夜明け前。イェルトの進軍は始まった。
 まだ静寂の中にあった谷は、進軍の足音に、一瞬にしてざわめきに包まれた。
 ざあっ、と羽を休めていた鳥達が一斉に羽ばたき、まだ暗い空に一群の影を作る。
 デュアグ軍でも、イェルトの騎馬軍団が持つ松明にすぐに気づいた。陣営が慌てて迎撃体勢を整える。何とか、騎馬軍団の攻め込むまでには準備は整いそうであった。
 しかし、そのデュアグ軍の見通しは外れることになる。その時にはもう、イェルトの弓軍団、投石部隊は、マズールが狭隘な渓谷であることを上手く利用し、敵陣を高い位置から包囲していたのである。
 ひゅんっ! ひゅんっ!
 静かな合図の後、一斉に矢が放たれる。
 暗闇から、しかも上空から降り注ぐ無数の矢、岩。寝起きのデュアグ軍の兵士達は、身を守る術もなく、次々と倒れていった。呻きや悲鳴があちこちから上がる。
「ちっ、カロームの野郎、全然役に立たん!」
 デュアグ軍を率いる大将であるレプスは、寝癖のついた頭に兜を被りながら舌打ちをした。本陣のテントにも、先程一本の矢が飛び込んできて、否応なしに現状を知らされた気分である。
「カローム! カローム! 生きていたらこっちに来い!」
 昨日までの慇懃さの欠片もなく、隣のテントにいるカロームを呼ぶ。
 カロームは何も言わずに、すぐに本陣にやってきた。その目に、暗く凄惨な光が宿っている。全身にどっしりとのしかかるような疲労がある筈だが、怒りがそれを打ち消しているようだった。全身から、毛の逆立つような殺気が漂っている。
「……誰だ……誰だ……」
「どうでもいいんだ、そんなのは。この状況を見たな? このままじゃ負けるぜ。向こうにも妖術士がいるんだろ? どうする?」
「殺す!」
 カロームが低く、呟く。
「……殺す、殺す、コロス……」
 カロームにとって、屈辱であった。相手が僧侶でないらしいことは、一向に攻撃を仕掛けてこないことから、もう分かっていた。なのに、どんなに呪文の効力を強くしても、その誰かは苛々するような穏やかな音で、無効にしてしまう。一晩中続いたその攻防に、カロームは完全に逆上していた。僧侶でもない相手に手こずったとなれば、僧侶の地位を剥奪されることは明白である。狂信者と言っても過言ではないカロームにとって、それは死にも等しかった。
「おい、一人殺せば、それで勝てるのか?」
 呆れ顔のレプスを、カロームは総毛立つ程の冷たい視線で眺めた。瞬時に、のたうち死んでいったロージョの姿が頭をよぎり、レプスは受け身に回る。
「……わかった、わかったよ。この戦争はあんたに任せるよう、上から言われてるからな。従うさ」
 レプスは心の中で、貧乏くじを引いてしまったことを心から悔いた。この戦争は勝って当然と言われて大将として参戦したが、負けると知っていれば、絶対に来なかった。デュアグ軍大将を三回こなし、それが全て勝ちであれば、上級貴族と等しい将軍の名前を冠することができる。その三回目で、まさか敗北色が濃厚になっているとは。
 レプスは腕には余り自信がない。あるのは、他人との駆け引きの上手さだけである。だから、このような状況には滅法弱かった。そうでなくても、カロームに従うしかないのかもしれなかった。
「俺の運もここまでか?」
 小さく呟き、盾で身を守りながら本陣テントを後にする。その後ろを、カロームが影のように追い立てていた。

NEXT
章の表紙に戻る
トップページ