生ぬるい風が頬を撫でるような感覚が、ルイシェの許に届いた。
 母に教わった、バルファンの呪文を受ける感覚。
 ルイシェは、すぅ、と息を深く吸い込むと、柔らかな響きに包まれた、似て非なる呪文を唱え始めた。
 声の中に含まれる、音ならぬ音が妖術士の放った呪文に変化を与え、打ち消していく。
 呪文は数分間受け続けなければ、その効果は殆どない。つまりルイシェが、音の聞こえる間ずっと、その呪文を打ち消していけばいい。
 だが、それは過酷な作業だった。単純且つ、精神的な疲労を激しく伴う作業である。母に手ほどき程度に呪文を習ったルイシェに、ずっと防ぎきれる保障などどこにもなかった。
 一時間、二時間。
 妖術士の呪文は、全く途絶えることがない。
 ルイシェも、それを良く受け止めていた。
 日の出の総攻撃まで、あと数時間。それまでは、ルイシェが口を止めることは許されなかった。ルイシェは押し寄せる疲労を、必死で堪えていた。
 三時間、四時間。
 一秒一秒が、苦しみと共にやってくる。ルイシェの声は、僅かに掠れ始めた。しかし、その効力を落とすことなく、ルイシェは呪文を唱え続けた。一度声を出すのを止めれば、もう二度と呪文が口から出なくなるような気がした。魅了の妖術を丹念に聞きながら対処するルイシェは、自分から発せられる言葉で、何とか相手の術にかかることを免れているようなものだった。
 ルイシェの心の中には、リシアの笑顔だけが映っていた。
 もう一度、リシアに会うまでは。
 リシアに、首飾りを渡すまでは。
 限界をとうに越えた精神状況の中、ルイシェは崇めるかのようにリシアの姿を心に映し続ける。
 
 第一軍団長のメルハは、本陣のテントに軍団長を集めていた。ロージョが死亡した後、実質的に軍の統制を取ってきたのはメルハである。
「ルイシェ様は今戦っておられる。が、いつまでもたれるかわからない。声が段々掠れてきておる。我々は、日の出と共に出撃する予定となっているが、一時間繰り上げ、あと三十分で出撃しようと思う。馬も帰ってきた今、三倍の敵でも、我々の実力ならば勝機がある」
 軍団長達は頷いた。その中には、セルクの姿もあった。
 あの、幼ささえ残る少年が行った、驚くべき奇跡について、最初は気味悪がっていた者も、次第に見えない敵と延々と戦い続けるルイシェを、認めざるを得ない気持ちになっていた。
「我らは川上におる。最初にロージョ様がお立てになった作戦が基本だ。ただ、こちらは人数が少ない。少し変更をいたす。まず、最初に弓兵軍団と幾つかの投石機部隊を、明かり無しで高い位置に向かわせる。弓兵が到着した頃、騎馬軍団と歩兵軍団は松明を持ち、正面から敵に近づく。相手が騎馬軍団と歩兵軍団に気を奪われている間に、弓兵軍団と投石機部隊は一気にそれを叩き潰す」
 言葉と共に、メルハはトン、と机の下にある地図のデュアグ陣営の位置を叩いた。
「敵が浮き足立ったところで、騎馬軍団と歩兵軍団は一気に白兵戦に入る。ここから先は、いつもの戦闘通り。妖術士さえ封じておれば、訓練と実戦にて経験の豊富な我々の方が、必ず有利だ。ロージョ様の仇を討つ」
 老将の言葉の中には、確信の込められた勝利への期待が含まれていた。
 軍団長達は、一斉に息を呑んだ。これまで、やられる一方だったのが、実際に勝てるかもしれない、と実感がわいてきたのである。
 メルハと軍団長達は最終的な細かい打ち合わせを手早く済ませた。
「それでは、解散! あとは天に運を任せよう。我々に勝利が導かれんことを!」
 おう、と軍団長達の太い声が響きわたった。
 最低まで落ち込んでいたイェルト軍の士気は、一人の少年の出現で、今までになく盛り上がりを見せていた。

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