ミッティーの家を出たリーザは、ネ・エルス市街をすっきりした気持ちで歩いていた。冬の昼間の爽やかな風が心地よい。
彼を忘れる為に、ティドと付き合ったこと、それは間違ってはいない。実際に付き合ってみて、ティドを恋愛対象とは将来的にも思えないことに気づいた。それでいいのだ。難しく考える必要など、どこにもない。
彼……セルクのことは、時間に任せればいい。
もう遅すぎたとしても。想う心は、自由だから。
今日は午後からティドと会う予定だ。自分の気持ちをはっきりと伝えよう、リーザはそう思った。
考えがまとまった途端、お腹がぐう、と鳴った。そろそろお昼時なのだ。悩みが晴れた途端に、これである。リーザは道行く人に怪しまれない程度に、くすりと笑った。
幸い、実家も近い。手伝う代わりに昼食を食べさせてもらおう、そう思ったリーザは迷わず「金の麦亭」に向かった。
「ただいま」
厨房にある裏口から、リーザは店内に入った。厨房では母、弟のバンスがてんてこまいで働いている。食堂の人々の中に、皿を持った父の姿も見える。母のアーナがびっくりしたように顔をリーザへと向けた。
「リーザ、どうしたんだい、仕事は?」
「今日はお休み。若い子達に、私が休まないと自分達も休みにくいって、強制的に休みを取らされちゃった。あ、手伝うわ」
弟バンスができあがった料理を乗せる皿を探しているのを目ざとく見つけ、リーザはさっと手を洗って皿を差し出した。熱々の野菜炒めが、ジューッと音を立てて皿の上に移動する。
「これ、どこのお客様?」
「ああ、一番右の丸テーブルだ。姉ちゃん、すまねえな」
「やあねえ。他人行儀なんだから」
艶やかな笑みをバンスに残し、リーザは食堂の賑わいの中へ飛び込んだ。
「おっ、リーザちゃんじゃないか。今日はお休みかい?」
「いやー、今日来て良かったなあ、リーザちゃんに会えるなんて」
常連の何人かが目ざとくリーザを見つけ、嬉しそうに声をかけてくる。リーザは笑顔をそれぞれに向けると、目的のテーブルへと向かった。
テーブルに着いた時、リーザは驚いた。砂色の髪をした巨漢、ティドがそこには座っていたのである。ティドの方は一向に驚いた様子もなく、人なつこい笑顔を浮かべた。
「おう、リーザ。会えるかなあ、と思って来たけど、会えてよかったなあ」
「そ、そうね」
午後のデートの時に「おつきあい」を断ろうと思っていたリーザだが、流石にここでその話を持ち出す訳にもいかない。机の上に炒め物の皿を乗せ、動揺を悟られないように笑顔を作り、さも忙しそうに厨房に戻る。
厨房に戻ったリーザは、また炒め物を始めた弟のバンスに向かってきつい視線を向けた。
「バンス。何でティドが来てるって言わないの?」
鍋を慣れた手つきで振りながら、バンスはちらりと姉を横目で見る。
「おいおい姉ちゃん、このくそ忙しい中、いつも来る奴全部姉ちゃんに報告したら、昼飯時が終わっちまうぜ?」
「いつも来る奴全員なんて言ってないでしょ!」
余りのリーザの迫力に、アーナが眉をしかめた。
「なあに、あんた。ティドと喧嘩でもしたのかい? 子供じゃないんだから、いい加減にしときなよ」
「喧嘩なんてしてないわよ。ただ、今日は午後から大切な話がしたかったから、その前に会いたくなかったの」
袖を捲り上げ、猛烈な勢いで皿を洗う。自分でも八つ当たりしていることくらい分かっている。近所のティドが、昼食をここで取ったからといって、誰も責めることはできない。けれど、自分の気持ちに決着がつけようとしている今、ティドと顔を合わせるのに、どうしようもない後ろめたさを感じてしまう。気持ちが揺らいでしまいそうだ。
「お付き合い」を断ったら、ティドはまた泣くのだろうか。悲しむだろうか。
冬の水が手を容赦なく冷やす。リーザの指先が、あっと言う間に真っ赤に染まっていった。だが、リーザはそんなことに気づきもせず、ただひたすら食堂を見ないようにして皿を洗い続けた。
セルクが目覚めたのは、正午を少し過ぎた頃だった。睡眠時間は三日の強行軍を癒すのに充分な長さではない。だが、これからダシルワの正体を暴きに行くのだという緊張感で、これ以上眠れそうにもなかった。
目頭を軽く揉んでから、その手で縺れた赤毛を櫛けずるように掻き上げる。
「ふう」
息を吐いてから、ベッドの横に置いた袋の中から、エルス国庶民風の服を取り出した。手早く着替える。今まではイェルトの人間と一目で分かる砂避けのローブ姿をしていたが、これから先はエルス国民に紛れ込んだ方が仕事がしやすい。セルクはいかにも砂漠の民らしい顔つきなのだが、多種多様な民族が商売を行うエルス国では、服さえエルス国風のものであれば、シレネア大陸の人間ほど顔立ちが変わらない限り人々の目を引くことは殆どない。
服を着替えたことで、身体がすっかり目覚めたのか、急に空腹を覚えた。イェルトを出てからは馬の上で乾燥させた携帯食を少し口にしたくらいで、まともな食事を取っていなかったのだ。幸い、セリスとの待ち合わせの時間にはまだ大分ある。
(下で何か食べさせてもらえるだろうか)
革袋の財布を懐に、セルクは部屋の扉を開けた。途端に漂ってくる、暖かで美味しそうな食事の香り。セルクの腹が、ぐう、と大きな音を立てた。育ち盛りの子供でもあるまいし、とセルクは苦笑いし、階段を下りた。
朝も凄い混雑だったが、昼食を取ろうという人々で「金の麦亭」の食堂はやはりごった返していた。しかし、ピークの時間は過ぎたのだろうか、外に並ぶ人はもう見あたらなかった。
人々の間で立ち働く店の親父を見つけ、セルクは声をかけた。
「親父さん、まだ昼食は残ってるかい?」
親父は手に持った皿を客のテーブルに乗せ、セルクの隣にやってきた。
「ああ、まだ大丈夫だよ。ただ相席になっちまうが、構わないかな?」
決して暑いとはいえない店内だったが、親父の額には汗が滲んでいる。褪せた髪の色は、元々は鮮やかな栗色だったのだろう。セルクが頷くと、親父は男が一人座った丸テーブルへと案内した。
「ティド、相席だが構わねえな?」
親しげに親父が、椅子に座った砂色の髪の巨漢に話しかける。ティドと呼ばれた男はセルクを見上げ、口に物を一杯に詰めたまま無言でこくりと頷いた。大男にも関わらず、可愛らしい子供のような仕草だ。
セルクは軽く相手に頭を下げると、男の真向かいの椅子に座り込んだ。
ティドの目が、少し珍しそうにセルクを見つめている。そういえばこの食堂にいる人間は、殆どが顔見知りらしく、人々の会話が弾んでいる。
口の中の物をごくり、と水と一緒に飲み干してから、巨漢は無邪気な様子で声をかけてきた。
「兄さん、ここ初めてかい?」
イェルトでは見知らぬ人間に声をかけることは、このような場でも余りない。敵のスパイがいつ話しかけてくるかもしれないからだ。流石平和なエルス国だ、と思いながらも、セルクは慎重に答えた。
「ああ。いい宿だね」
「そうだろ? 一回来ると、病みつきにならあな。俺はこの近所に住んでるティドってもんだ」
ティドがフォークを置き、大きな右手を差し出した。一瞬躊躇ってから、セルクは握手に応える。
「セルクだ」
短く名前を告げると、ティドは嬉しげにニィっと笑った。何とも開けっぴろげな雰囲気のする男である。この近所に住んでいると告げた事といい、宿屋の親父と親しい事といい、まず危険な男ではないだろう。そう思ったセルクは、相手に控えめな笑顔を向けた。
「あんたさ、ごっつい手してんなあ。タコだらけだ。鍛冶屋か?」
唐突に尋ねられ、セルクは「は?」と聞き返した。
「いや、ちげえよな。鍛冶屋はもっと火傷だらけだ。となると、武器屋だ。な、当たりだろ?」
ティドが好奇心に目をキラキラさせている。どうやら、見知らぬ男の職業当てに夢中になっているらしい。
「うーん、当たらずとも遠からずといったところかな」
セルクは自分の手をちらりと見た。確かに、毎日剣の稽古をしているせいか、手にはタコがしっかりとできている。だが、自分が商売人に見えるかと思うと、少し可笑しい気持ちだった。
だが、詳しい職業を言う訳にもいかない。セルクは反対に質問を返した。
「君は何の仕事をしてるんだい?」
君、と呼びかけられ、ティドはちょっとびっくりしたようだが、すぐに誇らしそうに答える。
「おう、俺は八百屋よ。ここら辺ではまあ、ちょっと有名だなあ。エルス国で取れる新鮮な野菜は勿論、ゴートミア、ニィ国なんかの珍しい野菜も扱ってるんだぜ。他の店じゃねえ野菜もうちに来れば大抵ある。野菜だけじゃねえ、果物もたくさんあるぜ」
大声で自慢をはじめたティドに、後ろの席の知り合いらしい男が笑いながら「店主は能無しだがな!」とヤジを飛ばした。ティドは気にする様子もなく、ガハハ、と笑っている。それだけ親しい仲なのだろう。
「この宿にも野菜を下ろしてるんだぜ。今日の野菜炒めも、俺んちの野菜を使ったものよ。旨そうだろ?」
そう言いながら、ティドは野菜炒めを頬張ってみせた。セルクは笑ってみせた。
実際、空ききった胃には、野菜炒めは非常に魅力的である。セルクは、待ちきれない気持ちで、ジャーッと勢いのある音を立てている厨房の方に目を向けた。
そして、目を疑った。
栗色の髪を後ろで一つでまとめた女性が、皿を洗っている。
斜め後ろ姿だが、何度も心に描いた姿だ。間違いようがない。
脈拍が、急激に早くなった。
彼女、だ。
セルクの脳裏に、かつての出来事が蘇る。あれは、一年何ヶ月か前、エルス国王家で受けた歓待の席でのこと。彼女は言ったのだ。
――私の父母は、ネ・エルス市内で宿屋をしている、由緒正しき庶民で――
何で今まで思い出しもしなかったのだろう。この「金の麦亭」が彼女の実家である可能性など、考えてもみなかった。
何という偶然だろう。会いたかった彼女の姿が、そこにはある。声をかけようと思えば、すぐにかけられる場所に。
「……でよ、ここの親父とおかみの総領娘がリーザって言ってな」
ずっと大声で話し続けていたティドの声が再び耳に入る。彼女の名前が出たことからだ。セルクはぎこちなくティドの顔を見た。ティドの幸せそうな表情に磨きがかかっている。
「あの、栗色の髪の美人だが。今、俺、お付き合いしててなあ」
セルクの動きが、完全に止まった。
「王宮で働いてるだけあるっていうのか? 品があるし、優しいし、頭も良くってよ。俺、早く結婚してえって思ってるんだ。あはは、ノロケか、こりゃあ」
照れ臭そうに、ティドが机を左手でドンドンと叩いた。
セルクは呆然と、その左手を見つめる他なかった。
ティドの大声は、リーザの耳に否応なく入っていた。店中の人に聞こえているのも間違いがない。
同じ席に座った、通りすがりの泊まり客に話しかけているうちはいいが、話が自分のことに及ぶに連れ、リーザは皿洗いに集中するわけにもいかなくなっていた。
そして、聞こえた「早く結婚してえ」の言葉。
たまらなくなって、振り返りざまリーザはティドを止めようとした。
そして、そこにいる筈のない人を見てしまった。
会いたくて会いたくて、たまらなかった人。忘れる為に無理をして、その為にした自分の行動に呆れたばかりだというのに。
癖のある赤い髪の毛。真面目そうな顔つき。
「セルク……さん」
喘ぐように、名を呼ぶ。だが、声は掠れて音にならなかった。
最悪の時に、最悪の場所で。
惹かれあう二人は、再会した。
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