「失うかと……思った」
 食いしばった歯の間から、微かに、しかしはっきりとリシアはその声を聞いた。途端に、万感がこみ上げ、リシアの蒼い目にも大粒の涙が宿った。
「ごめんね、ごめんね……兄様、ごめんなさい」
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、リシアは謝った。今朝、自分が、兄の愛情を疑ったことがどんなに愚かだったか、彼女は思い知らされていた。
「わああん、にいさまあぁ……」
 リシアは怖かったことも、苦しかったこともすっかり忘れていた。それよりも、兄の方がどれくらい心配したかと思うと、辛かった。同時に、自分をどんなに兄が愛してくれているかも、はっきりと感じ、幸せな気持ちがこみ上げてくるのだった。
 ルイシェは、この光景を寂寥感と憧れを持って、少しの間、多少の気まずさと気恥ずかしさの中で眺めていた。そっと小屋を出ようとした時、感情の整理がついたらしいエクタに呼び止められた。
「ルイシェ……何と礼を言っていいか……感謝している」
 エクタの声には、親友に語りかけるような親しげな響きがあった。ルイシェは黙ったまま微笑んでそれに応えた。
 その時、涙をふきふき、ひょこ、とエクタの影からリシアが顔を出した。リシアも涙がやっと止まったらしい。
「兄様、この方は?」
「お前を助けて下さった方だよ。イェルトの第二王子、ルイシェ殿だ」
 リシアは、まじまじとルイシェの顔を見て、次の瞬間顔をぽん、と真っ赤にした。この黒髪の美少年に今までの光景を全部見られていたことに気づいたのである。
「あっ、あのっ……ありがとうございましたっ!」
 慌ててお礼を言うと、再びひょこっとエクタの身体の陰に隠れてしまう。その仕草を見て、エクタとルイシェは同時に吹き出した。
「さて、城に帰ろうか。父上に内緒でここまで来てしまったからな。多分リーザが晩餐会の時間を引き延ばしをしてくれているだろうが、困っている頃だろう」
 エクタは、拘束されて足がふらつくリシアを背負い、馬の待つ場所へと向かった。
 馬に乗ると、リシアはそっとエクタに耳打ちした。
「ねえ、兄様……ルイシェ様って、凄く綺麗ね」
 予想もしなかった言葉に、エクタは曖昧な笑みを浮かべ、溜息をついた。
「まあ、そうかもしれないが……さらわれた人間の科白とは、とても思えないな。助け甲斐のない姫君だ、お前は」
 その言葉を聞いたリシアはちょっと考え、次に悪戯っぽい顔で兄の頬に素早くキスをした。
「助けてくれてありがと、兄様」
「はいはい、どういたしまして」
 苦笑して、エクタはリシアの頭をくしゃっと撫でた。
 救出は、こうして成功裏に終わった。レモン型の月が微笑むかのように東の空から顔を覗かせていた。馬はその光の中を早足で駆けていった。
 リシアは、自分がまるでおとぎ話の中の姫君のようだ、と思いながら、兄の腕の中でその月をずっと眺めていた。後ろを走る馬の音を意識しながら。

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