一方、イェルト国の城、使用人達が住み込む館の一部屋で、一人の男が剣の手入れをしながら物思いに耽っていた。
セルクは、非常に真面目な男だった。それ故に、自分に遅く訪れた初恋にずっと戸惑い、受け入れるまでには相当な時間もかかった。けれど、何度考えてみても、それが恋であることに疑いの余地はなく、それを認めざるを得なかった。そして、勇気を振り絞って告白してみたのだ。
――あなたのことを、命を懸けてお守りします――
が、タイミングが決定的に悪かった。
言葉も気持ちも通じたが、それは一時的なものとして取られてしまったようなのだ。
後でそれに気づき、どんなに悔やんだことか。が、失敗を取り返すまでに色々考えすぎてしまい、それ以上の接近をせずに、この国へ戻ってきてしまった。
「私は、馬鹿だ……」
がっくりと肩を落とし、ぽつりと呟く。
彼女は知らないだろうが、初めて会った時、目が離せなかった。栗色の髪をきちんとまとめた、お洒落な女官姿。美しい顔に浮かぶ、明るい表情。女性らしい肢体は少女のように溌剌と動き、彼女がどんな女性かを表していた。
今だから思うが、一目惚れだったのだ。ルイシェがまだ少年だった、六年も前から。ルイシェがリシアに惹かれたように、自分もまた彼女に惹かれていたのだ。
そして、ルイシェとリシアを巻き込んだ事件の中で、彼女のことが好きだということを、嫌でも認識させられた。
けれど、彼女と二人きりになる機会はこれから先多分、二度とない。いいところ、国王になったルイシェとリシア王妃の供としてエルス国に出向いた際、挨拶ができるくらいだろう。
後悔するくらいなら、何度も機会のあったあの頃、言ってしまえば良かったのだ。玉砕するにせよ、言わずに悩んでいる時間よりは何度マシか。
それでも、考えてしまう。
結婚を前提としてつきあった場合、彼女を祖国から離してしまうことになる、とか。
ルイシェの従者として、これからも命を張っていかなくてはならない自分に告白されても、彼女が戸惑うばかりではないか、とか。
もっと若ければ、勢いに任せてしまえたかもしれない。けれど、色々考えて動くのが、この年齢の恋愛でもあるように思う。気持ちだけ伝えて、後はどうなればいいという訳にもいかない。
とはいえ、ずっとあれから悩んでいる自分も情けない。こうして、休日剣の手入れくらいしかしない時には、特にそう思う。
「私は、馬鹿だっ!」
力まかせに、剣をゴシゴシと擦り始める。
こんなに好きになってしまったのに、自由に会うこともできない。
不器用だから、忘れることもできない。
ただ想いを抱きながら、遠いエルス国に想いを馳せ、現実を淡々と生きることしか。
自分の愚かしさに、ただただ腹が立っていた。
「……セルク。馬鹿は知っているけれど、そんな剣の磨き方をしてはいけないんじゃないのかい?」
いつの間に入って来たのだろう、母のイルマが呆れた顔でセルクを見つめていた。胸には、セルクの大好物の果物が一抱え。セルクは今自分のしていたことに気づいて、急に決まりが悪くなる。
「か、母さん、いつ来たんだ。ノックくらいしてくれ」
「お前、思春期の子供じゃあるまいし、三十をとっくに超えた息子に気を遣ってどうするの。お嫁さんでもいれば、私だって気を遣うけどね」
テーブルの上に香しい果物を置き、イルマは腕を組んだ。
「何を悩んでるのか知らないけれど、こんなお天気のいい日にうじうじ部屋で剣の手入れしているなんて。全く、しょうもないわね。だから結婚しようっていう女性も現れないの」
ルイシェ王子や前国王妃であるライラ太妃の前では、こんな物言いを絶対にしないイルマだが、セルクと二人きりの時には容赦がない。痛いところを次々に突いてくる。
「……別に、好きじゃない女性と一緒になる気はないし……」
ぶつぶつと口の中で呟くセルクに、キッとイルマはきつい視線を送った。
「だからお前は甘いの。いい? 結婚なんてものは、してからお互いの関係を作り上げる部分が大きいんだから。ルイシェ様とリシア様をご覧なさい。あんなにお若いのに、お互いをより理解しあおうとしているでしょう?」
ルイシェとリシアは、お互いを好きで結婚したのだ、とセルクは口を挟もうかと思ったが、賢明にもその言葉を寸前でぐっと飲み込んだ。ここで口応えなどしようものならば、何時間お説教を喰らうか分かったものではない。
「全く、私がなけなしのコネを使って紹介してもらったお嬢さん達も、次々に袖にして。お前、そんなに自分がいい男だと思ったら大間違いだからね。いい加減におしよ」
イルマはいつもはここまで言う女性ではない。が、どうやら今日は部屋の隅で剣を磨く息子の様子が、殊に情けなく見えたらしい。珍しく声を荒げている。
セルクは客観的に今の状況を判断し、この窮地から逃れるただ一つの方法を実行した。
「母さんには心配をかけていて、本当に申し訳なく思っているよ」
「思ってるんだったら、さっさと嫁を……」
「いい人がいたらね」
「だってお前、自分で探してきやしないじゃないの」
「探しているけど、なかなか見つからないんだ」
「だから紹介してあげてるのに」
「感謝してるよ。俺がもっとしっかりしてればね」
亡き父が、絡む母から逃げるために編み出した、一子相伝の受け流し作戦である。
「……全く、お前ときたら、張り合いがないんだから」
これ以上何を言っても聞かないという態度の息子に、ついにイルマは諦めた。
「ともかく、お嫁さん探しは本気でなさいよ。乳兄弟がいつまでも独りでフラフラしていたら、ルイシェ様も心配なさるんだから」
最後にセルクの一番痛いところを的確に突いて、イルマは肩を竦めながら部屋を去っていった。実際、最近自分が結婚して幸せな生活を送っているせいか、ルイシェは時折セルクの恋愛や結婚について、仄めかすように尋ねてくる。これまた、頭痛の種ではあった。
嵐が去り、セルクは溜息をついて剣をまた磨き始めた。
母親が心配するのもわかるが、自分の場合、好きな人とでなければ、結婚する意味が見つからない。女は子供を産む道具ではないのだから。
それに、彼女が自分の心を占めている以上、別の女性と結婚など、絶対できない。
セルクは剣を磨く手を止め、仕上がりを確認すると、パチリと鞘に収めた。
「ねえ、ルイシェ。セルク、最近元気がないように思えるんだけれど」
執務室で羽ペンを揺らしながら、リシアが唐突に切り出した。隣で書類に目を通していたルイシェが、顔を上げる。
「うん、僕もそう思ってた。僕達の結婚式以降、ずっとだ」
それまで言葉も交わさず、夢中で仕事をしていた二人は、その会話をきっかけに何となく休憩へと入る。リシアはペンを置き、大きな王座に座るルイシェの横に無理矢理座り込んだ。ルイシェは微笑んで、密着してきたリシアの肩に手を回す。誰もいないからこそ、二人ともこんなことができる。
リシアは不安そうにルイシェの顔を見上げた。ずっと不安に思っていることがあるらしい。
「もしかしたら、私がルイシェを取っちゃったから、内心怒ってるのかしら?」
「まさか。セルクと二人の時に、君のことを僕が話すと、今もとても嬉しそうな顔をするよ。あれが嘘でないことは、生まれた時からずっとセルクを見ている僕が保証する」
「本当?」
そう言いながら、リシアは胸に手を当て、ほっとした仕草を見せた。それが可愛らしくて、ルイシェはリシアの青銀色の髪を一房引っ張る。
「心配性だね。そんなに心配しなくても大丈夫だよ。セルクに元気がない原因は、僕は大体心当たりがついているんだ」
ルイシェにとって、セルクはずっと側にいる兄のようなものだ。何を考えているかは、いつでも大抵予想することができた。
「セルクは、今年で三十三歳になっているからね。僕が先に結婚してしまったこともあって、独身でいると家族からの風当たりもきついんだと思うよ」
リシアに、確実なことだけを話す。セルクが多分ある女性に想いを寄せていて、その女性に会えずに悩んでいることもルイシェは勘づいていたが、本人に確認した訳ではない。いくら相手がリシアだと言っても、憶測だけで話す訳にはいかなかった。
「そうか……セルク、三十三なのよね。確かにその年で独身だと、色々周囲から言われちゃうわよね。ふふ、リーザを思い出すわ」
リシアの目は、笑っているのに少し淋しそうだった。
侍女一人で、と他の貴族だったら笑うのかもしれない。けれど、リシアとリーザの関係を良く知っているルイシェは、その笑顔に胸が痛くなった。姉妹とも親子とも親友ともつかない関係、それがリシアとリーザなのだ。頻繁な手紙のやり取りも、淋しさの根元を消すことはできない。
「あ、セルクの話だったわよね。ルイシェ、セルクって好きな人はいないの?」
リシアが気分を変えるように、女の子に特有の恋愛に興味津々な顔で尋ねる。ルイシェはストレートなリシアの質問に、内心舌を巻きながら答えをぼやかした。
「さあ、どうなのかな。僕はセルクから聞いたことがないんだよ」
「ねえ、セルクにはリーザがお似合いだと思わない? だって、前に色々あった時、あの二人、とっても仲が良さそうに見えたんですもの」
無邪気に仲を取り持とうとするリシアの額を、ルイシェは軽く人差し指でつついた。
「リシア、本人達の意志がこういうのは一番大切なんじゃないかな? 二人とも、僕達より年上なんだ。きっと、色々と考えているんだと思うよ」
リシアはルイシェの肩に、コトリとこめかみを押しつけた。
「そうね。駄目ね、私。リーザがセルクのお嫁さんになれば、この国に来てくれるんじゃないかって、本当はそれを期待しちゃった気がする。結婚だものね、そう簡単にはいかないわよね」
「そうだね。僕達だって、それなりに大変なことはあったくらいだ」
ルイシェの言葉に、リシアがくすくすと笑った。
「ええ、それなりに、ね」
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