そして、夜は開けた。
まだ薄暗いうちから、王の戴冠式、そして結婚式の準備の最終点検が、あちこちで行われていた。
緊張と城内のざわめきで、リシアはハルマから起こされるよりも大分早くから、起きてしまっていた。慣れない鎧戸を、苦労して開ける。
朝靄の立ちこめる、イェルトらしい朝だ。結婚式が始まる昼までには、靄もすっかり消え、余り風が強くなければ、いつも通りの青い空が広がるだろう。
準備の為にルイシェの戴冠式が見られないのが残念だったが、リシア自身も予定表を見る限りは、相当に忙しいらしい。窓を開けたまま椅子に座って予定表を丹念に確認し、そしてこれ以上覚えることがないと断言できるほどになってしまってから、リシアはようやく溜息をついた。
大きな行事には参加しなれている筈だが、結婚式はやはり別物だ。
冷たく湿った外の空気を吸い込みながら、リシアは高鳴る胸を落ち着かせようと努力した。
その時、扉が控えめに叩かれ、侍女のハルマが部屋に入ってきた。リシアの姿を見るなり、頬を赤らめてにっこりとする。
「おはようございます。リシア様、良くお眠りになれましたか?」
「おはよう、ハルマ。ええ、十分に眠ったわ」
本当のことを言えば、うつらうつらしていて十分に眠れたとは言い難かったが、リシアはハルマに気を遣わせたくなかった。
ハルマは気のつく娘らしい。リシアがどういう状態かは、すぐに理解したようだった。しかしそれを口にすることもなく、てきぱきと働き始める。
「それでは、朝食の準備をいたします。花嫁衣裳に着替えてからは、夜まで食べる時間がございませんので、どうぞたくさん召し上がっておいて下さいね」
ハルマの言葉に、リシアががっかりした、しかしおどけた表情をした。
「あーあ。結婚式は楽しみだけれど、私、案外食べる方だから、すぐにお腹が鳴ってしまいそう。結婚式でお腹が鳴ったら、みんな気づかないふりをしてくれるかしら?」
今日から王妃になる乙女の、気軽な語りかけに、ハルマがくすりと笑う。しかし自分がとんでもないことをしたかのように、すぐに謝った。
「し、失礼しました。あ、あの、リシア様を侮辱する意図はこれほどもなく……」
突然頭を下げたハルマに、リシアの方が驚いて、澄んだ蒼い目を見開く。すぐに何故ハルマが謝っているのかに気づき、リシアは自国とイェルトとの身分意識の差を痛感した。できるだけ柔らかく、ハルマに語りかける。
「ねえ、ハルマ。私、あなたが笑ってくれて、とても嬉しかったのよ。私、笑って欲しかったの。今日からルイシェが王になるわ。ルイシェは、学者出身のライラお義母様の息子。時代が変わるに違いないと、私は思っているの。勿論、昔の美点は残したいわ。けれど、笑いたい時に笑えないような日常を、私は誰にも送って欲しくない。だからハルマ。笑ったことを、謝らないで」
ハルマの藍色の目に、驚きと尊敬の色が同時に走った。ハルマの唇に、微笑みが浮かぶ。
「分かりました、リシア様」
聡明そうなハルマの一言に、リシアは心底ほっとした。
「良かったわ。私、この国でも上手くやっていけるって、ハルマのお陰でそう思える」
天真爛漫なリシアの笑顔に、ハルマの心の中で描いていた王族の冷たい印象が、みるみる溶けていった。
中庭の館では、ルイシェが慌ただしく準備を進めていた。
セルクの力を借りて、立派な、儀式用の服に袖を通す。金糸や銀糸を織り込んだ服は、全てを身に付ければ、かなりの重みがある。
「これは、戴冠の儀だけでも疲れそうだね。この重さだけの責任があるってことを、思い知らされる衣裳だ」
溜息混じりに、紅い裏地の、毛皮のついたマントを羽織る。
「そうですね。ですが、ルイシェ様。何度も申しておりますが、いつもの通りお振る舞い下さい。萎縮することもなく、尊大になることもなく。ルイシェ様はルイシェ様として、王になればよろしいのです。必要以上の重圧をお感じになることはありません」
いつもながら真面目な、兄の如きセルクの言葉に、素直に頷くルイシェ。
「さあ、準備ができたようですね。それでは参りましょう、ルイシェ様」
自らも、正装に着替えたセルクが 恭しくルイシェを促す。ルイシェは大きく深呼吸をしてから頷き、それから緊張をほぐすように笑った。
「戴冠の儀と結婚式と、どちらが緊張するかな」
セルクも併せて笑い、軽口を叩く。
「さあ。私はどちらも経験したことがないので、分かりませんが」
「後で報告するよ。さあ、行こう」
二人は、館を出て、会場となる城内の儀式場へ、ゆっくりと向かった。
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