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LIEZA
 心地よい眠りを、ガタガタという床の揺れで妨げられる。
「んもう、この家ではゆっくり寝てもいらんないのよね……」
 リーザは布団をガバッと跳ねのけ、騒がしい床下を見下ろした。騒音に耳を傾ける表情は最初うるさそうだったが、徐々に柔らかくなっていく。
「ま、しょうがないか。賑わうのは商売繁盛ってことだし」
 ベッドから降りると、軽く体を伸ばし、鎧戸を開ける。まだ薄暗い外から、冬の冷たい空気が一斉に押し寄せてきた。目の覚めるその空気を、肺一杯に吸い込む。
「はあー、寒い」
 白い息を吐いてから、窓を勢い良く閉め、すぐに着替えて廊下へと飛び出す。
 階下へ降りると、むっとするような暖かさと人の話し声が溢れ返ってきた。
「リーザ、おはよう。よかった、手伝っとくれ。今日は朝早く発つ人が多くてね」
 聞き慣れた一際良く通る声が、リーザの耳を打つ。
「わかったわ、母さん」
 リーザは手にしていた三角巾を手早く頭にくるりと巻くと、母親に負けないくらいの大きな声で返事をし、せわしなく食事を掻き込む人々の間でパタパタと働き始めた。
 朝の六時頃から二時間ほど働けば、朝食を取る人間の波もやっと途絶える。
「やれやれ、今日は人が多かったねえ」
 皿洗いをした後の汗を拭いながら、リーザの母アーナが椅子に腰掛ける。父ベドリスも暖炉の前でパイプに火を入れた。リーザのすぐ下の弟バンスも父と同じようにパイプに火を入れる。煙草の甘い香りが、辺りに漂った。
「休みにまで手伝わせて、すまないな、リーザ」
 ベドリスが紫色の煙を吐き出してから、垢抜けた美しい娘に声をかける。
「何言ってるのよ、父さん。どうせ気になって眠れやしないんだから、丁度いいのよ」
 軽い調子で言うその姿は、口調こそ普通の街娘のようではあったが、やはり街の宿屋には少し相応しく無いほど、品があった。王宮で長く勤める間に身に付いた気品は、たまの休みに実家に戻ったからといって消えるものではない。
 そんなリーザを愛しげに見つめ、母がいつも必ず尋ねる質問を口にした。
「で? お前、どうなの。いい人は見つかった?」
「母さん、またそれ? そんな簡単に、見つかる訳ないじゃない」
 リーザは呆れて母の顔を見つめた。
「そうかねえ? 衛兵に入っている人でいい人なんかいないの? 若い人間だって、王宮には大勢勤めてるだろ。あんたももう二十七なんだから、いい加減相手を見つけなさいよ。バンスだってもう、子供が二人いるんだよ」
 街の娘達は、二十一、二歳くらいになれば、半数は結婚してしまう。二十七歳で独身、というのはかなり珍しく、アーナが心配するのも当然といえた。が、リーザは肩を竦めた。
「私だって、相手が欲しいわよ。けど、いないんだもん。しょうがないわ」
「しょうがない、じゃなくて。あんた、仕事に夢中になりすぎて、本当は恋愛なんか面倒ー、とか言ってるんじゃないの? 父さんに似て、面倒くさがりだから」
「おい、母さん。面倒くさがりなのはお前だろう。面倒だから幼なじみの俺を選んだとか、いっつも言ってるじゃねえか」
「何言ってんのよ、あんた。面倒だからそれでいっかー、って笑ってたのあんたじゃない」
 いきなり夫婦喧嘩を始めた父母を、弟バンスが慣れた調子で止める。
「まあまあ、父さんも母さんも。二人とも面倒くさがりだっていうのは、よーくわかったから。それより姉ちゃん、本当に今まで一人もいなかったのかよ、結婚とか考えた相手とかさ」
 鋭い弟の発言に、リーザがぐっと詰まる。今まで詮索の甘い父母には、そういうことは聞かれたことがなかった。
 口ごもるリーザの反応に、アーナとベドリスが色めきたつ。
「おおっ? い、いたのか? どんな奴だ? 俺がぶちのめしてやる!」
「ばば、馬鹿だね、父さん! リーザを貰ってくれる男の人がいるなんて、よ、喜ばしいじゃないのさっ」
 勝手に盛り上がる二人を、リーザが珍しく不機嫌な調子で止める。
「やめてよ。そんなんじゃないってば。ただ……ただ、ちょっといいかなーって、思っただけ。その人、この国の人じゃないし。色々考えたら、無理だと思ったから諦めたの。それに……」
 声が、低くなる。
「私の勘違いだったら、嫌だもの」
 小さい声は、隣にいるバンスにしか聞こえないほどのものだった。

――あなたのことは、私が命を懸けて守ります――
 かつて、リーザにそう言った男性がいた。
 その時、リーザは激しい胸のときめきを覚えたのだ。
 一生涯のことであれば、どんなにいいと思ったか。でも、あの時の危険は去ってしまった。自分を守る役目を、彼はもう果たしてしまった。だから、そう考えたくはなかったけれど、彼との縁も切れたのだと諦めていた。
 くしゃっとしたくなる、赤い髪。焼けた肌。逞しい体。精悍な、生真面目そうな顔。
 彼を意識したのは……そう、リシアがまだエルス国にいた頃、イェルトのルイシェ王子に数年ぶりの再会を果たす前だった。
 彼は、疲れ切ってエルス国に現れ、主人の伝言を届けにきたのだ。そして高熱で倒れた。リーザ達侍女は、病んだ彼を数日の間、看病したのだった。
 若い侍女達がはしゃいでいたように、確かに彼にはエルス城の衛兵達には無い魅力があった。主人であるルイシェに似て……いや、乳兄弟と言っていたから、年下のルイシェの方が似たのかもしれない……真っ直ぐで、真面目で、ストイックとでもいえばいいのか。決して器用そうではなかった、そんな彼。
 まさか、独身だなどと思いもしなかったから、その後ふとした拍子に独身だと聞いて、心がざわめいたものだ。
 それからの出来事で、リーザはどんどん彼に惹かれていった。
 そしてあの言葉。
 でも、もう終わったことだ。
 そうでなくとも、リーザには彼の言葉をずっとは受け入れられない理由がある。
 親兄弟には聞かせられない、理由。
 それは、王宮内に流れる心ない風評のことだった。
 リーザが十七歳という若さで、姫付き侍女という大役を仰せつかった時から、その風評はずっとリーザに纏わりついてきた。人目を惹くはっきりとした美しい顔立ちと、誰もが憧れるようなメリハリの効いた女性らしい肢体が生んだ、噂。
――王も、王妃がいなくなって大分経つし、男だしねえ――
――王子にも大分気に入られてるようだけれど、もしかしたら――
 噂は王族の耳には絶対に届かないように、しかしリーザの耳には確実に届く範囲で囁かれ続けていた。否定しても、同じ噂は次々にどこからともなく溢れてくる。最初は辛くて、リシア王女達の目の届かないところで泣いてばかりの頃もあった。けれど、連日のことだけに、すぐに慣れて。そう思うなら思え、と胸を張れるくらい、強くなった。
 だが、その行為によって、リーザが側女であることを認めたのだとみなす者も、また存在していた。
 だから。リーザには、男性が寄ってこなかったのだ。本当に側女かそうでないかは問題ではない。そういう風評が付きまとうことが、問題なのである。
 リーザは溜息をついた。
 リシアが結婚した時、実は少しほっとしていた。これで城勤めをやめれば、誤解も少しは解ける、と。けれど、イーク王とエクタ王子はリーザが去ることを望まなかった。リーザも、二人を本当の家族同様に思っていたから、望まれているのに止めることなど、できなかった。
 そして、風評は更に真実味を帯びて広まっていくことになる。
 あの人には、とリーザは思った。
 こんな噂を聞かせたくない。優しい人だとは知っているけれど、その深い色をした目の中に僅かでも侮蔑や哀れみの色が混じったのなら。
 多分、自分は耐えられないだろうから。
 だから、離れていられてほっとしている。
 そう、思いこもうとしている自分にリーザは気づいてもいたが、それを認める気には、とてもなれなかった。
「らしくないよね……」
 小さく呟き、リーザは窓の外へ向かって重い溜息をついた。
 
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