはございませんものね。ただし、今の姫様とリーザのお話を伺っている間、余りの言葉遣いに頭がクラクラいたしましたわ。まるで男の方の会話のようでしてよ。これからみっちりとお教えしなければならないようですわね。一国の姫と、その侍女とあろう方々が……」
ベリーヌの愚痴は、リーザが掃除を再開している間、延々と続いていたが、リーザもリシアも気に留めていなかった。時々視線を交わして、心が通じ合ったことを確認し、笑みを交わす。二人は、新しい友達、そして家族になったことを、この時理解したのだった。
拭き掃除を終えて、リーザはほうっと溜息をついた。リーザにとって、大切なリシアの思い出の一つ。もう、あれは十年前になってしまったのか。懐かしい筈であった。
リーザは微笑み、掃除道具を両手に持った。
「さて。そろそろ若い子達の様子を見てあげなくちゃね」
思い出の中に浸った心を現実に引き戻し、リーザは背筋を伸ばす。
今日もまた、王宮での一日が始まる。 |
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