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 再会した後の僅かな記憶は、セルクにとって曖昧としていた。いつセリスが現れて、宿を出たのか。全てが霧の中だ。
 ただ、怯えたように口元に手を当て、立ち竦むリーザと。嬉しそうにしている巨漢と。二人の姿が、いつまでも網膜から離れない。
 それでも茫然自失の状態から醒めると、目の前にセリスが腕組みをして立っていた。噴水のある広場に、自分達がいつの間にか来ていることに、セルクは気づいた。水の音が、爽やかに辺りに漂っている。
「セリス様?」
 一緒にいることが俄には信じられず、セルクは辺りを見回し、それから戸惑いながらセリスの顔を見つめた。
「いつ、いらしたのですか? 私はここまで自分で?」
 素朴な問いかけに、セリスは肩を竦めた。
「やれやれ。今度は本当の問いかけだろうな?」
 セリスの様子から察するに、自分は何度もこの問いを繰り返したらしい。必死で記憶を手繰り寄せ、セルクは少しずつあったことを思い出してきた。
 確か、あの後、リーザは厨房から裏口へと飛び出した。セルクは立ち上がって、宿の出入り口に向かったのだろう。そこでセリスの姿を見つけた。
 セリスの横をすり抜けてリーザの姿を探したが、いくら探しても表通りにその姿はなかった。
 腑抜けたようになって、声をかけられるままにセリスの後をついて来たような気がする。
「え……ええ、思い出しました。どうやって来たかも覚えているようです。大丈夫です」
 セルクは、身体をぶるりと震わせ、自分の頬を軽く打った。頭が、少しはっきりとしてくる。
 こんな状態になったことは、生まれて初めてだった。恥じ入りながら、理性を総動員させる。
「申し訳ございません、セリス様。自分の職務も弁えず、我を失っていました」
 生真面目な台詞に、セリスが口の端を上げる。
「大したことじゃねーよ。そんなに畏まるなって」
 あっさり許され、セルクはほっとすると同時に、全身から力が抜けるのを感じた。膝に力が入らず、そのまま近くにあったベンチに座り込む。
「おいおい。ちゃんと寝て食ったんだろうな?」
「寝ましたが……食べるのは、忘れたような気がします。リーザ殿のことがショックで……」
 ポロリと言ってしまってから、セルクは気づいた。これでは、セリスに自分がリーザを好きだと告げているようなものだ。慌てて、更にいらないことを言ってしまう。
「その、勿論エルス国へは王の使いで参ったのですが、リーザ殿と会えればとも思っていなくはなかったのです。しかし、このような再会になるとは……」
 話せば話すほど、自失する程に衝撃を受けてしまったその想いを暴露してしまっていることに気づき、セルクは口を噤んだ。セリスは編んだ銀髪の毛先を弄びながら、気まずそうに横を向いている。
「す、すみません」
 短く謝り頭を下げると、セリスは手を髪から離し、気分を変えるかのようにセルクを誘った。
「ここら辺に、旨いもん食わせる店があるんだ。行くか?」
 空腹を感じる気力すら無かったが、これからのことを考えて素直に頷く。セルクはふらつく足で立ち上がり、ゆっくりとセリスの後を追った。

 半刻も立たないうちに、セルクはその店の注目の的になっていた。
 セリスが連れて行った店に麦酒があり、気付け代わりにと勧められるままに口にしたのが運の尽きだったのかもしれなかった。
 空きっ腹に流し込んだのも重なったが、セルクは恐ろしく酒に弱い男だった。
「私は、もう駄目です……」
 コップ一杯で髪と同じくらいに顔を赤くしたセルクが頭を抱える。
「リーザ殿は、リーザ殿は、恋人がいて……結婚してしまうのです」
「結婚するは飛びすぎじゃねえの? リーザが結婚したいって言ってるの、聞いた訳じゃねえんだろ?」
「でも、それを聞く前に彼女は逃げた。そして、その前に相手の方が言ったのを確かに聞きました。もう駄目です。私は、失恋したのです」
 セルクは決して泣いていなかったが、それだけに鬼気迫る落ち込みっぷりであった。真っ昼間から泥酔している自分に周囲の奇異の目が向けられても、気がつく様子すらない。
「ちゃんと気持ちを伝えなかった、私の責任です。リーザ殿のような素晴らしい女性が、放っておかれる筈など無いと分かっていたのに」
 がっくりと項垂れ、背後に暗雲を纏いながらセルクがぶつぶつと呟く。
 呆れているのを態度に出さないように努めていたセリスも、周囲の視線に耐えかねて溜息をついた。それを酔ったセルクは見逃さなかった。有無を言わせぬ調子で問いかける。
「セリス様は、お好きな女性がいらっしゃるのですか?」
「いねえよ」
 絡みを躱そうと素っ気なくセリスが答えると、そんなことはどうでも良いらしく、セルクは暗い目で虚ろに笑った。
「私もそうでした。リーザ殿に会うまでは。初めて彼女を見た時、私の視界は薔薇色になったんです。いいですよね、恋。でも辛いですね、恋」
 おかしな詩のようになってきたセルクの言葉を聞いて、周囲の客が笑いを堪えている。見るからに生真面目そうな男だけに、こういう台詞が口から漏れること自体が珍妙でしかない。
「あの人は太陽、私は石ころ。石ころがどんなに太陽に恋い焦がれようと、太陽は石ころに気づきもしないのです」
「おいおい、気づいてねえってことはねーだろ?」
 セリスがつい突っ込むが、セルクには全く耳に入っていない。
「あの人がいないと私の心は真っ暗なのに、結婚すると聞くと、近くにいる今、もっと真っ暗です。まるで日蝕です。セリス様は、こういう気持ちになったことはありますか?」
「ねえな」
 リリカルに語るセルクに対し、セリスはこれ以上ない程散文的に答えた。セルクは意味もなくゆるゆると首を振り、更に語った。
「底なし沼にはまったような気持ちなんです。はまったことはありませんが、きっとこんな感じです。足掻いても、自分の身体は沈むばかり。溺れて口の中に泥が一杯に詰まり今にも死にそうなのに、それでも考えているのはあの人のこと。あの人に結婚してほしくない、と思っているけれど、私は相手の人と言葉を交わした。嫌な男なら彼女が嫁ぐことを止めることもしよう、でもあの男性は悪い人には見えなかった。彼女を愛しているのも分かる。つまり、私に残された道は、底なし沼の底に沈むことばかりなのです……」
 ずるりと上体を机に乗せ、セルクは完全に突っ伏した。
「あああ、私の遅い青春はこうやって終わるのか。夢なんか、もう二度と見ない。仕事に打ち込んで、仕事、仕事に……」
 言葉尻が段々弱くなっていく。寝息とも取れるような呟きに、周囲もやっとホッとして視線をセルクから離した。
 その瞬間。
「仕事っ! セリス様、ダシルワのところへ急がなければっ!」
 絶叫が、酒場内に響いた。
 先程までの赤い顔はどこへやら、蒼白になったセルクが立ち上がり、己の失態に身体を震わせている。
 セリスは指で椅子を指さした。
「落ち着いて座れよ、セルク。今の状況で行ったら、それこそ失敗するだろうが」
 崩れ落ちるようにへなへなとセルクが腰を落とす。
「わ、私は、何ということを……」
「まだ日は高い。元々夜に行く予定だったんだ、酔いを冷ます時間くらいあるだろ。それとも、酔いは冷めにくい体質か?」
「いえ、そんなことは……」
「なら間に合う。謝ったり後悔したりするのは無しだ」
 右手を挙げて、セリスは店主を呼び、酔い冷ましに効く濃いお茶を頼んだ。それから、片眉をすっと上げる。
「冷静に考えてみりゃ、悪くねえと思うんだけどな。好きでもねえ男になら、堂々とその男を紹介しちまうだろ」
 セルクは痛み出した頭に軽く手を添えながら、セリスの言葉を反芻した。確かに、そうなのかもしれない。少なくとも逃げる必要はない。リーザが後ろめたいと思わない限り。
 僅かな光が見えた気がした。
「そう……思われますか?」
「ま、普通はな」
 運ばれてきた、妙に濁ったお茶を一口啜る。酷く苦い。酩酊感も自己嫌悪も笑い飛ばし、流していくような苦さだ。
 セリスはそれ以上何も言わなかった。それが有り難かった。
 今までのことを考えれば、全て自分に責任がある、とセルクは思い始めていた。
 リーザのことをずっと想っていた。けれどこの一年、悩むばかりで一体何をしたんだろうと。
 確かに、好きだというばかりでは動けないのがこの年齢の恋愛であるのかもしれない。彼女の立場を考えれば、簡単には動けないかもしれない。だが、全く動かないというのは、それこそ間違っている。失恋を待ち望んでいたようなものだ。
 他の女性が目に入らないほど、リーザに惹かれている。こんなにも動揺してしまうほど。
 どんなに人の好さそうな男であっても、彼女の側にいることが耐えられない。ましてや、結婚など。
 ならば、することは決まっている。想いを伝えるのだ。今日一度振られたようなものだが、それでもきっちり自分の口から告げるのが、男というものだ。
 これからダシルワのところへ行き、ごたごたを片づける。明日になったら、エルス王城に行こう。
 セルクは決め、一気に苦い液体を煽った。ぶるりと身震いをし、カップをトン、と音を立てて置く。
 それを見て、セリスが店主に何かを注文した。不思議に思って見ると、セリスが苦笑した。
「お前、まだ何も喰ってねえだろ。眠くならねえ程度に腹に入れとけ」
 妙に気の利くセリスに、セルクの口元が思わず綻んだ。

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