ぱたぱたぱた。慌ただしい小さな足音が聞こえる。
「リシア様っ! お待ちなさい!」
ばたばたばた。追う大人の足音。少女はそれを聞いて、ふいっと手近なドアを開け、中に滑り込む。細心の注意を払って少女は扉を閉めた。必死の表情である。
「リシア様っ! 逃げてもすぐにわかるんですからねっ!」
女性の怒気を含んだ大声が、すぐ近くで聞こえる。少女はびくっと体を硬直させた。しかし、女性は彼女のいる場所に気づいてはいないようだった。その証拠に、大人の足音は、通り過ぎていく。少女は、弾む息を押し殺し、しばらく外の様子を窺った。
リシアを呼ぶ声は、段々と遠ざかっていく。完全に声が聞こえなくなった頃、彼女はようやく大きく息を吐いた。
「ふあー、死ぬかと思った」
リシアは、ぺたりと床に座り込んだ。
服装こそさっぱりして飾り気がないが、よく見れば、気は多少強そうではあるものの、魅力的な顔立ちの少女である。数年もすればかなりの美人になるだろうと予想されるが、今はまだ女性らしい曲線に恵まれてはいない。そのせいか、十二歳という年齢よりは、幼く見える。
呼吸が落ち着いてくるに連れ、少女の表情は段々暗くなってきた。
ぽつり、とリシアは口に出す。
「泣きたい時くらい……私にだってあるんだから」
リシアは落ち込んでいた。口うるさい小言など聞く気がしないくらい、十二年の人生において最大級に落ち込んでいたのだ。
「……父様も兄様も……リシアのことはどうでもいいんだ」
透き通った大きな蒼い瞳が一瞬にして涙で曇った。はたはたと大粒の涙が膝に落ちる。
本当は、今日はリシアにとって最高の日になる筈だった。半年も前からの約束。家族三人水入らずで、自分の誕生日の日に母のお墓参りついでのピクニック……。
父が国王であり、兄が継承権を持っている以上、二人が忙しいのはリシアも王女としてわきまえている。だから、今までずっと耐えてきた。だが、今度は。今度ばかりは。
リシアは、少しは子供らしく期待していたのだ。どんなに忙しくて責任のある身でも、自分の為に少しは時間を割いてくれるのではないかと。それが、家族というものじゃないかと。
ところが、今朝、すっかり用意を済ませたリシアの前に立って、父は言ったのだった。
「リシア。申し訳ないが今日は駄目になった」
目の前が暗くなるような失望を覚えながら、それでもリシアは食い下がった。
「どうしても駄目なの? 今日って約束したのに」
「済まないな。イェルトとの間に緊急に条約が結ばれることになって、今日王子が見えることになったのだ」
「……わかったわ、じゃあ、兄様と二人で我慢する」
リシアとしては最大限の譲歩をしたつもりだった。だが、無理な笑顔を打ち砕くように、父は言ったのだった。
「エクタも、今日の条約締結の際に臨席してもらわねばならないのだ。今回の通商条約はかなり込み入ったものになる。ぎりぎりまで交渉が続く筈だ。その際、エクタにも我が国の代表の一人として発言してもらわなければならない」
リシアは、信じられないという顔をして、救いを求めるように父の側にいる兄の顔を見上げた。一番の理解者である兄は、リシアがどんな想いを今日にかけているのか知っているのだ。が、兄もまた、俯いて一言言ったのだった。
「ごめん、リシア」
裏切られたリシアの気持ちはこれ以上ないほど傷ついていた。
「大っ嫌い! 父様も兄様も、大っ嫌い! もう、二度と期待なんかしないから!」
今まで溜まりに溜まりまくった悲しみと怒りが、急速に二人に向かって吹き出した。いつも元気で笑顔のリシアが見せた負の激情に驚く二人を顧みもせず、リシアは走り出したのだった。
追う侍女をまいて、今や一人になったリシアは誰もいない広い部屋で号泣していた。
死ぬほど淋しかった。
母が死ぬまでは、そんなことはなかったように思う。兄のエクタはいつも側にいて遊んでくれたし、父王も執務中でもリシアを膝に乗せてくれた。妃である母はいつも優しい笑みを浮かべ、リシアがどこにいても見守っていた。