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 リーザはその日、幼なじみであるミッティーの家で、午後のお茶を楽しんでいた。
 一緒に侍女試験を受けたこともあってか、ミッティーとレジーとは今でも友情が続いている。レジーの方は郊外の農家へと嫁ぎ、勢い多忙のリーザが訪ねるのはネ・エルス市内のミッティーのところが多くなっていた。
 靴屋の看板娘であったミッティーも、今はなめし革職人の家に嫁ぎ、どん、と構える三児の母である。腕に眠った末の子を抱きながら、ミッティーはお茶を啜った。
「それにしても、リーザがティドと付き合ってるとはねえ。びっくりしたわよう。てっきりあたし、あんたはお城の中の人とくっつくんだと思ってた。衛兵さんとかさ」
「私もびっくりしてるわよ。まさか、お城にまできて告白されるなんて、思わないじゃない?」
「それもびっくりだけどさ、一番驚くのはあんたがOKするなんてってことよ。だって、元姫様付きの侍女よ? こう、遠い憧れの存在って感じがするじゃない」
 ミッティーは背筋を伸ばし、ご自慢の亜麻色の巻き毛を揺らし、取り澄ました顔をして侍女のふりをしてみせた。赤子を抱えたままのその様子がおかしくて、リーザは思わず吹き出す。
「やあだ、一緒にお城の最終面接まで残ったのに、そんなこと言うの? 大体、私そんな風に見える? お城だってそんな顔、しないわよ」
「さあ、どうだか? でも、ま、リーザはこうやって遊びに来てくれるしねえ。他の侍女ほど敷居が高くないのは、認めてあげる」
 あはは、とミッティーも大きな口を開けて笑った。かつては街のアイドルだった彼女も、今はすっかり堂々とした主婦という雰囲気である。
「それで? ティドのこと、本当はどうなのよ?」
 うきうきした口調で突然尋ねられて、リーザは曖昧に笑った。普通ならここで笑顔になって、一緒にうきうきした口調になるものだろうが、リーザはとてもそういう気にはなれなかった。
「うーん。いい人よ?」
「好きなの? つまり、恋愛的な意味でさ」
 非常に的確で核心を突いた質問だ。カップを揺らしながら、リーザは視線を落とした。華やかな気分とはかけ離れた気持ちが、胸を締め付ける。お茶が、ユラユラとカップの中で動いた。
「……やっぱ、そういう意味で好きになんなくちゃ駄目なのかなあ……」
 複雑なリーザの内心が読める言葉に、ミッティーが二,三回瞬きをした。
 ミッティーもリーザとは長い付き合いだ。リーザがどのような気持ちでこのように呟いたのか、わからない筈がなかった。今のやりとりで、おおよそのことは検討がつく。大体どういう経緯でリーザがティドと付き合うようになったのかを、ミッティーはほぼ正確に推察した。フッと声の調子を和らげる。
「あんた、昔から真面目なんだよね。好きになんなくちゃ、って思う必要なんかないじゃない。王族のお見合いじゃないんだからさ」
 自分のカップにお茶を注いでから、まるで天気の話でもするようにさりげなく、ミッティーが尋ねた。
「誰か他に好きな人、いるんでしょ」
 カチャン、とリーザのカップが音を立てる。動揺が手に出たのだ。ミッティーは十年前の美貌を偲ばせる笑顔になった。
「付き合い長いんだから、隠したって分かるよ。いつもテキパキしてるあんたが迷うってことはね、何か心に重荷があるってことなんだって」
「……やっぱり、分かっちゃうかなあ」
「話しなよ。それだけでも、楽になるよ?」
 リーザは俯いて苦笑いを浮かべた。本当は、誰かに話したくてたまらなかったことを、見透かされているようだ。リシアやエクタには話せない内容。
 お茶を一口飲んでから、リーザは視線を遠く彷徨わせ、ゆっくり話し始めた。
「ええ、好きな人……そうよ。その人ね、イェルトの人なの。ルイシェ様の側にお仕えしてる人。リシア様のことであれこれあって、その中で話をするようになって。一時期は、向こうも私のこと好きなのかなって思えるようなこともあったわ」
 こうして話していると、懐かしい日々が昨日のように甦る。
 リシアとルイシェ達を呑み込んだ邪宗の教会で、リーザを守りながら戦っていた、逞しい彼の姿。
 あの時、リーザはリシアの為に、死を覚悟して教会に乗り込んだのだった。同じようにセルクは、ルイシェの為に死を覚悟していた。お互いの主君を守るため、二人は運命を共にしていたのだ。
 乗り込む前にセルクが言った、「あなたのことは、私が命を懸けて守ります」という言葉。どんなに嬉しかっただろう。あの夜、リーザはリシアのことを心配する気持ちと、セルクへの気持ちでとても眠れなかったことを覚えている。リシアを無事に救い出してからは、セルクへの想いは高まるばかりだった。
 一言交わす度にどんなに胸がときめいただろう。どれくらい一緒にいたいと思っただろう。
「でも、リシア様の結婚以来は一度も会わずじまい。もう一年以上が過ぎたわ。流石の私だって、これはもう無理かなって思う。なのに、忘れられないの。どうしても、忘れられないのよ」
 封印を破って一度口に出した想いは、堰を切るように次々に溢れ出した。
「叶わない想いなら、あの人のこと忘れなくちゃって思ってもいた。そんな時ティドが告白してきて。私、きっと忘れられると思ったの。なのに、反対なのよ。ティドといるとね、悪いなあ、と思いながらまだ比べてしまっているの。あの人だったらこうするかな、あの人だったらこう言うかなって。それでドキドキしてる。これからも、ちょっとは彼と会うかもしれないって思うと、そのこと考えて眠れなくなったりして。忘れなくちゃって思えば思うほど、頭に鮮明にあの人のことが思い出されてならないの。一言一句、はっきりと思い出しちゃうのよ」
 ミッティーは生真面目な顔をして、頷きながら静かに聞いている。
「こんなに思い詰めるなら、いっそイェルトへって考えたこともあるわ。でも、できなかった。リシア様の立場や、父さん達のこともあるわ。でも、一番怖かったのは、彼が受け止めてくれるかってことだったの。私のことを王様の妾だって思っている人達だっているのに……」
 リーザの目にはいつしか涙が浮かんでいた。こんなに洗いざらい話すつもりなどなかった。けれど、口が止まらなかった。自分の中に、こんな激情が眠っていたことを、リーザは初めて知る。
「まだ全然諦め切れてないんだ、私。反対に、気持ちは強まるばかり。だからといってティドと別れて、今頃あの人に好きっていう勇気もない。今、自分が嫌いだわ。ティドにも何て悪いことをしてるんだろうって思う」
 震えるリーザの肩を、ミッティーがぽんぽんと子供をあやすように軽く叩いた。
 しばらくの沈黙の後、くすりとミッティーが笑った。
「ばかだねえ」
 これ以上優しい声があるのかという程の声。堪えきれなくなったリーザの目から、涙がポロリと零れ落ちた。
「ばかだねえ、ホント。あんた、悪くないよ、全然」
 ミッティーはリーザのカップにお茶を足した。それから、腕の中の子供を隣の部屋のベッドへと寝かせ付ける。動きながらミッティーはリーザの泣き顔を見ないようにし、話し始めた。
「リーザは昔から、あれもこれもきっちりやろうとするからさ。それじゃ大変だよ。特に人の気持ちが絡むことはね。もうちょっと軽やかに人生歩いた方が、きっと楽だよ? ティドのこともさ、イェルトの彼のこともさ」
 泣き顔を見ないようにしようというミッティーの気遣いに感謝しながら、リーザはハンカチを取り出し、頬の涙を拭った。言葉がじわりと胸に浸みる。
「あたしはどうこうしろなんて言えないけどさ。ただ、外から見てる分には、『おつきあい』でいるうちにティドとは別れた方がいいんじゃないかとは思うよ。あんたさ、大人の恋愛にはまだ至ってないわけでしょ?」
 リーザの答えを待たず、ミッティーが冗談めかして言った。
「好きじゃない男に抱かれるのは後悔するよ?」
「えっ?」
 急に生々しい話になって、リーザは耳を疑った。
 ミッティーが椅子に戻ってきて、アハハ、と笑った。
「三十近いんだから、そんなに驚かないでよ。恥ずかしくなるじゃない。ぶっちゃけて言えば、あたしにもちょっとは後悔する過去くらいあるわよお。旦那と結婚する前だって、何人かの男性と付き合ってたしねえ。ま、それ程好きじゃない相手だって、中には一人二人いたってこと。結構後悔するのよ、これが。勿論、大抵は精一杯の、後悔しない恋だったけど」
 侍女になってからも親しくしていたので、そのことを確かにリーザは知ってはいた。が、自分に遠い世界だったせいか、そんなに深い関係まで行ったなどということは、初めて聞いたのだ。リーザは僅かに頬を赤らめた。
 そんな様子を、ミッティーは何気なくじっと見つめている。彼女はふと微笑んだ。
「何か、いいなあ。あたしなんか結婚して子供までできたから、そういうので顔赤らめたりする感覚、すっかり忘れちゃってるもんね。死ぬほど好きー、とかいう気持ちももうないし。そう思いたいと思っても、もうできないの。生活を一緒にしてる旦那相手には、そういう気持ちには戻れないもんねえ。だから大切にしなよ? そういう相手がいるって、本当に凄いことだし、後から思えば短い期間なんだからさ」
 まるで母親の口振りだ。ミッティーもそれに気づいたらしく、元気良くあはは、と笑い出した
「やあねえ。何だか、あたしリーザのお母さんみたいだわあ。あ、母親はそんなこと言わないか」
 リーザもつられてくすりと笑う。その笑顔を勇気づけるように、ミッティーが勢い込んだ。
「そうそう。笑う、笑う。辛いことがあってもねえ、笑えるうちはまだ大丈夫だって思うといいのよ。その方が気が楽でしょ?」
 気遣いを忘れないミッティーに、リーザの心のもやもやが段々晴れてきた。今まで、自分は迷っていないつもりだった。けれど、ずっと迷っていたのだ。何かを決めたつもりでも、迷いの中の揺らいだ選択だった。それが結果的に自分を更に苦しめていたことに、やっとリーザは気づいたのだ。
 ミッティーの提案通り、声を上げて軽く笑ってから、リーザは冗談めかしてぺこりと頭を下げた。
「ご心配をおかけしました。本当にそうね。話を聞いてもらったら、すっきりして何だか自分のやることが見えてきた気がするわ。本当にありがとう」
「はいはい。うーん、あたし、メリーナ菓子店の焼き菓子でいいわ」
 心からお礼を言ったのに、手をひらひらと振りながらのいい加減なミッティーの返事に、リーザは思わず吹き出した。
「なあに、それ?」
「だから、今回のお礼よ」
 メリーナ菓子店といえば、女性に人気のお店なのだ。焼き菓子は少し高いが、非常に美味しい。
「ちょっと高くなあい? まあいいわ、今度来る時買ってくる」
「やった! 言ってみるもんだわねえ」
 二人は声を合わせ、笑い出した。
 心の中につかえていたものが、ゆっくりと溶け出すような、そんな気分をリーザは久々に味わっていた。
 少なくとも、自分が好きな人が誰だか、今日この場ではっきりとした。それだけでも、大きな前進かもしれない。
 リーザの目には、リシアが嫁いで以来やっと、本当に前を見つめる輝きが戻ってきていた。

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