「バイレン様。お夕食の支度が整っております」
美しい金髪の小間使いが、妙につんけんしながら告げに来た。上品さと冷淡さを勘違いしているような小娘だ。
返事もせずに、ダシルワはゆっくりと立ち上がった。元の姿を隠すために大分太ったのだが、そのせいで身体が重くてたまらない。それでも、贅を凝らした食事は楽しみだった。ツケで酒を飲んでいたことがあるのが嘘のようだ。
今の生活は愉快そのものだ。短い期間で商売は繁盛し、金は増え続けている。一年前、過去を買い取った名もない男に成り代わって生活を始めた時には不安もあったが、今はそれも薄れていた。
過去を嗅ぎつけられたとしても、逃げるのに充分な金も人脈も作った。イェルトで他人に操られ、謀略に手を貸していた頃に比べれば、気分も断然楽である。
腹を揺らしながら階段を下り、鼻歌を歌う。
エルス国は本当に良い国だ。かつて自分に屈辱を味あわせた王子の存在も、昔ほど気にはならない。今にして思えば、あんなに憎悪していたのが信じられないくらいだ。憎悪によって堕ちかけた為かもしれない。
いや、違う。今が満足だから、こう思えるのだ。再び地を舐めるようなことになれば、やはりダシルワは誰かを激しく憎むだろう。そして、危険だと知りつつも、相手を貶めるために力を尽くすのだろう。人間なら多少なりとも誰しも持つ、闇の部分だ。
食卓に付き、ゴブレットの中を血の色をしたワインで満たす。
もし、今度追い詰められ、逃げねばならない時の為に、ダシルワは保険を持っていた。
イェルトの印璽である。
印璽は、掃除をする小間使いでさえも知らない場所に隠してある。あれさえあれば、もしこの国でまた失敗したとしても、イェルトに戻り小さな力を奮うこともできる。ダシルワから二度にわたって居場所を取り上げた、イェルト国王となった青年へのささやかな復讐にもなる。
愉快でたまらなかった。
内心でほくそ笑みながら豪華な一人きりの食事を楽しんでいると、金髪の小間使いがすうっと斜め後ろに立った。
「バイレン様、お客様でございます。お通ししますか?」
ダシルワは鼻を鳴らした。最近、こういう輩が多い。金の匂いを嗅ぎつけ、おこぼれに預かろうという魂胆が見え見えの連中。
だが、ダシルワはそういう人間を見下すことも、また楽しみの一つにしていた。
「身なりがみすぼらしくないようなら、通せ。みすぼらしいようだったら叩き返すんだな」
横柄に命令を下すと、小間使いは表情一つ変えずに頷いた。
「それではお通しします」
ダシルワは大きな肉塊にナイフを入れ、そぎ取った。旨そうに豪華な食事を取っているのを見せつけるのも、悪くない。
だが、通された二人を見て、流石のダシルワの手も完全に止まった。
「お久しぶりです。大分羽振りが良いようですね。姿も変わられた」
直接に会ったことは数度しかない連中だが、その姿は忘れようもない。エクタ王子の協力者であるユーシス公爵セリスに、ルイシェ王の従者であるセルクだ。バイレン・タークがダシルワであることに露ほどの疑いも抱かずに、乗り込んできたという訳だ。
騙し通そうかと一瞬考えたが、彼らには無駄だと本能が警告してきた。ダシルワは口元を歪ませながらも、何とか笑った。
「随分と奇妙な取り合わせじゃないかね。一体何があったのかね? 金に困って融資を頼みに来たのなら、相談には乗るが」
「ほう、面白ぇ冗談じゃねえか」
美女も裸足で逃げ出しそうな完璧な微笑みを浮かべて、セリスが揶揄る。だが、翠色の眼はダシルワを凍らせんばかりに冷たい。畳みかけるように、セルクが厳しい声を向けた。
「何故私がここにいるかはお分かりでしょう。大切なものを返して頂きに参りました」
ダシルワは小間使いを追い払いながら、素っ惚けてみせた。
「はて。何のことなのかな? 思い当たる節は無いのだが……」
内心では汗をかくような思いだったが、彼らは当てずっぽうでここに来ているという確信があった。少なくともあの混乱の中、印璽を盗んだ目撃者はいなかったのだから。
セルクが眉根にぐっと皺を寄せ、ダシルワを睨み付けてきた。
「白を切るつもりですか? 状況的に、あなたしかいないことは分かっています」
しかし、従者ごときに唯々諾々となるようなダシルワではない。語気を強めて、セルクに反駁する。
「だから、何を返して欲しいというのかね? 私が何か君の物を盗ったと、そう言いがかりをつけるつもりかね?」
食欲など失せていたが、余裕を見せつける為にむしゃむしゃと肉を食べてみせる。セルクの顔がすうっと青くなるのを、ダシルワは意地の悪い心地よさの中で眺めていた。
「まずはその大切なものとやらを私が盗った証拠というをまず持ってきてくれたまえ。一時君の君主と対立したからといって、こう疑われてはたまらないねえ。今は名前こそ変えているが、ただの無害な貿易商だよ。そうだ、一緒に夕食でもどうかね?」
微笑みを浮かべながら椅子を指し示す。
「……狸め」
唸るように、セリスが言った。
状況が不利であることに、二人の青年も気が付いたらしい。ダシルワは内心ほくそ笑んだ。
「まあ、そんなことが……」
王城の程近くの、中流階級が良く足を運ぶ洒落た感じの料理店。気分転換が必要だと主張するテイルに連れられ、リーザは一緒に食事を採っていた。そこでやっとテイルから、セルクがエルス国にいた理由を事細かに聞くことができたのだ。
セルクが自分に会いに来たわけではないということに半分がっかりし、半分ほっとする。何よりも、困難な仕事をこなそうとするセルクに、リーザは改めて尊敬と共感を覚えた。
「姫様もルイシェ様も、どんなにお困りでしょう。まさか、あの男が盗みを働いてエルス国に舞い戻ってきていたなんて。いつまで纏わりつけば気が済むのでしょうね?」
「リシアが十二歳頃からの因縁だもんなあ。そろそろ完全に縁を切りたいところだ」
食後の熱いお茶に舌を焼きながら、テイルがぼやく。
リーザはふと、あることに気づいた。
「ダシルワって、元男爵なんですわよね? 賄賂で爵位を奪われ、家族に捨てられたと聞きましたが……」
「ああ、そうだよ。ルエン家の人間だ。多少の賄賂には王家も口頭で注意を与えるくらいだが、ダシルワは何度も無視してね。自分から賄賂を請求し、送られなければ悪質な嫌がらせを与えていたという。彼に何もかもむしり取られた貴族を、俺も知っているよ」
思い出してテイルは顔をしかめた。テイルも何人かの知り合いがダシルワによって貶められていたことを知ったのは最近のことだった。
だが、リーザが気にしているのは全く別のことだった。
「その家族の方達……今はどうされているのすか?」
テイルは意表を突かれ、リーザの顔をまじまじと眺めた。リーザは続ける。
「ダシルワは国外追放されたのにエルス国に戻ってきています。他に理由もあるでしょうが、何よりも家族のことが気にかかっているのではないかと思いますの。憎んでいるか愛しているかは分かりませんが、多分両方でしょう。もし彼らに情で訴えかけられたのであれば、ダシルワの心も多少なりとも動くのではないでしょうか。上手くいけば、印璽を取り返すのと同時にダシルワを更正させるチャンスになるかもしれませんわ」
女性ならではの発想だ。テイルは口笛を吹いた。
「鋭いね。確かにその通りだ。俺も君みたいな才媛をパートナーにしたいよ」
冗談混じりの開けっぴろげな賞賛の言葉に、リーザはほんのり頬を赤らめてテイルを睨み付けた。
「茶化さないで下さい。セルクさんとリシア様達の為なら、頭も回ります」
「おいおい、そんな素晴らしいことを考えつかなかった自分に腹が立っただけだよ。それはそうと、実家に戻ったダシルワの妻子、そして残ったルエン家の面々が今どこにいるか探す必要があるな。これなら、セリスに頼まなくとも明日中に調べられそうだ。セルク達がダシルワとの接触に失敗した時のいい保険になるね」
テイルは非常に嬉しそうににやりと笑った。
「多分、セリスの奴、気づいてないな。表立って手を出すなとは言われたが、これは裏方の仕事だ。上手くいけばあいつに貸しが作れるぞ」
リーザの呆れた顔に気づき、テイルは空咳をしてごまかした。
「冗談だって。ルイシェ王とリシア、それに頑張っているセルクの為の計画なんだから」
「……一応は、そう信じることにいたしますわ」
楽しそうに吹き出すリーザの顔を見て、テイルがほっとしたように目を細めた。
「そろそろ大丈夫かな。さっきまでは、一人になったら落ち込みそうな顔してた」
その時になってリーザは、完全に立ち直るまでテイルが側にいてくれたのだということに気づいた。思いがけない優しさに、口元がほころぶ。
「テイル様、ありがとうございます」
テイルはいかにも軽薄そうにひらひらと手を振った。
「お節介は俺の性分だからね。感謝されるようなことじゃないさ」
そういう気持ちが嬉しいのだ、と言おうとして、リーザはやめておいた。
いつか、テイルに大切な人ができたなら、その人が言うべき言葉だから。 |
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