ルイシェは、一時の休息を許されていた。
 ルイシェの声が止まったのを心配して、出撃していなかったセルクがテントを覗く。
「ああ、セルク……大丈夫だよ。やっと、向こうの呪文が止まった……」
 疲れ切って、口が思うように回らないルイシェに、慌ててセルクは本陣テントから水を持ってきた。
「ルイシェ様、もうお話にならなくてもよろしいですから」
 ルイシェは素直に、無言で水を口に含んだ。疲れ切った喉を、優しく水が癒やしていく。それと一緒に、全身から力が、ほうっと抜けていく。
 十二歳年上の乳兄弟でもあり、ルイシェを主人とも弟とも、或いはもしかしたら子供とも思っているセルクは、ルイシェのその姿を見て、心が痛んだ。しかし、ルイシェの視線に促され、ルイシェの望む情報をすぐに教えた。
「ルイシェ様、現状を少し説明します。音でお解りかと存じますが、軍は予定を早め、日の出の一時間前に作戦を開始しました。総指揮はメルハ軍団長に全てお任せしております。現在のところ、作戦は順調のようです」
「ありがとう」
 短く礼を言い、ルイシェは目を瞑ったまま、天を仰いだ。
「何とか、なったの……か?」
「はい、多分。後は、皆が戻るのを待つだけです」
「僕もすぐに出かけなければ。皆が戦っている時に、僕が休むわけには……」
 セルクは慌てた。本当に行きかねないのがルイシェだからである。
「それは流石に無理です。足手まといが増えるようなものですよ。少しお休み下さい」
 それを聞くと、ルイシェは上を見たまま、その黒い瞳をゆっくりと開いた。その中で蝋燭の光が、ゆらゆらと反射する。掠れた声が、小さく呟く。
「セルク、戦争はエクタの言ったように無意味だね。僕がこうしている間にも、すぐそこで幾つもの命が無くなっていく。でも、戦わなければ生き残れないのなら、生きる目的があるのであれば、やはり人は戦うんだろうね」
「ルイシェ様……」
「僕は、今、生き残る目的がある。同時に、王子として、大将として、戦っている兵達の命をできるだけ助ける義務がある。剣術や護身術、様々なことを教われたのは、僕が王子だからだ。人よりもいい教育を受けてこられたのは、国民の命を守る為だと思う。だから、僕は自分の持っている全ての能力を、自分の為だけでなく、兵の為にも使わなければならない。足手まといになることは本意ではないけれど、僕はまだ動けるよ」
 ルイシェは強がりからそう言っている訳ではなかった。
 呪文を唱えながら、軍隊の出発する足音を耳にした時、それまで感じたことのない胸の痛みを感じたのだ。初めての実戦だから、というのと同時に、生きることに執着したからこそ知る、他の命。この足音の一つ一つに、それぞれの人生があるという、実感として知る命の重さ。
 自分が大切だと思う人がいるように、その一人一人にも大事な人がいるに違いないと思った。一人が死ぬだけで、泣く人は何人いるのだろうか。そう考えると、動かずにはいられなかった。
「わかりました、ルイシェ様。鎧と武器を用意します。私もお供します」
 セルクはルイシェの表情を見て、意見を変える気持ちがないことを察した。ルイシェを心配する反面、ルイシェのその判断が誇らしかった。
 エルス国の訪問以来、セルクはルイシェが別人のように思えることが度々あった。そして、その原因がリシア王女にあるらしいことも、薄々と感じていた。少しルイシェが大人になってしまって、淋しくも嬉しくもある複雑な心境である。
 ルイシェが誰かに想いを寄せるのが初めてだと知っているセルクは、精悍な頬に笑みを浮かべ、乳兄弟の気安さでルイシェに鎌をかけてみた。
「ルイシェ様のこの姿を見たら、きっとリシア様はお喜びになられますね。生きて戻ればルイシェ様も次期国王。何年か後には、リシア様をお嫁に貰えるかもしれませんよ」
 虚を突かれたルイシェは面白いくらいに赤くなり、狼狽える。
「セルク! 何を言い出すんだ!」
「思ったことを申しただけです。そんなに慌てなくても……本当にルイシェ様は正直ですね。真っ赤ですよ? やはり、一人の女性の存在は少年を大人にするんですね」
 横を向いてしまったルイシェの頭に、セルクはぽん、と手を乗せる。ルイシェがまだ幼かった頃のように。そして、打って変わって生真面目な声で言う。
「それでいいんですよ、ルイシェ様。あなたに足りなかったものを、リシア様が下さったような気が私はします。私や母、ライラ様が教えられなかったものを、リシア様は教えて下さったのです。それを大切になさって下さい」
 ルイシェは、セルクに何もかも見透かされているような気がして、何も言えなくなった。すっと立ち上がり、ふうっと息を吐く。
 顔を上げた時には、ルイシェは次期国王の顔になっていた。
「行こう、セルク」
「はい」
 二人は装備を整え、本陣のテントから厩舎に向かった。
 ルイシェを激しく憎む敵が、もう、すぐそこに迫っていることも知らずに。

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