数刻後、イェルト軍は歓声に包まれていた。ルイシェという一人の少年の参入により、完全に負けると思われた戦争に勝ったのである。
明日には軍は首都へ戻ることができる。デュアグ軍は、早々に退却をしていった。長期戦を覚悟し、切り詰めていた食糧と酒も、その必要がなくなったことで、遠慮なく存分に兵や谷の住人達に振る舞われる。皆の喜びと、ルイシェへの賞賛の声がマズール峡谷内に響きわたっていた。
その声を、ルイシェは小さなテントの、ベッドの中で聞いていた。疲れたから、と引きこもって一人になって、やっと少し落ち着くことができた。不自由な左腕は、副木を当てられ、包帯でぐるぐる巻きにされている。
仕方がないのだ、と無理矢理思うことで、ルイシェは精神の均衡を保っていた。
結果的には、カロームを倒したことで、戦争の元凶を断つことができたらしいことは、レプスが口にしていた通りだ。運が良かったといえば、良かったのではある。他のたくさんの命を手にかけずに済んだのだから。
しかし、そう自分を丸め込むには、ルイシェは純粋すぎた。人間を殺したという事実が、重く纏わりついてくる。
身体も心も疲れ切っているのに、全ての神経が棘を持っているかのようで、眠ることができなかった。腕からの痛みもそれに拍車をかけていた。眠っても悪夢にうなされるのはわかっていたから、ルイシェは無理に眠ろうとはしなかった。薄い、気持ちの悪い膜に包まれて、現実から遮断されてしまった気がする。ルイシェはその嫌悪感を必死で拭おうとしていた。
その時、テントの外で控えめな咳払いが聞こえた。
「誰だ?」
ルイシェはすぐに反応した。答えたのはセルクの声だった。申し訳なさそうにしている。
「私です。起こしてしまって申し訳ございません。早馬が手紙を持ってきたので、早い方がよろしいかと」
「いや、起きていたよ。入ってくれ」
セルクは、小さな封筒を手にテントに入ってきた。疲労の色が消えないルイシェの表情に、顔を曇らせる。
「お休みになれないのですか? 医者に薬を貰ってきましょうか?」
「大丈夫。少ししたら眠るよ。それより、手紙というのは?」
セルクはそっとルイシェに小さな封筒を手渡した。封筒の裏に、優しい、丁寧に書いた文字が見える。リシア、と書かれていた。
ルイシェの黒い瞳が動揺に揺れる。
「私はこれで失礼しますので、ゆっくりお読み下さい」
すっ、とセルクはすぐにテントから去ってしまった。ルイシェは、一人、封筒を見つめた。
リシアからの手紙。
本来ならば、心待ちにしている物であった。昨日であれば、どんなにか純粋に嬉しかっただろうか。
なのに今のルイシェは、嬉しいのと同時に、それよりも深い自己嫌悪が走るのを覚えずにはいられなかった。
しかし、その手紙を読まずにいることはできなかった。少し躊躇った後、封筒の蝋を右手だけで苦労して剥がし、便箋を取り出す。そして、その短い手紙を読み始めた。
それは、リシアがルイシェの出発から一週間後送った、あの手紙だった。
読み進むにつれて、ルイシェは胸がどんどん苦しくなっていくのを感じた。
不安を覚えながらも、自分を励ますリシア。自分を理解しようとしてくれているリシア。手紙からは、リシアの暖かさが余すところ無く伝わってくる。
どうしようもなく、愛しかった。目の前にリシアがいたのならば、リシアがそうしてくれたように、抱き締めたかった。
だが、ルイシェの中に生まれた大きな澱みは、リシアと自分はもう同じ世界に立てないのだ、と囁いていた。平和な、人を殺すことを罰する国に生まれたリシアは、きっと自分を拒絶するだろう。しなかったとしても、ルイシェの良心が、リシアの側にいる自分を拒絶する。
ルイシェは、手紙を折り畳み、封筒の中に戻した。
そして、返事を書くために机に座った。ずっと胸に付けていた、首飾りを外す。生き残ったのだから、この首飾りは返さなければならない。
首飾りの蒼い宝石は、光の加減か、まるで血が混じってしまったように紫がかって見えた。
しばらくの間、ルイシェはその首飾りを見つめたまま、何を書けばいいのか悩んでいた。書きたいことは山ほどあったが、自分の心中を全部吐露して、リシアに自分の苦しみを押しつけたくなかった。自分の苦しみは自分で背負わなければならない。
最終的にルイシェがペンを取り、書いたのはこれだけだった。
リシアへ
首飾りを返します。
ありがとう。
ルイシェ・レーヴイナス・イェルト
血の吐くような思いで書いた「ありがとう」だった。
ルイシェの壊れた心が、マズールの地に刻み込まれた。多くの失われた命と、多くの壊れた心と共に。