page7
NEXT
 イェルトで事件が起こったのは、それから一月ほど経った頃のことだった。
「やっぱり、ないわ……」
 執務室にある引き出しという引き出しを開けっ放しにして、リシアは困り果てていた。ルイシェも途方に暮れて、手元にある小さな印璽箱の中を見つめた。あるはずの印璽が、そこにはない。
「弱ったね。多分、彼に持っていかれたんだ。今すぐ必要という訳じゃないけれど、無いことがもし発覚したら……」
 印璽はイェルト国王家に幾つかあり、そのうち紛失していたのは、国際的には効力がないが、内国では十分に印璽としての効力を持った一つであった。殆ど交代のない領主の任命時などしか使うことはなかった為、今まで気づかなかったのだが、無いとなれば大問題である。
「この国を去るとき、何かはしているだろうと思ったけれど、こんな困ったこととはね。元宰相だから、ここに立ち入ることは不可能じゃなかっただろうし」
 リシアとルイシェは同時に二つの名を持つ一人の中年男を思い浮かべた。
 褪せた黄色の髪、脂下がった顔と体。ラルドーことダシルワである。彼しか考えられない。
 元々エルス国の貴族だったが、賄賂の罪で貴族の名を剥奪され、腹いせに王宮の財宝を盗もうとして、たまたま居合わせたリシアを誘拐した男。エルス国を追われ、イェルト国の支配を企むバルファン教の高僧ムル・メーダと共に、まんまとイェルトの中枢部に食い込んだ男だ。バルファン教のイェルト撤退と共に姿を消していたが、リシアとルイシェにとっては、因縁浅からぬ相手である。
「もう、どこまであの人に関わらなくちゃいけないのかしら」
 憤然として、リシアが腰に手を当てた。ルイシェも心配そうな顔をする。
「自分一人ではそんな大きなことができるような男じゃないけれど、他の人間を利用するのが巧いからね。できるだけ早く見つけださなくちゃいけない。彼の息のかかった人間が我が国の領主になったりしたら、また面倒なことになる」
「そうね。あの人、確かバルファン教を裏切って、バルファン教からも良く思われてないんだったわよね。とすると、今、どこにいるのかしら?」
「さあ……予想もつかないな」
 イェルトを追われた時、それまでに貯め込んだ、一生楽に暮らせる財宝と共に消えたダシルワである。好きな国で、或いはまた別の名前で新たな人生を送っていることだろう。印璽を持って、ささやかな復讐で満足しながら。
「あっ」
 リシアが小さく声を上げた。
「どうしたんだい?」
「セリスに探してもらえばいいんんだわ! きっと、精霊さんがすぐに見つけてくれるもの。私、すぐにお手紙書くわね」
 嬉しそうに机の中から便箋を取り出す。リシアのその様子を見ながら、ルイシェは苦笑した。
「こんなことで迷惑をかけるのは心苦しいけど、今回は仕方ないか。この国でも、優秀な精霊使いを一人、雇った方がいいかもしれないね」
 しかし、羽ペンにインクを付けたリシアは真剣な眼差しで、もう返事をしなかった。

 セルクが特別な用事でルイシェに呼ばれたのは、数日後のことである。
 ルイシェには毎日何かの用事で呼ばれているセルクだが、この時は執務室の雰囲気の違いを感じ取った。このように張りつめた雰囲気は、ルイシェがバルファン教と対峙した前後以来のことである。
「何か、面倒なことでもあったのですか?」
 平和な生活に慣れたとはいえ、しばらくぶりの緊張感に触れ、膝をついたセルクは顔つきを引き締めた。
「流石に察しがいいね。その通りだよ」
 ルイシェが口元にちらりと笑みを浮かべ、すぐに王らしい口調で続けた。
「王子だった頃なら、僕が動くのだが、今の立場では簡単に動くことができない。代わって君にして欲しいことがあるんだ」
 セルクは頷いた。
「セルク、今すぐエルス国に向かってほしい」
 思いがけない指令だった。セルクの胸に、嫌な予想が次々に立つ。どっと体中にかいた冷や汗を感じながら、セルクは尋ねた。
「何があったのですか? まさか、あの国で内乱でも?」
 内乱、と聞いて、ルイシェが小さく首を横に振った。
「このまま放っておけば、或いはそうなるかもしれないが、遠い未来のことだろう。だがそれよりも、我が国の印璽が一つ、例の事件の混乱時に持ち去られてしまったことの方が、当面の問題だ。領主の任命時に必要なものなのだが、持ち去られたのに気づいたのが数日前。今まで使わなかったものだから鷹揚に構えていたけれど、そうもいかない事情ができてしまったんだ。嫡子のいなかったフェノルト地方の領主が亡くなり、隣のラクドア領主が兼任することになった。まだ届けは出されていないが、出されれば印璽が必要になる」
 流れるような説明に、セルクは頷いた。ある女性のことを思い浮かべ、内乱ではないことにホッとしたセルクだが、印璽のことも重大な問題である。領主任命の手続きが滞れば、新国王の面目を失いかねない。しかし、何故エルス国なのかは分からなかった。静かにルイシェの話の続きを待つ。
「印璽を持ち出した犯人は状況から見て、ラルドー……つまりダシルワではないかと思う。レイナ先后やライクにはそうする理由がないし、バルファン教のムル・メーダもこんなに小さな復讐をするような人間ではないだろうから。それで、リシアがセリス殿に連絡し、ダシルワの現在の居場所を探してもらった」
 ルイシェの黒曜石のような目が、まっすぐにセルクに向けられた。
「ダシルワは再び名を変えて、エルス国にいる。それも、王のお膝元であるネ・エルスに、堂々とね。印璽の問題だけではなく、このままではエルス国にも被害が及びかねない。行ってくれるか、セルク?」
 対するセルクの答えは、とうに決まっていた。
「勿論です。印璽を取り返し、ダシルワの正体をエルス国で暴けばいいのですね」
 ルイシェの顔が、みるみる安堵に染まっていく。それを見ただけでも、自分の判断が正しいことを確認できた。
「すまないね。こういう大事なことを頼めるのは、セルクしかいないんだ。向こうに行ってからは、セリス殿が手伝ってくれる手筈になっているから」
 あくまでも自分への気遣いを忘れない主君を持ったことは、何よりもの幸せだとセルクは思う。今でも時折弟のように感じることがあるが、国王になってからのルイシェは本当に頼もしい。
「お任せ下さい。では、すぐに出発することにします」
 セルクは一礼し、立ち上がった。
 数刻後、セルクは既に馬上の人となっていた。
 エルス国までの旅路は、普通一週間強。が、昼夜続けて馬を取り替えながら走れば三日で着く。セルクは、迷わず後者での強行軍を選択した。
 イェルトで新王ルイシェの人気は上々と言えたが、まだ王になって一年。戦争を減らす方向性の政策は、賛否両論が入り乱れている。戦争で失う命は減るかもしれないが、戦争に関わる産業もまた衰退する。人民の心も、まだ揺れていることをセルクは知っていた。何か一つ失敗してしまうと、株が暴落しかねない危うさを秘めている。
 だからこそ、ルイシェに失敗をさせるわけにはいかない。今回のことも。
 馬上でうたた寝をし、食事を取り、身を削りながらセルクはエルス国へ向かった。
 そう言えば、とセルクは思った。
 去年、同じようにエルス国に急いだことがあった。その時は最後に体調を崩し、エルス王城でしばらく手篤い看護を受けたのだ。熱で朦朧とした意識の中で、先頭に立って看病してくれた彼女がどれほど美しく見えたか。同じ女性への、二度目の一目惚れといっていい程だった。
 今、自分は彼女の住んでいる国へ向かっているのだ。城に立ち寄る予定はないから、会えないかもしれない。けれど、近くにいることができるという考えだけでも、今のセルクにとっては幸せだった。
 だが、とセルクは気持ちを引き締めた。
 国の印璽が盗まれたことで、こうやって自分はエルス国に派遣されているのだ。浮かれた気持ちでばかりはいられない。彼女のことを考えるよりも、今はダシルワをどうするかを考えなければならない。
 セルクは背筋を伸ばし、遠くエルス国の方角を見つめた。

 エルス国では、リシアからの手紙を受け取ったというセリスのところに、テイルが押し掛けてきていた。
「ダシルワだっけ? 元ラルドーも、良くやるよなあ」
 セリスから詳しい話を聞いてから、呆れ顔で顎に手を当てる。
「わかってるだろうけど、てめーは手出しすんなよ。これはイェルトの威信の問題だ。俺達エルス国の人間が解決しちゃまずい」
 黙っていた手紙のことを嗅ぎつけたテイルに呆れながら、セリスは念を押した。
 まるで子供を相手にしているようなセリスに、テイルが拗ねる。
「……お前、俺のこと阿呆だと思ってるだろ?」
「そうじゃねえとでも言いたげだな」
 綺麗な顔でサラリときつい返事を返すセリスに、テイルがぐっと詰まった。そんなテイルの様子など気にも留めず、セリスは空中に手を伸ばした。
「イェルトからはセルクが来るらしいぜ。休まずにこっちに向かってるらしい。ま、いい人選だ。あいつなら仕事をきっちりやってのけるだろうしな。報告ありがとよ」
 最後の言葉は、空中にいる精霊に向けたものらしい。テイルには普通の精霊は見えないが、いつだってセリスの情報が確かなのは間違いがない。
「それで? いつ頃来るって?」
 じゃれるのも飽きて、真顔でテイルは尋ねた。それまでテイルを虚仮にする姿勢だったセリスも、同時に声の調子を変える。
「この調子で来れば、明後日。多分午前中だ」
「ふ……ん。それじゃ、それまでに下準備をしておいた方がいいだろうな。それくらいなら許されるだろ?」
「まあな。ただ、今回おめーには影に徹してもらわねえとな」
「分かってるさ。俺はエルス国中枢部に近すぎる立場なんだろ?」
「そーゆーこと」
 テイルは残念そうに肩を落としてみせた。
「全く、つまらん立場だ。王位継承第三位なんて、なるもんじゃない」
「とか言いつつ、殆どのごたごたに首突っ込んでるのは誰だよ」
 セリスが呆れたようにテイルの顔を見つめる。
「エルス国一の美男子かなっ」
 自分を指さし、テイルは目一杯可愛らしく微笑んだ。
 突っ込む気も失せたセリスと、微笑むテイルの間を、乾いた風がヒューという音を立てて通り過ぎた。

NEXT
BACK
感想を心よりお待ちしています。
フォームメールへ
「LIEZA」トップページへ戻る
My Castleへ戻る