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 為す術もなくダシルワの家を後にした二人は、夜の道を歩いていた。
「小賢しいっつーのは、まさにこういうことだよな」
 セリスが苛立たしそうに爪を噛む。
「精霊共も、まだ印璽の場所を突き止めてねえからな。開き直られると辛いぜ」
 だが、意外なことにセルクはそれ程落ち込んでいる訳でもなさそうだった。
「いざとなれば力ずくでも返してもらいます。居場所が分かっただけでも、充分ですよ。私がここにいることは、彼にとってかなりのプレッシャーとなっているでしょうし。今までと違い、庇護してくれる人物もいないようですから、大したことはできません」
「印璽を捨てられたりしたらどうするんだよ」
 セルクは笑って首を横に振った。
「そうしたら、却ってこちらが有利になってしまいます。紛失したことを確認できたならば、新しい印璽を作ればいいだけですから。盗んだ印璽がいずれ世に出ることこそが一番の問題だと、ルイシェ様達はお考えだと思います。今の生活がある以上、簡単に逃げ出せもしないでしょうから、後は根比べですね」
 意外なセルクの余裕ぶりに、セリスは内心驚く思いだった。恋愛のことであれだけ落ち込んでいたのに、仕事に向き合えば見事な冷静さである。これなら大丈夫か、とさりげなく聞いてみる。
「で、今夜はどうする? 俺んちに泊まるなら構わねえぜ」
 途端に、セルクの顔から笑顔が消える。力無くセルクは首を横に振った。
「……いいえ、荷物もありますから。予定通り、金の麦亭に宿泊します。明日の午前中はリーザ殿に会ってくるつもりです」
 それ以上は何も言えない雰囲気だった。無言で二人は金の麦亭への道を進む。
 街は昼の喧噪とは打って変わって、静かな安らぎに満ちていた。そこかしこから漏れる、暖かな家庭の匂い。窓から漏れるちらちらとした蝋燭の光。エルス国に流れる柔らかな空気が、セルクにリーザのことを思い出させる。
 リーザのことを思うと、セルクの胸は再びシクシクと痛んだ。セリスに慰めてもらったとはいえ、傷つけてしまったのは確かな事実だ。本音を言えば、金の麦亭にも行きづらい。
 それでも、逃げてはならないのだという思いの方が強かった。この国にいる期間は、長くあってはならない。その間に、リーザと再び会うきっかけも欲しかった。
 と。
 金の麦亭へ向かう道を歩く二人の前に、ぬうっと巨大な影が現れた。
「……どういうつもりだ」
 怒りを抑えた低い声が、唐突にセルクに向かって発せられる。
「え?」
 セルクは立ち止まり、目を凝らして相手の姿を見つめた。星明かりの下で、大男の目が爛々と光っている。
「あいつのこと泣かしといて、女と夜遊びなんて……俺、俺、許せねえ!」
 相手を確認する間もなく、ブン、と風を切る音がして、拳が飛んできた。殆ど無意識にセルクは避ける。
「お、おい……」
「泣いてたからな! あいつ、泣いてたんだからな!」
 ブン、ブン、ブン。男の巨大な拳が次々に繰り出される。セルクは次々に躱しながら、相手をやっと確認した。
 金の麦亭で会った男、そしてリーザを嫁にしたいと言っていた男。ティドだ。その彼が顔を歪ませ、子供のようにブンブンと腕を振り回している。セルクはすぐに状況を理解した。
「ちょっと待ってくれ!」
「お、お前みたいな悪い男に、リーザはやれねえ! 俺が、俺が幸せにするんだっ!」
 人を殴り慣れていないのは明らかな動きで、ティドが腕を大きく振り回す。
 戦いなど知らないのに。この大男は、一人の女性を傷つけたという理由で、セルクへ鉄槌を下そうとしているのだ。
 セルクの胸に、痛みが走った。勘違いがあるとはいえ、本気でティドはリーザのことを愛しているのだ。そして、リーザを泣かせたことは、自分の責任だ。
 巨大な拳が目の前に迫る。
 リーザを悲しませたことを、これで多少なりとも償えるのならば。その一瞬の考えが、セルクの動きを鈍らせた。
 バシッ!
 激しい音が、辺りに響きわたる。
「……いってえ、この馬鹿力が……」
 覚悟を決めていたセルクの頬に、何故か痛みは無かった。
 目の前には、白い手が、そしてその中に吸い込まれた大きな拳がある。驚いて横を向くと、セリスが痛みに顔を顰めていた。ティドも驚愕に硬直している。
 セリスはティドの拳を払いのけ、勢い良く鼻先に指を突きつけた。
「てめえ、この俺を女扱いしやがったなっ! 喧嘩売る気なら、買わせてもらおうじゃねえか」
 低い声で威嚇するセリスの顔を、ティドがまじまじと眺める。世にも美しい顔からまごうことなき男の声が出て、完全に混乱している。
「だ、だって、髪だって長えしよう、近くで見たって……」
 たじたじと後ろに下がるティドを、セリスが無言で睨み付けた。ティドの闘志は、完全に無くなっている。
「……すまねえ。俺の勘違いだった」
 遂にティドが頭を下げる。セリスは、了解の印に軽く頷いてみせ、今度はくるりとセルクに向き直った。
「てめえもてめえだよ。変な誤解されてんじゃねえ。俺はもう帰るぜ。後は二人で喧嘩するなり勝手にしなっ!」
 激しい口調でセルクを責める。だが、その猫のような目が面白そうにきゅっと瞬きしてくるのを見て、ようやくセルクはセリスの思惑に気づいた。
 そのまま大股で歩き去るセリスに心の中で感謝しながら、おろおろしているティドに、落ち着いて話しかけた。
「誤解が解けたなら、金の麦亭へ入らないか? 君と話し合いたい」
 叱られた子供のように、ティドはこくりと頷いた。

 金の麦亭は、夕食後のまったりとした雰囲気に包まれていた。明日の朝が早い者は部屋へ戻り、仕事帰りの一杯を楽しむ客が楽しげな会話を交わしている。
 ティドとセルクは、空いている席に向かい合わせで座った。
 昼間の騒動を目撃していた者もちらほらいたのだろう。二人が一緒の席に座ると、小さく囁き交わす声が耳に入った。
 それを断ち切るように、ティドが低く切り出す。
「武器屋。何で、あん時追っかけてやらなかったんだよう。リーザ、見たこともねえほど泣いてたんだぞ」
 明かりの下で見ると、ティドの目は真っ赤に腫れていた。
「予想外で、動揺していた。彼女に求婚をするような男性がいるとは、知らなかったからね」
 あくまでも冷静を保とうとするセルクに、ティドが声を荒げた。
「何だよ、その言い方。あんなに綺麗で優しいリーザが、まるでもてねえみたいなこと言うんじゃねえ! それに、まるであいつのこと、どうでもいいみたいじゃねえか!」
 周囲の目が、二人に集まる。
「どうでもいいわけじゃない。けれど、一年以上離れていて、久々の再会だったんだ。その間、連絡を取ったこともない。どうして彼女を追いかけることができるんだ」
 セルクの声も、我知らず高くなっていた。抑えなければと思っても、身体の芯が熱くなってくる。
「何て冷てえ野郎だ。前に何があったか知らねえが、あんた、リーザに相応しくねえっ!」
 ドン、と音を立ててティドが机を叩く。
 ティドの言うことは、間違ってはいない。けれど、それだけでもない。連絡を取りたくても迷ってしまうもどかしさ。そんなものが、彼に理解できるとは思えない。セルクは、無言でティドを睨み付けた。
「ティド。机叩くんじゃないの。それに、あんた……セルクさんも。言いたいことがあるなら、はっきり言いなよ」
 険悪になりかけた二人の間に立ったのは、宿屋の女将であるアーナだった。盆の上に湯気の立つお茶を三人分持っている。
「どうやら、他人事じゃなさそうだからねえ。あたしも入らせてもらいますよ。いいわね?」
 有無を言わせぬ調子で二人にそう言うと、アーナは勝手に椅子に座り込んだ。そして、厳めしい顔つきで二人の顔を代わる代わる見つめる。
「あたしから言わせればねえ、リーザに変わってあんた達二人とも張っ倒したいところだわよ。うちの娘にも責任はあると思うよ。でも、あんた達二人にもあるでしょう。なのに、ティドはセルクさんを責めてばっかりだし、セルクさんは言い訳もしやしない。ちょっと、おかしいんじゃないのかい?」
 アーナの声は深く、説得力に溢れている。二人ともいい大人だというのに、母親に叱られたかのように一緒に頭を垂れた。
「セルクさん。あんたに聞きたいことがあるんだけどね。あんた、うちの娘のこと、どう思ってるんだい? あんたの言い方じゃ、どうも分かんないのよね。あんたがリーザのことを好きじゃないなら、喧嘩にもならない話だろ?」
 いきなり核心を突かれて、セルクは慌てふためいた。
「え、あ、そ、その、ですが、ま、まだ、伝えてなくて、その」
 口には出さなくとも、それまで周囲には落ち着いて見えた彼が急に真っ赤になったのを見れば、誰が見ても一目瞭然だった。アーナはそれでも答を待つ。
「……惹かれています。一方的にではですが」
 腹を括って、言葉を絞り出す。控えめな表現ではあったが、生真面目なセルクにはこれが精一杯だった。
 そんなセルクを見て、アーナは顔には出さず、感心した。年は三十を越えているだろうに、今時珍しい程の純情な青年だ。同時に、何故リーザとの関係が全く進まなかったのかも手に取るようにわかる。
「この宿に泊まったのも、偶然でした。仕事があってこの国にやってきたのです。いつか会いたいとは思っていたものの、まさかリーザ殿にここで会うとは……」
 視線に促され、ぽつりぽつりと話すセルク。声には、隠しきれない苦悩の色が滲む。ティドも真剣な顔で見つめていたが、たまらなくなったように口を開いた
「いつか会いてえなら、リーザのこと、何で放っておいたんだよ? 俺には分からねえ。好きなら好きって言っちまえば、それでいいじゃねえか。俺はそうしたぜ」
「言えばリーザ殿が苦しむと分かっていてもか?」
 セルクがティドの顔にちらりと怒りの混じった視線を送る。言われなくても、何度も後悔してきたことだ。それでもやはり言えなかった気持ち。
「私はイェルトの人間です。彼女があれほど愛したリシア様がイェルトにいらしたというのに、一緒に来なかったリーザ殿です。この国を、家族を愛している彼女を苦しませるのは、どうしてもできなかった。けれど……」
 セルクはしっかりと顔を上げた。
「気持ちをはっきりと伝えぬまま、リーザ殿が誰かに嫁ぐことが、私には耐え難い苦痛であるということが分かりました。ティド殿には申し訳ないが、気持ちを伝えようと思っています」
 これは、宣戦布告だ。セルクとティドとの視線が、真っ正面からぶつかる。同じ女性を愛する二人の気持ちも。
「俺は、引かねえ。リーザに、結婚を申し込む」
 短く、ティドが戦いに応じることを告げる。振られたことなど、この男にとっては大したことではないのだ。
 睨み合いを始めた男達の横で、アーナは大きく頷いた。
「話は決まったね。あたしも納得した。あとは、リーザの判断だねえ。あたしはどちらの味方もしないよ。正々堂々とおやり」
 アーナの言葉に、セルクとティドは一斉に顎を引いた。

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