手に、感触が残っていた。生きた人間を斬る、初めての感触。
 耳に、声が残っていた。死に際に口にされた、女性の名前。
 目の前には、先程まで生きていた人間が、骸になってそこにいた。
 左腕が切り落としてしまいたい程にずきずきと痛む。立ち上がれないほどの脱力感。頭が酷く混乱する。朝日が目にしみる。そして。
 ルイシェは涙を流していた。
 己の行為をどう正当化しても、人を殺したことには、変わりがなかった。仕方が無かった、そう自分に言い聞かせても、良心はすぐに自分を責め苛んだ。
「ルイシェ様!」
 セルクは剣を放り出し、駆け寄った。レプスは、戦意を完全に喪失し、そこに立ち尽くしている。
 ルイシェのへし折られた左腕を、セルクが苦労して鎧の中から引き出し、手当てをする。その間も、ルイシェは何も言わずに呆然としたまま、動かない骸を眺め続けていた。
「ルイシェ様……これで良かったのです。これでいいのです。ルイシェ様は生きなければならなかったのですから。敵は明らかな殺意を持っていたのですから」
 セルクには、ルイシェの心の中が手に取るようにわかった。戦争に参加すれば、繊細なルイシェである、人を殺すだけでも衝撃があるだろうとは思っていた。が、今回のカロームの死に様は、ルイシェにとって最悪であることは間違いなかった。
 敵方の大将であるレプスまでもが、ルイシェに同情をした。レプスには、あれがカロームの手であろうことはわかっていた。
 多少間の抜けた声で、レプスは恐る恐る切り出した。
「カロームのことは残念だが、第一王子はもっと酷い殺され方したんだ。敵討ちだと思っていいんじゃないかな」
 セルクが、キッとレプスを睨む。
「貴様、どういうつもりでそのような事を言っている?」
 レプスは少し逃げ腰になりながら、言った。
「いや、これには深い訳があって……つまり、今回の戦争はミスクのテコ入れがあって初めて起こった戦争で、その為に派遣されたのがカロームで、奴が死んだら戦争している意味はデュアグ国には無いわけで、そうじゃなくても今回敗戦色が濃厚になっちまって、それでもって……俺が、デュアグ軍の大将な訳だ」
 厳しい表情を崩さないセルクに、慌ててレプスは付け加える
「勿論、捕まえるんだったら俺は逃げるよ? でも、戦争の終結をお互い確認して、ここで平和的解決っていうのも悪くないんじゃないかな。被害がお互い減るし。その坊ちゃんが第一王子の代わりに来た大将なんだろ?」
 セルクは立ち上がり、剣を抜きはなった。殺気がよぎる。低い声が漏れる。
「貴様は……大将にも関わらず、意味のない戦争と言ったな。それが人命を担う者の言葉か!」
 ひぃ、と情けない声を出し、レプスは数メートル後ろに退いた。
「やめろ、セルク」
 ルイシェが、流れる涙を拭おうともせず、立ち上がった。頬に浴びた返り血が涙と混ざり、まるで血の涙を流しているように見える。血の気を失った白い整った顔には、凄絶すぎる装飾であった。ルイシェは、まっすぐにレプスを見る。
「本当にあなたが敵の大将ならば……僕はこの戦争を一刻も早く終わらせたい。あなたは敗戦を認めるのですか?」
 レプスはこくこくと何度も頭を上下に振って、肯定の意を表した。
「それは、デュアグの総意と見なしてよいのですね」
 また、頷くレプス。
「セルク、彼から武器を取り上げてくれ。僕は彼と一緒に戦場に向かい、終戦を告げに行く」
 ルイシェは、強張った右手を開き、剣をカラン、と地面に落とした。武器を持っていること自体、苦痛になっていた。鎧を早く脱ぎ捨てたかった。
 何かを失ってしまったような重く辛い気持ちだけが残る。
 リシアのことを思い出すのが怖かった。自分が、穢れた人間に思われて仕方がなかった。人を斬る感触が、死の直前の言葉の記憶が、もう元の自分には戻れないのだと囁いているような気がしてならない。
 涙は、やはり止まらなかった。

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