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  シロン男爵家へ着いたリーザは、ダシルワの妻であったジェーナの認識を、更に改めることになった。
 それくらい、シロン男爵の家は質素な館だった。大きい為か、どこか淋しげな佇まい。白っぽい色をした漆喰の壁には、補修の跡があちらこちらにある。それも、手が回りきってはおらず、ところどころ剥き出しの石壁が見えた。庭も手が足りないのだろう、秋に落ちた枯葉がそのままになっている。せめてもの飾りに、と朝に出したらしい鉢植えの冬の花が控えめに彩りを添えていた。
「シロン男爵家……昔は裕福な家だと聞いたのに……」
 テイルが隣で驚いたように呟く。
 玄関を通してくれたのは、脇で支えてあげたくなるような老いた執事だった。他の使用人の姿は一切見られない。掃除だけは行き届いていたが、引かれた絨毯は擦り切れていたし、燭台には芯だけが残った蝋燭がまだ乗せられている。
 この陰惨な状態を和らげているのが、ささやかな装飾だった。玄関の壁には、子供が描いたと思われる鳥の絵が、大切そうに飾られている。すっきりとした形の良い花瓶には、自分で育てたらしい花が一輪。人をもてなそうという気持ちが溢れている。
 長く待つこともなく、ジェーナは小走りに玄関にやってきた。リーザを見るなり少し緊張気味に微笑む。
 やはり、というのか。ダシルワの側にいたことが信じられないような、家庭的な雰囲気を持った女性である。心労の為か亜麻色の髪には白いものが混じっているが、ふっくらした頬が母親らしく、優しい。
「初めまして、レジー様。お寒い中、良くいらして下さいました。侘びしい家で、さぞ驚かれましたでしょう?」
「初めまして、ジェーナ様。突然の来訪をお許し下さいませ。侘びしいなど、とんでもございませんわ。今もこの絵とお花に、感心していたところですの」
 リーザの顔に軽蔑がないのを見てほっとしたのか、ジェーナの笑顔が自然なものになる。
「ありがとうございます。ここは冷えますわ。どうぞ中へ」
 薦められ、冷え冷えとした広い廊下を経て案内された部屋は、シロン男爵家の居間だった。来客の報を聞いてから焼べたらしい新しい薪が、暖炉の中でパチパチと音を立てているのを見て、リーザは申し訳ない気分になった。これも、編み物を習いにきた新たな生徒への心尽くしなのだ。貴族とは言っても、この家は町中の商人よりも余程質素に暮らしている。
「マイナ様からのご紹介、ということでしたわね。レジー様は、編み物は初めてですの?」
 おっとりと尋ねられ、困惑したリーザは隣のテイルを見た。テイルは話を合わせろ、というような目つきをしている。編み物をしながら話を聞け、ということだろう。
「独学ですけれども、嗜み程度には」
 リーザは腹を決めて、そう答えた。客観的に見れば、リーザの編み物の腕前は師範クラスになる。城内で若い侍女に編み物を教えているのも彼女の役割である。
 ジェーナは、嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、では編み物に興味がおありということですね。そういう方に教えて差し上げられるなんて楽しみですわ。少しお待ち下さいね、毛糸と編み棒を持って参りますから」
 いそいそと立ち上がり、ジェーナは席を外す。入れ替わるように、木の盆にお茶の道具を乗せた少女が、部屋に入って来た。後ろからは一回り小さな少女が、焼き菓子の入ったバスケットを大切そうに抱えてついてきている。その顔を見て、リーザは胸を突かれるような思いをした。揃って柔らかな黄色の髪で、二人とも目元が母親に良く似ている。が、ダシルワの面影も、確かにその中にはあった。
 テーブルにそれぞれの持ち物を置くと、娘達は母親譲りの笑顔で、軽く膝を折って挨拶した。
「いらっしゃいませ。私、イリカと申します。こちらは妹のエシェル。お会いできて、とても嬉しいです。母ともども、宜しくお願いいたします」
 姉のイリカは、十二歳と聞いていたが、そうは思えないような大人びた口調だ。
「よろしくお願いします」
 妹のエシェルも、姉に言い含められているらしく、人懐こい笑顔を浮かべて一生懸命に挨拶する。
「イリカ様、エシェル様、初めまして。私、レジーと申しますの。隣にいるのが、従者のフェル。こちらこそ、宜しくお願いいたしますわね」
 リーザが丁寧に挨拶を返すと、二人の顔がぱっと紅潮した。顔を見合わせてから、慌てたように再び膝を折って挨拶し、部屋を去ってしまう。
「私、何か言葉を間違えたでしょうか?」
 リーザは困惑し、声を潜めて尋ねた。すると、笑いを堪えたような低い答えが返ってきた。
「レジー様は相変わらず言葉が丁寧でいらっしゃる。令嬢達は美しいレジー様にまるで大人のように扱って頂いたことで、大層驚きつつも、喜んでいらしたようですよ。私めまでにもこのようなお言葉遣い、有り難い限りです」
 明らかに面白がっているテイルを、リーザは軽く睨む。全く意に介さず、テイルは当然のようにイリカの置いていったポットからカップにお茶を注ぎ、リーザの目の前に置いた。先程、ジェーナとリーザが会話をしている間の控え方といい、認めざるを得ないくらい立派な従者ぶりである。
 毛糸を籠に詰めたジェーナが戻ってくると、テイルはそのまま従者らしく、別室で控えると言い残し、立ち去ってしまった。
 改めてジェーナと顔を向かい合わせ、編み棒を手に取る。ジェーナの方は、教える気満々で自分も編み棒を取っている。
「今までに何をお編みになられてまして?」
「ええ……マフラーを」
 教えを受けるくらいのレベルなら、この程度だろう。リーザが答えると、ジェーナは頷いた。
「それならば、今回はミトンをお教えしましょうね。手袋だと難しいですけれど、ミトンならすぐにできますから。まず、この小さな四角い編み物を見本に、ゲージを取って下さいますか? ゲージというのは、編み上がりが狂わない為に、編み目を合わせる作業ですのよ」
「はい」
 リーザは言われるまま、いつもならあっと言う間にやってしまうゲージを、ゆっくりと編んだ。それでも、編み物に慣れた手つきが初心者を真似るのは難しい。ゆっくりながらもリズミカルな動きと、きっちり揃った編み目に、ジェーナの目が丸くなった。
「まあ。素晴らしい。素質がおありになるわ。これならば、今日中にできますわよ」
 どこまでも疑わず、親切なジェーナの心遣いが嬉しくも、心苦しい。そもそもリーザの目的は違うところにあるのだ。
 褒められ続けて編み棒を動かしながら十分以上が経った頃、そろそろだと考えたリーザは、ついに切り出した。
「ジェーナ様、私、本当はお話したいことがあって参りましたの」
 一緒に編み棒を動かしていたジェーナの手が、ピタリと止まる。その穏やかな顔に、困惑が浮かんだ。
「どういうことですの?」
 ジェーナの顔を見て、急に胸がドキドキしてくる。今から自分が口にしようととしていることは、きっとジェーナにとっては一番触れてもらいたくない部分なのだ。
 不安げな視線を受けて、リーザは俯き、絞り出すようにその名を口にした。
「元男爵、ダシルワ・ルエン……あなたの元の旦那様のことです」
 まるで、時が止まったかのようだった。衣擦れの音も、呼吸の音さえ聞こえない。
 たまらない居心地の悪さ。冷や汗が全身に滲む。
 どれくらい経ったのだろう。永遠にも一瞬にも思えたその時間。
 パチン、と暖炉の火がはぜ、その音が二人の硬直した時間を進めた。長い、長い溜息が、ジェーナの口から漏れる。
「……あの人の名は、久しぶりに聞きました」
 まるで別人のように疲れ切った声。ハッと顔を上げたリーザは、目の下にそれまで気にならなかった強い蔭があるのに気が付いた。
「きっと、ご迷惑をかけたのでしょう? あなたのような良い方にまで、こんなことをさせてしまうくらいに」
 ジェーナは立ち上がり、リーザに深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ございません。別れたとはいえ、妻だった身です。できるだけのことはさせて頂きます。お金でしたら、殆どありませんが、都合のつく限りお渡しいたしますし、もし他のことでしたら、この身でできることなら何でもいたします」
 渾身の謝罪。
 リーザの胸が痛んだ。こんな謝罪が初めてではないことが、悲嘆に満ちたジェーナの態度ですぐに分かったのだ。
 きっと、今までにもこのようなことがあったに違いない。貴族の俸給を受けているとは思えない程の、質素すぎる暮らしが、そのことを物語っている。昔は裕福だっただろう、大きいこの家。
 何故、そんなことを考えずにあんな切り出し方をしたのだろう。
 苦い思いを噛みしめながら、リーザは慌てて立ち上がり、ジェーナの肩に手を置いた。
「ジェーナ様、落ち着いて下さい。ごめんなさい、私の言葉が足りませんでした」
 うっすらと涙を浮かべたジェーナを椅子に座らせる。身体が一回り小さくなり、肩が小刻みに震えていた。
 リーザは床に取り落とされたジェーナの編み棒を拾い上げ、籠に戻した。そして、ジェーナの手に、ぬるくなったお茶の入ったカップを持たせ、側について一口啜らせる。
「ジェーナ様に償って頂こうなんて、露ほども思っておりませんわ。ただ、ジェーナ様のお力が頂きたくて、こんな姑息なことをしてしまいました。考えてみれば、最初からきちんとしたお話を通せばよろしかったのですね。本当に申し訳ありません」
 ジェーナの震える肩をそっと撫でながら、リーザは一生懸命に優しく語りかけた。
「今まで苦労をしておいででしたのね。なのに、そんなことも察せなくて……」
 リーザの労りと慈しみの言葉は、ジェーナの心に滲みわたった。
 ジェーナにとって、今までの生活は地獄だった。娘二人を抱えて、別れた夫の不始末に奔走する日々。老いた両親の財産を使い尽くしても払えない、高額の補償金。貴族としてのプライドをかなぐり捨て働こうとしても、ダシルワの妻だったというだけで、人々の視線は冷たかった。
 ダシルワのしたことを思えば当然だった。天性の口の旨さを活かした詐欺、街のごろつきを雇っての恐喝。結婚していた頃の贅沢な暮らしが、そんな犠牲の上に成り立っているとは知らなかったジェーナも、ある意味では同罪だ。
 美しい令嬢の同情が心地よい。だが、甘えてはならない。涙を堪えながらも、ジェーナは小さく首を横に振る。
「あの人は……ダシルワは、生きていますのね?」
 掠れた問いかけに、リーザは頷いた。長い溜息が、ジェーナの口から漏れる。
「そしてまた、悪いことをしたのですね。本当に、馬鹿な人です。何年も連絡が無かったので、死んだか、更正したかと思っていたのに……」
 目頭を強く指先で抑えてから、ジェーナは悲壮な眼差しでリーザの顔を見つめた。
「一体、どんなことをしたのですか? 心の準備は整えました。教えて下さい」
 リーザは迷った。
 まだこの女性は、ダシルワのことを他人とは思っていない。新たに彼がしたことを知ったら、この人はどれほど傷つくのだろうか。この人には全てを贖う責任などないのに。
 しかし、リーザは心を決めた。ジェーナは知ることを望んでいる。
 大きく息を吸い込み、口を開いた。
「隣国イェルトで、昨年まで宰相をしていたラルドーという男の名を御存知ですか?」
 思いがけない問いかけに、ジェーナは戸惑った。
 ジェーナとは縁がない名前だ。巷を賑わせた話題の中に、微かに聞いた覚えのある人物は、顔も知らない。
「耳にしたことはあります。王家にバルファン教の手引きをした男、ではなかったかしら。ライク王子に取り入ったという……」
 去年イェルトで起こった、邪宗バルファン教の騒ぎは、大陸中に噂が伝わっている。ラルドーの名も、その中で囁かれることが多い。
「ラルドーは、ダシルワ様の偽名でした」
 リーザは短く告げた。え、と問い返しかけたジェーナの顔が、事の重大さに気づき、みるみる蒼白になっていく。
 その顔から無理矢理視線を逸らし、リーザはできる限り淡々と事実を伝えた。
「しかし、彼はバルファン教の信者ではありませんでした。ダシルワ様は個人的な恨みをルイシェ様に抱いて、その役を請け負ったようです。去年、バルファン教の真実が暴かれた際、あの方は失脚し、イェルト国から逃亡しました。そして、その際に印璽を一つ、持っていってしまったのです。そのことで現在、イェルト国のルイシェ王とリシア王妃がお困りになられています」
 わなわなと震えているジェーナに、リーザは頭を下げた。
「ジェーナ様のお力をお借りしたいのです。ダシルワ様は現在、エルス国に戻っていらっしゃっています」
 話された内容が予想を遙かに超えていた。ジェーナはしばらく言葉を発しなかった。
 どれ一つをとっても、貴族とはいえ普通に生活している人間には縁のないことばかりである。偽名を使い他国で生活することも。他国とはいえ、王家に仇なす行為をすることも。
 泣き出しそうな顔をしながら、ジェーナは呟いた。
「何てことを……何てことを」
 ジェーナは、何故ダシルワがエルス国を追われたかを知っていた。当時の王女リシアを拐かそうとした罪である。その噂を耳にし、それが事実であると確認した時、この世の地獄は全て見たかと思っていた。離婚した後ではあったが、ここまでのことに手を出したのか、という絶望感。彼を止められなかったという思いが、今でも生々しく付き纏う。
 二度とないことだと思っていたのに、同じくらいに恐ろしいことが起きてしまったのだ。王家の印璽が他人に渡ることの重大さは、貴族の末端にいる者として、ジェーナにも良く分かっていた。
 何故、死んでいてくれなかったのか。かつて愛していた男とはいえ、そんな思いまでもが掠める。
 だが、目の前にいるリーザの真摯な態度に打たれ、ジェーナは口を開いていた。
「私に何ができるかわかりませんが、命をかけて、お手伝いをさせて頂きます」
 ジェーナの心からの気持ちだった。これ以上、ダシルワに罪を重ねさせてはいけない。かつて妻だった身として、責任がある。頼ってきた人を裏切る訳にもいかない。
 そして罪人の子として、友人を作ることすら叶わなかった子供達の為にも、ダシルワに罪を認めさせ、悔い改めさせなければならない。
 彼に、立ち向かわなければならないのだ。
 口元を震わせながらも頭を深く下げたジェーナに、リーザは胸を打たれた。

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