〜der einzig Bruder〜

 その日、エクタは初めて新しい生命の存在を知った。
「母上に、赤ちゃん、できるの? おなかにいるの?」
 四歳になったばかりのエクタは膝の上で、驚いて父に尋ねた。父は嬉しそうに笑った。
「ああ、そうだ。お前の弟か妹だぞ。お前もとうとうお兄ちゃんだな。前から、兄弟を欲しがっていただろう?」
「お兄ちゃん……」
 エクタの澄んだ蒼い目が急に輝く。ぴょこんと元気に父の膝から降り、エクタは走り出した。
「どこに行くんだ、エクタ」
「ぼく、母上のとこ、いく! 赤ちゃん見てくる!」
「おいおい、まだ生まれるのは先だぞ……」
 最後まで聞かずに部屋を飛び出して行ってしまう。父イークは隣にいた年老いた侍従に向かって苦笑した。
「余程嬉しいらしいな。まあ、マリサと私の年を考えると、これ以上子供は望めぬかもしれぬからな。兄弟で仲良くなってくれれば良いのだが」
 年老いた侍従は、年輪の刻み込まれた頬を緩ませた。
「大丈夫でございましょう。エクタ様は、大変優しい御子ですから……」
 イークは幼い息子を誉められ、とても嬉しそうな顔を見せた。

「母上、赤ちゃんみせて!」
 元気良く部屋に飛び込んできたエクタを、マリサはベッドの上で身を起こして迎えた。悪阻の時期は過ぎたとはいえ、どうも気分が優れない。だが、可愛い息子の顔を見ればそれも収まるように感じる。気分が悪かったのも忘れ、マリサはエクタを抱き締めた。
「あら、エクタは慌てんぼさんね。まだ、赤ちゃんはお腹の中なのよ。生まれるまで、あと四ヶ月くらいかかるの」
「ええ〜? みれないの?」
「お腹の外からなら見られるわよ。ほら」
 マリサは膨らみ始めた腹部を指で示した。エクタの目がキラキラと好奇に輝く。
「ほんとだ。ポコンってなってる」
 そうっと、エクタは母のお腹を撫でた。
「おとうとかな、いもうとかな」
 節をつけるようにしながら、母のお腹に顔をすり寄せる。
「おーい、お兄ちゃんだよー。早く出ておいでー」
 そして、嬉しげに母の顔を見上げる。
「赤ちゃんにお話したの。ねえ、声、赤ちゃんに聞こえる?」
 マリサはあどけないエクタの、金色の素直な髪を撫でて笑った。
「ええ、きっと聞こえると思うわ。エクタ、赤ちゃんが産まれたら可愛がってくれる?」
「うん、かわいがるよ!」
 エクタはぴかぴかの笑顔を母親に見せた。

 そして、月日は過ぎ、出産の日。
 落ち着かない父の隣で、エクタはわくわくして待っていた。
「おとうとかな、いもうとかな、ねえ、父上はどっちがいい?」
「元気ならどちらでもいいな。それぞれに楽しみがある」
「ぼくも、母上と赤ちゃんが元気なら、どっちでもいいや」
 イークはエクタの他愛ない会話に大分救われてはいたものの、高齢出産となる妻を心配していた。実際に、産室に入ってからかなりの時間がかかっている。エクタの時も時間がかかったのだが、今回は更に長いようであった。イークは最悪の事態を考えてしまいそうになる自分を戒めた。
 その時、産室から産婆が出てきた。にこにこと笑っている。
 その顔を見て、イークは心から安堵した。
「産まれましたよ、王様。赤ちゃんも、王妃様もお元気です」
 産婆が嬉しい報告をすると、エクタは待ちきれなくなり、産婆の袖を引っ張って尋ねた。。
「ねえねえ、おとうと? いもうと?」
「妹様でございますよ、エクタ様。兄上になられましたね」
「いもうと……やったあ!」
 エクタはぐるぐると父の周りを走り始めた。幼い心の中に、兄になった誇らしさが一杯になっていた。
「もう少ししたら、御対面できますよ。念のため、お二人とも綺麗に手を洗っておいでになってください」

 小一時間もして。王と王子は、王妃と、産まれたばかりの王女と対面することができた。
 マリサは疲れ切った表情をしていたが、嬉しそうだった。
「見た? エクタと同じ、とても綺麗な蒼い目をしているわ。髪は、どうやらあなたに似たようね。まだ色が薄いけれど、青銀だと思うわ」
 エクタはそうっと、母の腕の中でにごにごと動く赤い物体を覗き込んだ。
 くしゃくしゃと皺だらけの、真っ赤な生き物。これが妹とは、エクタには思えなかった。
「何か、かわいくない」
 エクタが心配になって母の顔を見上げると、母はさもおかしそうに笑った。
「心配しなくて大丈夫よ。産まれたばかりは、みんなそうなの。すぐに真っ白になって、可愛くなるわ」
「ほんと?」
 エクタはそう言いながら、おっかなびっくり、赤ちゃんの掌をそっとつついてみた。
 その途端、指をぎゅうっと赤ちゃんが掴んだ。思いがけない力と暖かさに、エクタはびっくりして、赤ちゃんをまじまじと眺めた。
「あら。もうお兄ちゃんがわかるのかしらね?」
 母のその言葉に、エクタは急に、今までに感じたことのない感情がわき上がるのを感じた。
 お兄ちゃんと呼ばれることがではなく、この子が自分の妹だということが急に実感としてわかって、赤ちゃんがとても可愛いと思えてきたのだ。
「ねえ、この子なんていうの?」
 エクタは母と父にドキドキしながら尋ねた。二人は、前から名前を決めていたらしく、声を揃えて「リシア」と言った。
「リシア……きれいな名前だねえ。リシア。お兄ちゃんだよ」
 そう言うと、リシアはふと笑ったように見えた。それは、新生児が見せるという意味のない笑いであったのかもしれないが、全員がそうは思わなかった。それ程、可愛らしく微笑んだのだ。
「あらあら、本当にこの子、分かっているのかもしれないわね」
「全くだ。お兄ちゃん子になるかもしれないぞ」
 母と父は、声を上げて笑った。

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