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 セリスが予測したその日の朝、セルクはエルス国の首都ネ・エルスに辿り着いた。
 日が昇ったばかりだというのに、既に市が立ち、威勢のいい掛け声があちこちに響いている。セルクは強行軍の疲れを忘れることに努めながら、セリスを尋ねる前に、まずは宿を探した。汚れきった旅の姿で貴族の館に入る訳にもいかない。前にその姿でエルス王城に行った時、荘厳な王城の雰囲気に圧倒されたセルクは深く反省したのだ。
 街の中の看板を見ながら宿屋を探す。そして、最初に目についたのが「金の麦亭」だった。
 ネ・エルスの交通の中心部にあり、どこに行くにも便利な場所である。外装も気取ったところがなく、庶民的な宿らしい。セルクは迷わずに宿屋に入った。
「いらっしゃい。朝食かい? それともお泊まりで?」
 一歩足を踏み入れるなり、快活で親しげな男の声が飛んできた。宿屋の一階は、朝も早いのに朝食を取る人でごった返していた。辺りに、スープのいい香りが漂っている。人の良さが顔に滲み出ている壮年の男性が、人波をかき分けてやってきた。どうやらこの店の主らしい。ほっとさせるような笑顔に、セルクは普段の口調で尋ねていた。
「宿泊できるかい? とりあえず一泊。もしかすると連泊になるかもしれないんだ」
「部屋は空いてるよ。すぐに使うかい?」
 親父の口調も、砕けた親しみのあるものだ。堅苦しい宿屋ではないらしい。
「いや、人と会う用事があるんだ。とりあえず荷物をおいて、着替えさせて貰えると有り難いな。馬も一頭いるんだが……」
「じゃあ、厩の準備もしときましょう。宿帳に記名願います」
 セルクが指し示された宿帳に名前と住所を書く。流石に王宮内に住んでいることは書けないので、母の実家がある学者の村の住所だ。それでも、宿帳を返すと、店の親父は驚いたように目を大きくした。鍵を手にして二階の部屋へ案内をしながら、話しかけてくる。
「お客さん、イェルトの人かい。うちのリシア姫様が嫁がれた場所だね。うちの姫様の評判はどうかね?」
 うちのリシア姫様、という表現に、セルクはにこりとした。いかにもリシアらしい呼ばれ方だ。きっと、本人もこれを聞いたら喜ぶであろう。
「上々だよ。私のような下々の者にも暖かい笑みを下さるような方だ。この一年で、国の中が明るくなった気がする」
 セルクの言葉に、店の親父は目尻に皺を寄せて、何度も深く頷いた。
「うちの姫様らしい話さ。うまくやってるって聞くと、私らだって嬉しくなるねえ。さあ、ここの部屋ですよ」
 通された部屋は、新しくはないが気持ちのいい部屋だった。店の親父は忙しそうにまた階下へ戻っていった。
 リシアの話を聞いたことで、明るい気持ちで、持ってきてもらった荷物を椅子の上に置く。
 エルス国民からこんなに愛されているリシアが誇らしかった。リシアと結婚したルイシェが誇らしかった。
 この評判に、決して傷をつけるわけにはいかない。セルクはそう決意を新たにした。

 二十分もしないうちに、セルクは貴族の従者らしく身なりを整えていた。伸びていた髭も剃り、癖のかかった赤い頭髪も整えた。
 一階へ降り、相変わらずの人波の中で忙しく立ち働く店の親父に一声かける。
「はいよ、行ってらっしゃい。鍵はカウンターの上ね。お気をつけて!」
 親父に見えるようにカウンターへ鍵を置いて、セルクは宿を後にした。
 外には光が溢れていた。疲れているせいか、外の景色が黄色く見える。
 だが、疲れているなどと言っている場合ではなかった。強く瞬きをして、光の方に目を向ける。こうすれば、すぐに目は慣れる。
 雑踏を通り抜け、人に道を尋ねながら、セルクはセリスの家である銀蟾城をを目指した。
 銀蟾城は町の中心部からは少し西に離れている。北に王城、東にレイオス城、南にはタランス城と、ネ・エルスは東西南北に城があり、それを礎として街が築かれたのだ、と、さっき道を尋ねた人が教えてくれた。宿屋は四つの城の、ほぼ中心にあったことになる。
 教えられた通りに道を進むと、市街が近くにあるのが嘘のような、豊かな緑が連なる小道へと出た。この奥にユーシス公爵家がある筈だ。馬を早足で進め、セルクは先を急いだ。
 緑の中に溶け込むように、その城はあった。
 王城と比べれば小さいが、神秘的な雰囲気が漂う、古く美しい城だ。これほど立派な城とは思っていなかったセルクは、気後れしながら、馬に乗った門番に用件を告げた。
「セリス様にお会いしたいのですが……」
「セルク様ですね。伺っております。こちらへどうぞ」
 門番と共に馬に乗ったまま、城へと向かう。門から城の入り口までは、見えるとはいってもかなりの距離がある。
 城の正面入り口には、城の中から見ていたのだろうか、既にセリスが立っていた。
 相変わらずの美しさだ。彼の印象でこの城が建てられたのではないかと思えるくらい、ぴたりとその場の雰囲気に合っている。馬から慌てて降り、セルクは深々と頭を下げた。
「セリス様、お久しぶりです。この度はご迷惑をおかけすることになり、誠に申し訳ありません」
「よう、セルク。相変わらず堅っ苦しいのな」
 まるで昨日会ったばかりの友人のような口調で、セリスが声をかけてくる。
「長旅で疲れてるんだろ? 部屋、用意しておいたぜ。動く前に、少し寝とけ」
 当然のように城内を指さすセリスに、セルクは慌てた。自分のような身分の人間に、まさか部屋を用意しているとは思わなかったのだ。
「ありがとうございます。ですが、既に街で宿を取ってあります。御厚情だけありがたく受け取らせて……」
「あー、宿のことはいいけど。俺に対してその口調はちょっとな。何とかならねえか? 誰に対してもそー話してるわけじゃねえんだろ?」
 少し困った顔でセリスが言うのを見て、セルクは慌てた。宿屋の親父とセリスとを、同じように扱うわけにはいかない。
「はい。ですが、これは身についてしまっていて、ルイシェ様のお友達に対しては、シェリー殿に対してさえこういう喋り方になってしまうのです」
 シェリーの名を出すと、セリスの口元に可笑しそうな微笑が浮かんだ。シェリーはセルクのほぼ半分の年で、身分も多分セルクとそうは変わらない筈だ。おまけに、どんな身分の相手であろうと、自分がこれと見込んだ人間以外にはあけすけな口を訊く少女だ。
「そりゃまた、難儀な習性だな。ま、無理に直せとは言えねえ」
 セリスは諦めたように首を振ってから、表情を引き締めた。世間話はここで充分と思ったらしい。
「休まずにここに来たっつーことは、情報が一刻も早く欲しいってことだろ。早速、俺が今までに手に入れた情報を話すぜ」
 セルクは頷き、聞き漏らさぬ体勢を取った。
「まず、ダシルワだが、奴はネ・エルスの南方……王城から見りゃ反対方向の、貿易商が多く住む地区に住んでいる。今の名前はバイレン・ターク。住んでるとこからも分かる通り、貿易に手を出してるぜ。イェルトから持ってきた金で、上手く立ち回ったみてーだな。儲けてるらしいが、小さな家に住んでるそうだ」
「バイレン・ターク……」
 セルクは確かめるように、口の中で繰り返した。ダシルワが貿易商になっているのには、意外性を感じなかった。あれだけ口の上手い男なのだ。商人は向いているだろう。
「姿を変えようって腹なんだろうが、髭を剃って、髪を染めているそうだ。髪の色は、どうってことない茶色。大分太ってもいるらしい。一見すりゃダシルワとはわからねえかもしれねえぜ」
 セルクの眉間に、いつしか皺が寄っていた。
 ダシルワは力をつけている。商人として成功し、新しい名が充分に他人から信頼されるものになれば、いつイェルトに戻って印璽を利用するかわからない。彼のエクタ王子やルイシェに対する恨みが消えているとは、セルクは露ほども思っていなかった。早く行かなければ、と身体が勝手に動く。
「セリス殿、私は早速向かってみようと思います。貿易商の住む地区ですね?」
 既に辞去を述べようとしているセルクを、セリスの白い手が冷静に止めた。
「まだ行っちゃいけねえ。朝から夕方まではダシルワは大勢の人間に囲まれている。あんたが行ったところで、周りの人間から不審人物として警備隊に通報されるのがオチだ。家に帰って一人のところに行った方がいい。そうじゃなくても、あんたは疲れてる。眠らないでこのまま行こうったって、無理な話だぜ? 注意力や判断力の低下で、やっかいなことを引き起こしかねねえ」
 非常に的確な意見だ。セルクもそう認めざるを得なかった。じわじわと襲う焦りを、セルクは必死で押さえつけた。
「とりあえず、一旦宿で休め。三時頃に迎えに行く。宿の名前は?」
 セリスの言葉に、表面だけでも冷静を装い、セルクは答えた。
「金の麦亭というところです。ネ・エルスの中心にある庶民的な宿です」
「金の麦亭?」
 セリスの翠色の目が、特別の名前でも聞いたかのように、僅かに大きくなる。が、内心動揺していたセルクはそれには気がつかなかった。
「わかった。単独行動は厳禁だ、頼んだぜ」
 馬に乗り込むセルクに、セリスが念を押す。わかりました、と頷き、セルクは馬の脇腹を軽く蹴った。
 一刻も早く宿に帰り、できるだけ身体を休める。それが自分に今、できることなのだから。

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