その頃、イェルトでは胎動が起きていた。
 首都イェルティの裏通りに立つ、うらぶれた宿。そこの中の酒場で、一人の男がぐでんぐでんに酔っぱらっていた。
 色褪せた、伸びすぎた黄色の髪、ぼうぼうに生えている髭。元はまずまずいい男だったろうに、すっかり脂下がった中年男である。服から覗く弛んだ腕には、痛々しい鞭の傷跡があった。
「わたしは……許さないぞぉ……復讐……くそっ」
 酒臭い息から発せられる言葉は、もう意味を成していない。
 そう、彼はエルス国で王女を誘拐し、鞭打ちの刑を受け、その後国外に追放された、ダシルワであった。彼は居場所を求め、イェルトに滞在していたのだ。
 安い酒と僅かな金でぼろぼろになりながら首都に着いたダシルワは、忌まわしいあの時、エクタ王子に加担した、あの少年が凱旋帰国をするのを目の辺りにした。驚愕したダシルワは隣にいた人の襟首を掴んで問いただした。
「だ、誰だ、あれは!」
「わわっ、何だよ! あれはルイシェ王子に決まってるじゃないか」
「ルイシェ……そうだ、ルイシェだ……」
 聞き覚えのある名だった。ダシルワは、てっきりあの少年はエルス国の人間だと思っていた。
 エルス国を深く恨んでいたものの、追放され、帰る度胸も持ち合わせていなかったダシルワは、復讐の狙いをその時変更した。ルイシェという、あの小生意気な少年は、自分を更なる破滅に追いやった張本人なのだから。
 それ以来、彼はこうして安い酒場で一日中過ごしているのだった。
 復讐をしたくとも、今のダシルワには仲間も力もない。その無力感が更にダシルワの恨みに拍車をかけていた。異様な空気を発するダシルワに、宿屋の店主も客も声を掛けるに掛けられず、ただ、言いなりになって酒を出すだけだった。酒はとうに「ツケ」という名の只呑みになっていた。
 困り果てた表情の店主が、その日もおずおずとダシルワに一番安い酒を出し、帳場に戻ってくると、黒いローブを纏って、顔の良く見えない男が店主の前に立った。
「いらっしゃいませ、お泊まりで?」
 男は、何も言わずにざらっと大きな革袋を逆さにし、金貨を山積みにして、台の上に置いた。
「!?」
「……これで、あの男のツケは払えるか?」
 発された声は、外国の訛りが強く聞き取り辛かったが、低く太かった。
「と、とんでもない! あ、いえ、こんなに貰ったら、うちが一軒買い取れますよ!」
 店主は余りの金額に、震える声で言った。男は無表情に、店主の顔をちらりと見る。そして少し考えた後、こう店主に頼んだ。
「そうか。ならば、これを全部やるから、あの男の部屋を用意してくれ。少し話がしたい。」
 首を壊れたように上下に振り、店主は久しく使われていなかった、この宿で一番いい部屋の鍵を手渡した。
 黒衣の男は鍵を受け取ると、ゆっくりと後ろからダシルワに近づいた。酔い潰れたダシルワの上から覆い被さるように、耳元で小さく語りかける。
「捜しましたよ、ダシルワ」
 ダシルワは焦点の合わない目で、黒い男を見つめた。
「誰だ、あんたは? 私はあんたのことなんか知らないがね」
「そうでしょう。でも私はあなたのことをようく知っている」
 くすり、と悪魔の微笑み。囁く、気味の悪い猫撫で声が、ダシルワを唆す。
「ルイシェ王子に復讐をしたいのでしょう? 私が、力を貸します」
 どろりと濁ったダシルワの瞳に、黒い情念の光が宿る。
「復讐……できるのか?」
「ええ。部屋を取りました。そこで詳しい話をしましょう」
 よろよろと立ち上がるダシルワを、男が支える。
「本当か? 本当なのか?」
「本当ですとも」
 何度も繰り返すダシルワを、男はなだめながら、ゆっくりと部屋へ移動させて行く。
 そう、まるで昆虫が獲物を巣に持ち帰るかのように。

 第二章 了

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