本陣のテントの側に、ルイシェの為の小さなテントが設えられた。その中で、ルイシェは一心に呪文のようなものを唱えていた。
 既に深夜になり、テントでは蝋燭が灯されている。細い光に浮き上がるルイシェの姿は、誰も見る者がいないのが残念な程、秀麗である。
 ルイシェが口にしているのは、あの妖術士カロームが兄ロージョを倒した時に唱えていた言葉と、同じ部類の呪文であった。が、発せられるのがルイシェからの為か、内容が違うのか、柔らかな響きが常に織り込まれている。
 ルイシェは、母に感謝していた。学者の、それも魔法の類を研究する家に生まれた母の教えてくれた、様々な護身術。その中には、バルファンの妖術に対抗する為のものも含まれていたからだ。
 バルファンの妖術で使う言葉は、音に秘密がある。振幅数を微妙に変化させることにより、物理的な力を得るのだ。また精神的にも、長時間にわたり、繰り返し同じ音を聞かせることにより、影響を与える。この効果は二,三日持続する。魅了、混乱、麻痺、それは妖術が精神にダメージを与えた時に表出する主な特徴であり、ルイシェが状況だけで、すぐに妖術士がいると見抜いたのには、そのような理由があった。
 ルイシェが今口にしているのは、音の妖術を解除する為の呪文であった。
 少年の、柔らかな音の響きが続く。心地よいその音には、次第に子守歌に似た波長が含まれてきていた。
 と、ルイシェがふと、唱えるのを止めた。
 ピーン、と耳障りな高い音が、ルイシェの呪文を切断するように入ってきたのである。蝋燭が、ゆらりと不気味に揺れる。音は一瞬で消え、不気味なほどの静寂が訪れた。
「気づかれたか……」
 予想通りの展開である。ルイシェは立ち上がり、外で待機していたセルクに声を掛けた。
「セルク! 馬の妖術はほぼ解き終えたと、軍団長達に伝えてくれ。日が昇ったら手筈通りに攻め込む」
「はい、ルイシェ様」
 セルクが走っていく音を聞きながら、ルイシェは一人で行わなければならない対決に備えた。
 ルイシェは、護身の為の、いわば防御法しか知らない。相手がどんなに攻撃してこようとも、自分から呪文を使って相手にダメージを与えることはできない。
 相手は幼い頃から妖術を叩き込まれた、邪宗の僧侶である。本気になった妖術士に直接呪文をぶつけられれば、どこまで自分が耐えられるかわからなかった。
 エルス国を出た時から、ルイシェはリシアから預かった首飾りを、服の下にずっと身につけていた。鎧をずらしてそれをそっと引き出し、リシアの瞳に良く似た蒼い宝石の輝きを見つめる。
「リシア……」
 怖かった。今までに感じたことのない恐怖だった。
 だが、それは生きる為の、前向きな、必要な感情。
 ルイシェは大きく武者震いをした。呼応するかのように、蒼い宝石が輝きを増す。何かの意志を持っているかのように。
 誘われるかのように、ルイシェは宝石に軽く口づけをした。宝石がより鮮やかにきらめいたのは、気のせいか。
 そしてルイシェは服の中に首飾りを再びしまい、孤独な敵との攻撃に備える。

 カロームは、ルイシェの声を空気の中に感じ取っていた。普通の人間の耳では聞こえない程遠くからの声であるが、バルファン教典独特の音の流れは、可聴範囲を超え、物体に影響を与える。その僅かではあるが、確実な感覚を、カロームは捉えたのである。
「……イェルトに……バルファンの僧侶が……? ……いや……ミスクから連絡は……なかった……足を洗った僧侶か……?」
 ぶつぶつと不気味に呟く。先程障害音を入れて、イェルトからの音を止めたが、既に馬に与えていた影響は解除されていた。
 妖術が使えないとなれば、戦力的に見れば、軍事国家の側面が強いイェルトは、格段の破壊力を持つ。例えデュアグ軍が三倍の兵を持とうと、勝てるという確証はなかった。
「バルファン様、ご加護を」
 そう呟くと、彼は魅了の言葉を次々に送り出した。

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