ほぼ時を同じくして、マズールでも一陣の風が吹いた。厩舎の中で何かを感じたかのように、馬がいななく。大気に、背筋の凍るような殺気が満ちていた。
 厩舎の前にいたルイシェとセルクは、その只ならぬ激しい殺気に、無言で剣を抜いていた。エルス国王から渡された、新しい切れ味の良い剣である。敵の姿は見えないが、至近距離にいるらしいことは、その殺気の物凄さから間違いがないようであった。冷や汗がつうっとルイシェの頬を流れ落ちた。この状況で多くの敵に囲まれれば、流石に為す術がない。
 セルクが生唾を呑んで、短く問う。
「例の妖術士でしょうか?」
「多分」
 二人は背中合わせになり、敵の出現を待った。
 その時。
 低い、呪いに満ちた声がすぐ近くの木の陰から響きわたった。
 至近距離からの呪文は、それだけ影響も強い。ぐいっと身体を押さえつけられたような感覚が二人を襲う。ルイシェは喘ぎながら、咄嗟に防御の呪文を唱えた。すぐに身体の束縛はとれる。敵の呪文もすぐに止んだ。どうやら、どちらが本当の敵かを見極める為のものであったらしい。
 代わりに怒りと悔しさに満ちた言葉が、同じ声で吐き出される。
「……こんな、小僧が……」
 ぶわっと黒い影が、ルイシェ達の前に飛び出てきた。
 真っ黒のローブから覗く、血の気の無い、灰色のかった肌。ぞくりとする程冷たい目。カロームである。その目が、負の感情に燃えていた。
 かなりの重みのありそうな鉄杖をしっかりと構え、ルイシェだけをひたりと見つめる。
「……お前は……バルファン様を……侮辱した……万死に値する!」
 くもぐった声が鋭くなったのと、軽々と鉄杖が振り下ろされたのは、全く同時だった。
 びゅん!
 空を切る音と同時に、反射的にルイシェは横に飛びすさった。鉄杖は、ルイシェのすぐ横をかすめ、地面近くで止められた。ローブに隠されたカロームの体は、意外にも筋肉が発達しているようであることが今の一撃で容易に予想できた。
「ルイシェ様!」
 助太刀をしようとしたセルクに、木の陰からもう一人の影が躍りかかる。レプスであった。
「お前の相手はこっちだ!」
 挑発をしながらセルクの自分に興味を惹きつける。レプスはまともに戦うつもりはなかった。カロームが少年を倒すまでの時間稼ぎをすれば、それでいい。少年を倒すのを見たら、レプスは遁走するつもりだった。
 セルクも、レプスよりもルイシェが気になって仕方がない。二人は、対峙しながらもルイシェとカロームの戦闘の行方を横目で見守った。
 びゅん! びゅん!
 カロームは何も言わずに、鉄杖をルイシェに向けて何度も何度も振り下ろす。ルイシェはぎりぎりのところでそれを躱す。しかし、それにも限界があった。
 がきっ!
 鈍い音を立て、ルイシェが剣の根本で鉄杖を受け止める。ぎりぎりとお互いの力と力がぶつかり合う。
 ルイシェが、カロームの目を真っ正面から睨み付け、尋ねた。
「兄を……ロージョを殺したのは、お前か?」
 カロームは腕に更に力を込めながら答えた。
「……そうだ……いい、生け贄であった……のたうつあの様は、さぞバルファン様も……お喜びであったろう……」
 ガッ!
 鈍い音を立てて、ルイシェが離れる。その目に、初めて純粋な怒りの炎が宿った。
「いい生け贄だと!? ふざけるな!」
 一気に間合いを詰め、横に薙ぐ。しかし、カロームはひらりと躱した。
「……生け贄になれただけ……ありがたく……思え……お前もそうしてやる……」
 呼吸も感じさせず、鉄杖は目に見えないスピードで振り下ろされていた。
 ルイシェは本能的に、鎧で覆われた左腕で、頭の前を庇った。
 グシャ!
 嫌な音が辺りに響く。

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