子猫の歌

 真夜中をとうに越えた時間、王宮の庭園は月の淡い光を受け、甘い吐息のような夢の中にいた。晩秋の穏やかな日差しも今は忘れ去られて、涼しく清浄な空気が辺りを満たしている。湿り気を帯びた中に、咲き遅れの薔薇の香り。
 その中に、一人の男性がいた。日の中では明るく輝く金色の髪と蒼い瞳は、色を抑え仄かな光を放つだけになっていた。その端正な顔立ちは、朧気な白と青の陰影で彩られ、昼間には決して見せることのない苦悩の色を絶えず浮かべている。
 昼の忙しさから解放されたエクタを最近悩ませているのは、不眠だった。身体も頭も疲れ切っているのに、床について目を瞑っても、安らかな気持ちになれない。ようやく眠っても浅い眠りで、数時間と眠ることもできない。
 原因は、幾らでも考えられた。
 北のミスク国の不気味な動向。友好関係となったイェルトとの、新条約の調整。内国では、不正を働く貴族の対処。中央集権国家であるエルス国で、最高権力者の息子であるエクタは、多忙を余儀なくされている。
 けれど、根本の原因は、本人にも意識していないところにあった。
 去年、妹のリシアがイェルトに嫁いだ。それと前後し、婚約者だったシエラが婚約を破棄し、新たな婚約を結んだ。家族のような侍女リーザは、イェルトに行くことになるだろう、とエクタは考えている。
 この全てを、エクタは心から喜んでいた。リシアが王妃として愛する者の許に嫁いだことは、兄としても文句の付けようがなかったし、どうしても女性として愛することができなかったシエラが新しい愛を見つけてくれたことには、安堵もした。リーザにしても、やっと今、本当の幸せを掴もうとしている。
 全てが上手くいき、誰もが幸せな筈だった。なのに、エクタの心の中には、彼自身が想像するより大きく、ぽっかりと穴が空いていた。
 エクタは、中庭の中をゆっくりと歩いた。少し歩いて気分を変えれば、眠りにつくことができると思ったからだ。けれど、月の魔力はエクタの頭を却って覚ましてしまうかのようだった。エクタは鬱々と、辺りを見回した。
 その時である。
 小さく、何かが聞こえたような気がして、エクタは耳をそばだてた。
「……ィ」
 寝ぼけた小鳥のような、高い声が、途切れ途切れに耳に入ってくる。だが、こんなに何度も鳥は寝ぼけるだろうか。
(何だろう?)
 エクタは、声のする方向に足を向けた。中庭から裏門へ続く道を、ゆっくりと歩く。
 そのうちに、声が鳥のものではないことにエクタは気づいた。ニィ、ニィ、という声。疲れたように時々休んでは、また小さく鳴いている。
(子猫だ)
 声はするのだが、どこにいるのかが分からない。エクタは、猫に呼びかけてみることにした。猫の鳴き真似をするのは躊躇われたので、短く声をかける。
「どこ?」
 子猫の声は、ぴたりと止んだ。人間の声に驚いて逃げたのかとエクタが思うのと同時に、さっきよりも余程必死な大声で、子猫は鳴き始めた。しかも、声が段々近づいてくる。
「ニィィ、ニィィ」
 エクタは身を屈めて、声の方向がする灌木の下を覗いた。だが暗くて、何も見えない。子猫の方も、エクタの姿が見えないらしい。先ほどの呼びかけが幻だったのだろうかというように、泣き叫ぶ声がとぎれがちになる。それでも諦められないらしく、声はすぐ近くまで来ていた。
「ここだよ」
 エクタは声を潜めて、呼びかけた。途端に、返事をするような喜びの声が一つ。
 そして、彼女は現れた。
 見るも哀れな姿だった。夜露の中、丈の高い草をかきわけて移動してきたのだろう。ぐっしょりと黒っぽく濡れて、不気味な程に痩せこけている。月の光を反射した大きな目は、爛々と光り、まるで割れた石榴のように口を大きく開けて、まだ泣き喚いていた。
 子猫はやっと見つけた、というように、覚束ない足取りでエクタに向かってきた。様々な感情が押し寄せて、どうしていいのか分からないという様子で、何度も何度も鳴いている。
「あ、エクタ様。まだ起きていらっしゃったんですか。それ、猫ですか?」
 急にエクタは後ろから声をかけられて、驚いて振り向いた。
 そこには、若い衛兵が立っていた。先程からの子猫の余りに騒々しい声は、裏門脇にある詰め所にも届いていたらしい。隠そうとしているが、少し不機嫌そうな声だ。
「うん、眠れなくて散歩をしていたら、この子の声が聞こえてきてね」
 エクタは子猫を手で掬い上げ、衛兵に見せた。両手にすっぽり入る大きさだった。びしょ濡れの子猫はまだ短く鳴いている。
 衛兵は、顔をしかめた。
「みっともない猫ですね。どうやって入ってきたんだか。お貸し下さい、城門の外に放してきますから」
 手を伸ばした衛兵に、エクタは子猫を渡すことができなかった。手の中の子猫は冷え切っていて、小刻みに震えていたのだ。こんな小さい生き物がこの寒さの中、ずっと泣き叫んでいたのかと思うと、哀れで仕方がなかった。
「いや、僕が今夜は面倒を見るよ。明日以降、貰い手を探してみようと思うんだ。それでいいかな?」
 衛兵はその申し出を、エクタらしいと思ったようだ。ついでに、弱い生き物に対する自分の態度を反省もしたのだろう。若い声が、穏やかになる。
「勿論です。いい貰い手が見つかるといいですね。お前、良かったな。エクタ様に見つけてもらって」
 最後は子猫に向けて言い、衛兵は人差し指の先で小さな頭を撫でた。子猫は返事をするかのようにニィ、と鳴く。絶妙なタイミングの良さに、エクタと衛兵は一緒になって小さく笑った。
「それでは、私は詰め所に戻らせて頂きます。エクタ様も、早くお休みになって下さい」
 衛兵は、ここに来たときとは打って変わって、気持ちの良さそうな顔で帰っていった。
 一人になり、エクタは手の中の子猫に向かって話しかけた。
「さて。ああ言ったはいいけど、どうやって君を世話すればいいのかな」
 ニィ、と子猫は答える。そこで初めて、エクタはしまった、と思った。
 実はエクタは、猫を飼ったことがなかった。今まで飼ったものは小鳥ばかりで、その飼育法が子猫に適用できるとも思えない。
「まずは、部屋に戻ってみようか。それから考えよう」
 とりあえず、一晩過ごせばいいのだから、と、エクタは子猫を服の合間に入れ、館に戻ることにした。
 暖かく落ち着く場所に入れられると、子猫は、急に静かになった。それまで鳴き喚いていたのが嘘のように、黙りこくっている。服が一気に湿っぽくなり、それから子猫の熱が伝わってきた。
 エクタは不安になった。子猫が自分よりもかなり熱いように感じられたのだ。静かになったことといい、もしかしたら病気なのかもしれないという思いが走る。
 服の上から手を乗せて、子猫を暖めながら、エクタは自室に戻った。
 外ほどは冷え込んでいないが、暖炉の火を落として数時間、かなり室温が下がっている。エクタは懐を気にしつつ、炭化しかけた薪に火をつけた。それから、子猫に与えられそうなものを探す。
 猫がミルクを好むことは知っていたが、ここにはなかった。肉や魚もない。厨房はこの部屋から遠く、鍵もかけられている。あるのは、ワインと水とチーズ。
 ワインは流石に飲めないだろうから、水をガラスの皿に張り、小さな皿に千切ったチーズを乗せる。すると、懐の中で、静かだった子猫が急にばたばたしはじめた。
「ど、どうしたんだい」
 慌てて服の合わせ目から子猫を引っ張り出す。子猫は返事もせずに、一目散にチーズの皿に首を突っ込んで食べ始めた。
「お腹、空いていたんだね」
 余りの必死な動作に、エクタはつい微笑んでしまった。熱はあるように思うが、食欲があるということは、いいことには違いない。
 子猫は低く唸り、耳を寝かせながらチーズを貪っている。あっと言う間に消えようとしているチーズのお代わりを千切りながら、エクタは初めて光の下で子猫をじっくりと観察することができた。
 乾きかけで、毛はハリネズミのように逆立っていたが、なかなか粋な配色をした二毛の猫だった。背中が灰色で、お腹が白い。真っ直ぐな尻尾は、身体と同じくらいの長さがある。最初に感じた通り、目は大きく、耳も大きい。曖昧な茶色の目は、きりりとしたアイラインに縁取られていた。もし、毛が完全に乾いて、こんなに痩せていなければ可愛いのかも知れない、とエクタは思った。
 子猫は、次から次へと皿に落とされていたチーズを全て平らげてしまった。こんな小さな身体で良く食べるものだと感心するくらいの食欲だ。隣の皿に移って水を飲むと、一息ついた、と言わんばかりに、暖かくなった暖炉の前に陣取り、不器用な仕種で顔を洗い始める。
 エクタにとっては、子猫の動き全てが面白かった。さっきまであんなに人に助けを求めて鳴き喚いていたというのに、今はまるでエクタなど目に入らないかのように、一心に身繕いをしているのだ。前脚、後ろ脚、背中、お腹、尻尾。不器用ながらも何度も何度も身体を舐め続けるうちに、暖炉の火にも助けられ、子猫の毛はふっくらと乾き始めた。
 やはり、エクタが思ったとおり、なかなか可愛らしい猫である。子猫も毛繕いの成果に満足したらしく、小生意気にも大きな溜息をついた。
 それから、まるで初めてそこにいることに気づいたかのような顔をして、エクタの方を振り向いた。エクタは膝を抱えて座っていたのだが、トコトコと側にやってくる。
 お礼代わりに、甘えてくるのだろうか、というエクタの予想は半分当たり、半分外れた。
 子猫は当然のような顔をして、エクタの膝の上に乗ったのである。居心地を確かめるように何度か足踏みをし、「まあ、よし」というような感じで、座り込む。
 この行動には、エクタも笑ってしまった。
「おい、僕はソファ代わりなのかい?」
 子猫は大きな耳をぴくりと動かしたが、別に気にした様子もなかった。収まりがいいように、くるりと身体を丸めると、呆気ないくらいすぐに目を閉じて、眠る体勢に入った。
 傍若無人な猫の振る舞いに、呆れつつも、エクタは笑みを絶やすことができなかった。子猫がもっと心地よく過ごせるようにゆっくり膝の角度を変えて、ふわふわになった身体を撫でる。
 その途端、片手ですっぽりと身体が隠れる程の小さな猫は、身体に似合わぬ大きな音でゴロゴロと喉を鳴らし始めた。エクタが初めて聞いた、この子猫の満足の声だった。
 膝から伝わるその音がひどく愛しくて、エクタは何度も何度も子猫を撫でた。ゴロゴロは大きくなったり、小さくなったりして続いている。子猫はやはり少し熱く、心配が減ることはなかったが、その熱さは心地よかった。段々低くなったゴロゴロが、子守歌のように聞こえる。
 子猫の歌声を聞いているうちに、エクタは久しぶりの眠気が襲ってくるのを感じた。
 両手で子猫をすくい上げ、自分のベッドへ運ぶ。陶器の湯たんぽが入ったベッドは、仄かに暖かい。子猫は一度目を開けたが、すぐにベッドの上で目を閉じた。エクタはそれを確認し、火の始末をして、自分もベッドに潜り込んだ。
「おやすみ」
 足元にいる猫に、小さく声をかける。寝る前に挨拶ができる相手がいるのが、不思議に嬉しい。
 いつもは耳が詰まる程にも感じる静かな部屋に、子猫の寝息が安らかに響く。
 目を閉じて聞き惚れながら、エクタはいつの間にか安らかな眠りについていた。

 次の日の朝。小さなノックで、エクタは目を覚ました。
 覚えていないくらい久々に、ノックの音で目覚めた気がする。いつもは、このノックが聞こえる時にはすっかり用意を整えているのだから。
 深い眠りで、脳も身体もすっかり癒されているのがわかる。エクタが身体を起こそうとするのと同時に、脇の下でもぞもぞと動くものがある。子猫が知らぬ間に、布団の中に潜り込んできていたのだ。
 子猫は、エクタの顔を眠そうに見上げて、自分も一緒に起きる決意をしたようだった。ベッドの上で生意気な、可愛らしい伸びをする。
 エクタは、やれやれ、と微笑んだ。
 この猫に貰い手を探す必要は、もうないようだった。
 エクタは手早く着替え、それから廊下にいた若い侍女に声をかけた。
「おはよう。昨日の夜、子猫を拾ったんだ。飼おうと思うけれど、獣医はどこかな。熱があるようなんだけれど」
 その後、獣医により診察された子猫には、何の異常もないことをエクタは知らされた。猫は人間よりも体温が高いこと、この猫は生後二ヶ月ほどの雌であることなどを教えられた。
 そして子猫は、灰を意味する「ディアシェ」と名付けられ、エクタに想いを寄せる世の女性達が羨む程の寵愛を受けることとなる。

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