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 その場にいることなど、耐えられなかった。
 金の麦亭を飛び出したリーザは、壁に何度もぶつかりながら闇雲に走っていた。頭ががんがんと割れそうで、何も見えない。耳元で何かが喚き立てていて、何も聞こえない。周囲の人が奇異なものを見る目で自分を見つめているのにも、全く気づかなかった。
 前に進もうと、思ったのに。
 運命は、あまりにも残酷だ。
 音を立てて壁にぶつかり、リーザは反動で跳ね飛ばされた。
 痛い筈なのに、全く感じなかった。目の前がぐるぐると回っている。ぶつかったせいなのか、混乱のせいなのか、リーザには判断する術などなかった。その場で蹲り、嗚咽を堪えるので精一杯だった。
「っ、あっ……」
 抑えようとしても抑えようとしても、身体の奥底からわき上がる絶望の嗚咽。面白いようにがくがく震える手を口に当て、せめて絶叫を止めようと、リーザは必死だった。
 全て、自分の浅はかさから。
 全て、自分の愚かさから。
 堰を切ったように涙がぼとぼとと落ち、乾いた白っぽい土を黒く塗り替えていく。
「居たっ!」
 どたどたと足音が近づいてくる。
「おい、リーザ、大丈夫か? どうしたんだよ?」
 流石の異変に不安になったのだろう、ティドがリーザを追ってきたのだ。
「アザできてるじゃねえか。こっちは血ぃ出てるぞ。おい、大丈夫かよう……」
 ティドがリーザの肩をそっと抱こうとする。その瞬間、リーザは反射的にティドの手を跳ねのけていた。
 自分でも驚くほどの強さに、リーザは理性を僅かに取り戻した。
「……ごめっ……ティド、ごめ、んなさ……」
 ティドはおろおろとしながら、リーザを見つめている。リーザにはそれも辛かった。濁流となって押し寄せる感情を、深呼吸をして宥めようと試みる。
「よくわからねえけど、俺が悪いのか? 殴ってもいいぞ?」
 ティドが恐る恐る申し出る。
 殴ることですっきりするようなことなら、どんなにいいだろう。ティドだけが悪いのなら、どんなにいいだろう。
 リーザは首を弱く横に振り、崩れそうになりながらも立ち上がった。
 唇をわななかせながら、伝えねばならないことを口にする。
「ティド。あの人が、私の好きな人。ごめんなさい。もう、あなたと一緒にいられない」
 ティドがぽかんとしている間に、リーザは再び走り出した。

 セルクが泊まっているとわかった以上、実家にはとてもではないが帰れない。とすれば、戻るのは王宮しかなかった。
 自分のことで泣きながら走るのは、一体いつ以来なのだろう。恋愛という理解できないものに振り回されている自分が悔しくて、それでもなおセルクへの想いを断ち切れなくて、リーザは煩悶していた。
 人目が届かない道を選んで通りながら、リーザは王宮の西門へと辿り着いた。ここは通常、商人などが品物を運んでくる為に使うだけで、一番使われていない門だ。門番も、他のところは六人以上いるのに比べ、二人しかいない。
 今日の門番は、顔見知りの若い衛兵見習い達だった。いつもならにこやかに挨拶をするところだが、今日はそれどころではない。物問いたげな視線を振り切り、王宮の中へと滑り込む。早く一人になって、思う存分泣き崩れたかった。
 だが、誰にも会いたくない時ほど、人に会ってしまうのが、世の常なのだろう。門を潜り抜けてすぐのところで、声をかけられた。
「あれ、リーザ?」
 視線を上げると、そこに背の高い男性の姿。涙で曇った目で、一瞬エクタかと間違えそうになった。しかしすぐに誰かを認識する。
「テイル様……」
 身体に染みついた躾で、立ち止まって深くお辞儀をしようとした。それと同時に、テイルに侍女らしからぬ振る舞いを見られたくないという思いも働き、逃げ腰になる。端から見ると、滑稽な姿だったのだろう。リーザの中途半端な姿勢に、テイルが笑いを堪えるような声をあげた。
「おいおい。逃げることはないだろう。悪魔に会った訳でもあるまいし」
 そう言いながら、近づいてきてリーザの顔を考え深げに覗き込んだ。
「何だ、また泣いてるのかい? 俺のせいじゃないよな? 一体どうしたんだ?」
 軽口を叩くような口調が、テイルの顔はとても真面目だった。
 そういえば、リシアの結婚式へ向かう道中、リーザはテイルの前でやはり泣いていたのだった。その間、おろおろと心配してくれたのを思い出す。
 信頼できる人なのだ。そう思った途端、リーザは涙をぼろぼろと零しながらその場に立ち尽くしていた。
「困ったな。これじゃ、本当に俺が泣かせたみたいだ。何があったか、話せるか?」
 しゃくり上げながら、子供のように訴える。 
「セルクさんがいてっ、ティドが一緒でっ、わっ、私、逃げて……」
 拙く短い言葉の羅列だったが、テイルには充分通じたようだった。痛ましそうに眉を顰める。
「ティドっていうのが、君にお付き合いを申し込んだっていう?」
 テイルの質問に、リーザは大きく頷いた。テイルがアッシュ・ブロンドの前髪を軽く掻き上げる。
「君達の間の悪さときたら、天下一品だな。全く、見ていて歯痒くて仕方がない」
 テイルの方がリーザよりも幾つか年下の筈なのだが、まるで兄のような口のききかたをする。それが、今のリーザには頼もしかった。テイルは、人目につきにくい裏庭の端を選んで、リーザにそこに座るよう促した。そのまま、リーザが喋れるようになるまで、無言で待っていてくれた。
「……私が、悪いんです。セルクさんを無理に忘れようとしたから」
 凪のような涙に変わった頃、ぽつりとリーザは呟いた。
「自分の間違いに気づいて、今日、ティドとのお付き合いを断ろうとしていたんです」
 深く、深く溜息。本当に、間が悪い。
 頭に、ふわりと何かが乗った。テイルの暖かい大きな手だというのがわかるまでに少しかかった。
「それはそれで、いいんじゃないの? 君のしてることは、間違ってない。俺は君が男性と付き合っているって噂を聞いた時、前向きだって感心したけどね。その彼氏とだって、付き合ってみて駄目だとわかったんだろうし」
 リーザはテイルの顔をまじまじと見つめた。テイルは、片手で顎を支え、リーザに向かって慰めるように微笑んでいる。
「起こったことは、しょうがないと思うよ。自分のせいだとか、そういうことじゃない。ただ、ちょっと巡り合わせが悪かった」
 頭に乗せられた手が、ぽんぽんと軽くリーザの頭を叩き、離れていく。茶色の混じった緑色の目が意外な程に優しかった。
「まだ、間に合うんじゃないのかな? 結婚していた訳じゃなし、何とでもなるよ。君は必要な勇気を持っている人だと思うけどね。リシアを救いに命をかけたことがあるくらいだ。自分の為に同じように動くのも、時には悪くないだろ?」
 リーザの暗く後ろ向き気持ちに光が射し込んでくる。親身になってくれるテイルの言葉が、しみじみと暖かかった。
 地獄に突き落とされたような絶望的な気持ちが、段々と浮き上がってくる。リーザはいつもの自分に戻りはじめていた。
「……いい方ですのね、テイル様」
 溜息と共に口にする。心からそう思って言った言葉だったが、テイルががっかりしたように喉の奥で小さく笑った。
「それは、女性からはあんまり聞きたくない言葉だなあ。恋愛相手としては見られていない証拠だからね。魅力がないと言われているようで辛い」
 リーザは涙で強張った顔を、つい緩めた。
「テイル様には、いずれ素敵な方が現れますわ。普通の女性なら、放っておいたりしませんもの」
 リーザの取りなしを否定するかのように、テイルはひらひらと手を横に振った。
「いやあ、駄目なんだ。今はたまたまいないけど、大抵隣にひっついてる奴がいるから。ああいう外見のがいると、女性はまず寄ってこない」
 そう言いながら、立ち上がってリーザの側からそっと離れるテイルの優しさに、リーザは気づいていた。
「自分からも女性にお寄りにならないでしょう? テイル様は好きな女性が現れたら、どんなことをしてもその女性を幸せになさる筈ですわ」
 思わぬリーザの言葉に、テイルは照れたように頭を掻いた。
「やれやれ。相手もいないのに、将来その相手に尻に敷かれるような気がするのは何故だろうね?」
 その言い方が余りにも情けなくて、リーザは声を立てて笑っていた。

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