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 若い王と王妃の住む館は、城の中庭に収まっている。二人の性格を反映して、外観は派手ではない。ここにもリシアが植えたらしい草花が、可愛らしい葉や花を広げていた。城の中庭だというのに、ここも風が強い。建物の間を抜けた風が、リーザの栗色の髪を乱れさせた。
 事情を説明してついてきてもらった武装兵は、館の入り口に立つ衛兵に話をつけると、リーザに会釈をして戻っていった。
 リーザは館の中に一度だけ入ったことがある筈だった。リシアの結婚式の夜のことである。だが、その時したたかに酔っぱらっていたリーザは、記憶が殆ど残っていない。入ってすぐの場所が吹き抜けになっていたことも覚えていなかった。
 ただ、入ってすぐにリーザのところへやってきた侍女ハルマのことは覚えていた。リシアと同じくらいの年頃の筈だが、大人びてしっかりしていた印象がある。真面目な色を浮かべている藍色の目に好意を持った。本当は結婚式の時に、前の侍女としてリシアのことを伝えなければならなかったのに、平常心でいられなかったためにそれが叶わなかったことも思い出す。
「リーザさん、ですか?」
 ハルマもリーザの顔を覚えていたらしい。驚いたようにリーザを凝視している。
「お久しぶりです、ハルマさん」
 愛想良く言った筈なのだが、ハルマの顔はみるみる泣き出しそうなものへと変わっていった。
「あの……やはり、私では駄目なのですね」
 彼女の口から飛び出した思わぬ言葉に、今度はリーザが驚いた。
「え? 何がですの? どういうことですの?」
「ですから、リシア様の侍女のことです。私では力不足だから、リーザさんをリシア様がお呼び寄せになったのでしょう?」
 項垂れるハルマ。リーザは慌てて首を横に振った。
「あのね、何のことだか分からないのだけれど。私はその、多分イェルトの人と結婚することになって、というかまだ結婚の申し込みはされてないけれど、というか私を連れてここまで来てくれたんだからその気はあるんじゃないかなあと思うんだけれど……って、どうでもいいわね。それで、イェルトに来たものだから急な話ではあるのだけれど、リシア様にご挨拶をと思ってきたの。ハルマさん、どうなさったの? 姫様、じゃないわ、妃殿下と何かあったの?」
 わたわたと説明するリーザを、ハルマは泣き出しそうな顔で見つめていたが、何を言わんとしているかを察すると、急にさっと頬を赤らめた。
「申し訳ございません。私、変な思い込みをしていたみたいです」
 そのまま、ハルマは床を見つめて黙り込んでしまった。さらりと落ちた濃い褐色の素直な前髪が、微かに震えている。潤んだ藍色の目から、涙がまだ落ちていないのが不思議なほどだった。
「良くあることだわ。私の配慮が無かったものだから、ハルマさんに心配をかけてしまったのね」
 リーザの優しい物言いは、リシアのものとよく似ているようにハルマには聞こえた。我慢していた涙が、一粒頬を転がり出す。
「『静かでいい人ね』って……」
「え?」
「妃殿下が、私にそう仰ったんです。お悲しそうに私には思えました。私は、妃殿下がお悩みなのを知っていながら、何もできないんです。ルイシェ様のことで何故お悩みなのか、察することもできないんです」
 もどかしげにぽつりぽつりと言葉を紡ぐハルマ。リーザはそれを見て、彼女がどんなに悲しんでいるのかを知った。
「私、自信がありません。妃殿下がもしお望みなのであれば、リーザさんがこれからイェルトに住むのであれば、私は……」
 次に彼女が何を言おうとしているかを察して、リーザは厳しい声で止めた。
「だめよ、ハルマさん」
 ハルマははっとしたように顔を上げた。リーザはいつになく真剣な表情をしていた。
「私のためにも、あなたのためにも、リシア様のためにもならないことよ。私は確かにリシア様の侍女を長いことをしていたわ。今でも、主人であり妹とも娘とも思っています。けれどね、だからこそお嫁に行ったリシア様の侍女になることはできないの。リシア様はイェルトの人間になることを決められた。そしてあなたが侍女になった。私が入ることなどできないわ」
 強くたしなめてから、リーザは一転して口調を和らげた。
「それに、これまでの時間の中で、リシア様とあなたの間に育まれたものがあるはずよ。リシア様はまだあなたに心を開ききっていないかもしれないけれど、まだ一年程度ですもの。人間関係としては始まったばかりでしょう? まだ諦めるには早いと思うのよ」
 ハルマは唇を強く噛み締めていた。たしなめられ、諭された彼女の心は、まだ混沌としている。ただ、まだ始まったばかりという言葉が胸にしみた。
「……ありがとうございます。良く考えます」
 謙虚な言葉を聞いて、図らずも現在のリシア付きの侍女に説教をしてしまったリーザは、薄く苦笑いを浮かべた。
「ところでリーザさん、妃殿下にはお会いにいらしたのですよね。申し訳ありません、こんなところで時間を取らせてしまって。妃殿下はお部屋にいらっしゃいます。現在お気が塞がれている様子ですが、リーザさんならばお会いになるのではないかと思います」
 無理に気分を切り替えたのだろう、ハルマは有能な侍女らしくしゃんと首を起こし、何事も無かったかのように案内を始めた。彼女なりにリーザに気を遣わせないための切り替えなのだ。
 一方のリーザの方は、それを知りつつも悩んだ。
「そうね……」
 先程までは会う気でここに来たのだった。一年以上会っていないリシアに会いたいという気持ちを消すことなどできない。だがここでリシアに会えば、余計な里心を抱かせてしまうかもしれない。ハルマのためにもならないかもしれない。
 リーザの迷いを消し去ったのは、静かに開いたドアの音と、続いて聞こえた息を呑む音だった。
「リーザ?」
 懐かしい声がした。
 覚えているのものより、ずっとか細い声。
「本当に、リーザなのね? 空耳じゃなかったのね?」
 ドアノブを握ったまま、折れそうな細い身体で立つ、青銀の髪の乙女。大きな蒼い目を一杯に見開いた、その姿。
「姫様……」
 リーザが呟いた途端、イェルト王妃は弾かれたかのように走り出した。
 例え会うことが相応しくなかったのだとしても、哀れなほどに窶れたリシアを目の前にして、リーザにはどうして腕を広げずにいられただろうか。
 リーザの胸に、リシアは子供のように激しく抱きついた。
「リーザ、リーザあ……」
 名前を呼びながらただ泣きじゃくるリシアの身体を、リーザはぎゅっと抱き締めた。抑えようとしても抑えきれない愛情が胸に溢れる。
「姫様、また食べない悪い癖が出ましたね? 前よりお痩せになりましたよ」
 震える声でリーザはリシアに語りかけた。
「悩むと姫様はいつもそう。周囲の人も心配するでしょう?」
 叱責する内容と裏腹に、リシアを抱く手も声も優しくなってしまう。腕にした身体の何と小さなことか。止まらないリシアの嗚咽が、何と切実さを表していることか。
 思い描いていた幸せな再会ではない。それでも、複雑に混じり合った気持ちの中では嬉しさが優る。そして、言葉にできない安心感。
 それはリシアにとっても同じ事だったのだろう。リーザの深く穏やかな声に宥められ、リシアが泣きやんだのは、それから二十分後のことだった。
 その間ずっと隣で二人の様子を見つめていたハルマには、はやり自分の立ち入る隙などないのだとしか思えなかった。愛情で結ばれた二人を諦めと感動で眺めることしかできないのだから。
 やっとリシアが落ち着いたのを見て、ハルマは立ち去ろうとした。その時、リシアが顔を上げてハルマを見つめた。その蒼い目はまだ潤んでいて、目の縁は真っ赤だった。
「ハルマ、ごめんなさい」
 思わぬ言葉に、ハルマは返す言葉を失った。目の前の王妃が、鼻をすんすん言わせながらそんなことを言うとは、今まで思ってもみなかったからだった。
「私、本当はこんなに子供なの。ずっと王妃らしくしなくちゃって思ってて、あなたにも王妃らしいって思われたくて。がっかりしたでしょう?」
 実際、こんなリシアを見るのは、ハルマには初めての体験である。だが、それを厭う気持ちなどハルマの心のどこを探しても見つからなかった。目の前にいるのは、自分と同世代の一人の若い女性。慣れない国で、不安に苛まれている女の子だ。これが本当のリシアなのだという気がした。
 ハルマは首を横に振った。何を言っていいか分からなかったので、精一杯の好意を込めてにっこりと笑う。
 不器用なハルマの気持ちを、リシアは真っ直ぐに受け止めたようだった。照れたような微笑みが、先程まで泣き崩れていた顔に浮かぶ。
「ハルマは静かでいい人ね。私、ずっと前からあなたともっと話したかった」
 しみじみと呟くリシアの姿を見たときに、ハルマの胸に今までに覚えたことのない感情がこみ上げてきた。
「これからたくさんお話できます。私、口下手ではございますが」
 突き動かされるようにして口から出た言葉は、ありふれたものの上に短かった。けれど、ハルマとリシアにとっては特別だった。今まで繋ごうとしてきっかけが掴めずにいた、会話と愛情の糸口。それが繋がった瞬間だったのだ。
 王妃と侍女の間の新しく確かな絆を感じたリーザは、僅かな淋しさを感じながらも、それよりも大きな満足感の中で二人を眺めた。リシアとハルマは、これから親友のように仲が良くなっていくだろう。常に側にいる人物と心が通じ合わないのは、お互いにとって不幸なことでしかない。これからも幾つかの問題はあるだろうが、二人はきっと上手くやっていくはずだ。
 そして、今のハルマにならば、自分の胸の裡をリシアは聞かせるだろう。これが最初の一歩だ。
「リシア様、ここは冷えます。どうぞ居間に」
 控えめにリシアに申し出たハルマの顔は、晴れ晴れとしていた。その言葉に従い、外とさほど変わりのない冷たい空気が通る吹き抜けにいたリーザ達は、居心地の良い居間に移動した。
 居間には、大きく暖かな暖炉があった。時折薪のはぜる音がする。
 落ち着いたクリーム色に塗られた壁には、等身大のルイシェとリシアが描かれた絵。写実的な絵で、その前にリシアが立つとまるで鏡を置いたようでもある。大きな違いといえば、絵の中のリシアは痩せすぎてはおらず、無垢そのままに微笑んでいることくらいであった。
 リシアが二人掛けのソファにぽつりと座り、リーザが小さな椅子を選んで腰掛けるとすぐに、ハルマがお茶を持ってきた。一口飲んで、ハルマが実に素晴らしい味のお茶を入れることに、リーザは感心した。
 ここまでの間、三人は殆ど沈黙していた。ぴりぴりとしたものではない、穏やかな沈黙ではあったが、リシアの気分を反映してか沈みがちでもあった。
「それで姫様、お話したいことがあるんじゃございませんの?」
 静かに、しかし強く促すようにリーザが口を開く。ハルマが心配そうに見つめる中、リシアがゆっくりと首を持ち上げた。
「……ええ、そうね。今まで誰にも相談してこなかったけれど、あなた達になら話せるわ」
 リシアはハルマに視線を向けた。
「ごめんね、ハルマ。何も話さなかったから、きっとあなたを傷つけているわよね」
「いえ、そんな……私が信頼に足る人間でなかったのが、一番悪いのですから」
「違うわ。あなたはとても信用できる人だもの。私が、自分の過ちを今まで誰にも話したくなかっただけ」
 ふっと淋しげに微笑み、リシアは語りだした。
「ここは私の育ったエルス国じゃない。そんなこと、良く知ってた筈なのに。私、焦っていたのね。立派な王妃と認められたいという気持ちも強かった。だから、この国の事を良く知る前から、政治に口出しをしようとばかりしていたの。それがルイシェを困らせる事になっていることも、気づいていながら。少しは役には立つのじゃないのかって、そんな気持ちがあった」
 リシアの手の中で、お茶の入ったカップが小さく震える。
「そのうち、やはり口を出しては駄目って思ったの。ルイシェの困った顔を見たくなかったから。そしたら、急に……何も話せなくなった。今まで、どんなつまらないことでも報告したり、ちょっとした思いつきを話していたりしたのに。何だか空々しい気がして」
「リシア様……」
「喋らなくなったら、急に触れる事も怖くなって。私が喋ったり触れたりすることは、ルイシェにとって迷惑なんじゃないかなって。だから……ルイシェの視界に入らないように、私……」
 蒼い目に、大粒の涙が盛り上がる。
「いいことだなんて思ってないけれど、どうしていいか分からないの。ルイシェ、私が避けたと感じてると思う。でも、一方でその方がルイシェは楽なんじゃないかな、って思う気持ちもあって。そんな訳ないという気持ちと、いつも揺れてるの」
 リーザは黙っていた。ルイシェの気持ちをさっき聞いていたとはいえ、リシアの側にずっとついていた訳でもない自分が、分かったような口を開く場面ではなかったからだ。
 代わりの役割を果たしたのは、ハルマだった。ずっと、リシアの側にいた侍女。
「ルイシェ様は、リシア様を必要となさっています」
 短く、しかし優しさをこめてきっぱりと。
「ハルマ……」
「ずっと、ルイシェ様はリシア様をご覧になっています」
 短い分、ずしりと重いハルマの言葉。
「ルイシェが?」
「はい。とても心配そうに」
 今まで伝えられなかったことを伝えようとするかのように、ハルマの声には熱があった。その声に、リシアの表情が徐々に変わっていく。
「ハルマは、ルイシェが私を疎んでいないと思うの?」
「はい」
 即答だった。潔い反応に、リーザは口の端を緩めた。このハルマという侍女は、口が立つ方ではないが、それを補って余りあるものを持っていると確信したのだ。実際、ハルマと話しているリシアの目には、先程まで見ることのできなかった前向きな光が戻りつつある。
「私は、どうしたらいいのかしら」
 リシアが投げかけた問いに、ハルマは一呼吸置いてから答えた。
「ルイシェ様と、お話になるべきかと」
 細く長い溜息が、リシアの喉の奥から漏れた。カップを机の上に置き、若い王妃は瞼を閉じてじっと考え込む。
 リシアにとって、その答えは予期していたものだったろう。リシア自身もそう思っていただろうが、第三者に言われることによってやっと実行に移す気分になれることも、多々ある。この時のリシアも例外ではなかった。
 しばらくして目を開けた時、リシアの表情には小さな決意が見て取れた。
「そうね、ハルマ。あなたの言う通りだと思うわ。ルイシェに、会いたいと伝えてもらえるかしら? 時間はいつでもいいから、と」
 女主人の決断に、パッとハルマの顔が輝いた。
「承りました」
 リーザは黙って、ただリシアとハルマに微笑んでみせた。あるべきところにあるべきものが収まる予感を、心地よく感じながら。

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