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 重苦しい心を抱えたまま、リーザは馬車に揺られていた。まだ、ジェーナの蒼白な顔が頭にこびりついている。今まで苦しみ抜いた彼女に、あんなに衝撃を与えて、あんな悲壮な決意をさせて……。
「自分がやっていることが正しいのか、不安になりました」
 ぽつりと呟くと、向かいに座っていたテイルが頷いた。
「大変な役目を負わせて、君には済まないと思っている。俺も、子供達を相手に遊んでいる間に、何をしているだって、己を責めたよ。これで決定的にダシルワを破滅の方向へ向かわせてしまったら、どう責任を取るつもりなんだ、ってね」
 リーザは首を横に振った。
「全部、私の言い出したことですわ。セルクさん達のお役に立てれば、と。全てが良い方向に向かうなんて、無いかもしれないのに」
 もし、ジェーナによる説得が失敗すれば、全ての人々が何かを失う。その一つ一つがなんと重いことか。
 思い詰めた表情をして俯くリーザの前で、テイルがやるせなさそうに窓の外に視線をやった。
「ジェーナは、ダシルワにこれ以上罪を重ねてほしくないと思っている。俺達が放っておいても、いずれ彼に会いに行くだろう。それならば、俺達も彼女と子供達の為に、力を尽くさなければならない。そうだろ?」
 テイルの声に、リーザは頷く。ここで悪い結果を恐れてしまっては、事態は膠着するばかりなのだろう。良い方向か悪い方向かは分からないが、リーザ達の知る限り、ジェーナはダシルワを動かすことができる唯一の風なのだ。
「後は、運命が少しでも良い方向に動くよう、祈りつつ行動するだけ、ということですわね」
「そういうことだ、ね」
 暗い話はこれで終わりだ、と言わんばかりに、テイルはにこりと笑った。実際、いくらジェーナのことを考えたからといって、彼女の辛さを救うことにはならない。行動だけが、全てを左右する。
「ところで、リーザ、俺達の正体はジェーナには明かしたのかい?」
 リーザは記憶を確かめながら、首を横に振った。
「いえ、まだですわ。令嬢レジーと従者フェルのままです。それが嘘だということを告げる間も無くて」
 その答えに、テイルはいたく満足したようだった。大きく頷く。
「良かった。ここから先、君は自分の意志で正体を明かしてもいいけど、俺のことは明かさないでくれよ。公爵なんてものより、フェルのままの方が気楽だ。子供達にもその名で親しまれたしね。君達が話し込んでいる間、遊んだんだ。実に素直でいい子達だったよ」
 頬を赤らめていた少女達のことを思い出して、リーザもやっと顔を綻ばせた。鳥の絵を描いたのはどちらなのだろうか、などとふと思う。
「ええ、ジェーナ様の教育が良いのでしょうね。テイル様、何をして遊ばれましたの?」
 テイルは目の前で、両手を広げ、向かい合わせに広げてみせる。
「流石編み物の先生のお嬢さん方だ。あやとりを教えてもらったよ。生まれて初めてやったにしては上出来だとお誉めを受けた」
 何もない空間で毛糸を掬う動作をして、テイルはくすくすと笑った。

 思い切った手紙をレイオス城に残したセルクは、金の麦亭の部屋のベッドの上に、ぴくりとも動かずに座っていた。つい先程、銀蟾城でセリスに会ったことを思い出す。
 すぐ宿屋に帰らず銀蟾城に寄ったのは、リーザに会いに行った結果と、今日はずっと金の麦亭に籠もりたいということを、セリスに伝えなければいけないと思ったからだった。
「ま、いいんじゃねえの? 今日はどーせ様子見だったし、そうなったら精霊共に頼む他ねえしな」
 半眼で聞き入っていたセリスは、深々と頭を下げたセルクに向かって、あっさりとそう言った。
「ただ、奴が逃げた時にゃ、話は別だぜ。それでもいいか?」
 感謝と申し訳なさで頭を下げるしかなかったセルクは、セリスに見送られて金の麦亭へと戻った。
 部屋に戻って、三時間が経つ。その間ずっと、セルクはベッドに座り、じっと目を瞑っていた。
 自分のことを、底抜けの愚か者だと思う。リーザにとっては、何と迷惑な男なのだろう、とも。
 ティドには、リーザの為に今まで想いを抑えていたように言ってしまった。それは真実であると同時に、言い訳に過ぎない。年齢も、住んでいる距離も関係ないのだ。ティドの言うとおり、好きなら好きと言えばいいのだ。結果はどうあれ、その後リーザが苦しまないようにするべきことこそが、最大の課題であるのだと。今は、そう思う。
 間接的にではあるが、気持ちは伝えた。後は彼女がその言葉を聞きに来てくれるかどうかだ。 
 セルクは、立ち上がり、窓から外を眺めた。ずっと同じ体勢でいたので、身体が少し強張っている。
 外は、昨日に引き続いて良く晴れている。不思議な程に心は穏やかになっていた。
 エルス国に来て大きく揺さぶられた気持ち。それでも、彼女の姿を見て、周囲の人々と対話をすることで得たことは大きい。
 一生に一度の恋をしているのだ、とはっきりと理解できたから。
 彼女が現れようと、現れまいと、この気持ちは忘れるまい、とセルクは思った。
 
 レイオス城では、双子の侍女がリーザの帰りを今や遅しと待ちかまえていた。馬車が城の内門をくぐるなり、玄関から飛び出してくるのが、リーザ達の目にも留まった。少女の片方は、何かを持った右腕を高々と上げ、ぶんぶんと振り回している。
「どうしたんだろう、あいつら。エクタから急な知らせでも入ったのかな?」
 不思議そうにテイルが呟いた。
「ちょっと先に失礼するよ」
 言うなり、まだゆっくりとはいえ走っている馬車の扉を開け、飛び出していってしまう。驚くリーザの前で、テイルは走って馬車を追い越し、双子の元へと走っていった。
 後を追って飛び降りるわけにもいかず、リーザは馬車が玄関前に静かに止まるのを待ってから、急いで降りる。
 双子は何かをテイルに説明していたようだが、リーザが降り立つと、すぐに打ち切った。
「リーザさぁん、リーザさんにお手紙でぇす」
 必死の表情を浮かべて、小走りにリーザの元へと駆け寄ってくる。腕を振り回していた方が、蝋で封のされた封筒をリーザに恭しく差し出した。
「お客様にお預かり致しました。お確かめ下さいませ」
 二人並んで頭を下げたその一言だけ、いつもの語尾伸ばしはない。それだけ重要なものなのか、とリーザは首を傾げた。
「え? 私に、ですの?」
 頭を同時に縦に振った二人の顔が、酷く赤いことにリーザは気がついた。酔っているわけではなさそうなのだが、挙動がそわそわして落ち着かない。
「はいっ。あの、お発ちになってすぐに、来客がございましてー」
「その方がぁ、リーザさんへって」
 誰からだろう、と不思議に思いながらも、何も書かれていない封筒を受け取る。
「早く読んでみて下さいー」
 急かされて、リーザは蝋封を剥がした。中には、紙が一枚。
 開いて、中の短い言葉を追い始めた瞬間、リーザは息が止まるのを感じた。
『金の麦亭の私の部屋にいらして下さい。
 婚約者も国も関係ない。ただ、会いたい。あなたに自分の口から今度ははっきりと告げたい。
 あなたのことは、一生、私が命を懸けて守ります、と。
 今日はこれからずっと、あなたを待ちます』
 最後に、「セルク」の署名。
 リーザが、ゆっくりと視線を上げた。テイルと双子が、一瞬色を失ったリーザの顔を心配そうに覗き込んでいる。
「あの人が本当に、ここに?」
 リーザが尋ねた。双子は頷く。
「ええ。間違いなく、セルクさんでしたぁ」
「前にこちらにいらしたことがあるから、間違いないですー」
 それから一人が、少し躊躇うような間をおいてから付け加えた。
「恋文です、って言ってましたー」
 様子を窺うように、上目遣いで双子は見つめる。
 次の瞬間、テイルと双子の侍女は、信じられないものを見た。
 目の前で、リーザの姿がみるみる美しくなっていったのだ。
 頬が、瑞々しい薔薇色に染まっていく。口元に美の女神を思わせる柔らかな笑み。目はしっとりと潤みはじめ、星のような優しい光を放ち始めた。その瞳の深く澄み切った色合い。
 大輪の艶やかな花が、馥郁たる香りと共に、目の前で開いていく様を、誰もが思い浮かべる。人間が一瞬にしてここまで変化するということを、三人は衝撃に近い感動の中で眺めていた。
「テイル様、着替えさせて頂いてもよろしいですか? 彼のところへ行きます」
 静かな決意に満ちた声が、テイルにかかる。テイルはすぐに、首を横に振った。
「いや」
 意外な否定の言葉に、さっと双子がテイルの顔を見る。驚くほどに美しいリーザの顔にも微かな戸惑い。テイルはそこで、照れ臭そうに笑った。
「着替える暇も惜しいだろうから、このまますぐに馬車で送るよ。服は、後で届けさせる」
 きゃあ、と双子の少女が歓声を上げる。リーザにも、笑みが戻った。
 馬車の御者は全てを横目で見ていたのだろう、すぐにリーザの側に馬車をつける。落ち着いた足取りで、リーザはテイルの助けを借り、馬車へと乗り込んだ。リーザが場所を告げる横に、テイルも一緒に乗り込む。
「姫を送る騎士の役目は、俺に任せてくれないかな。王子のところまで送り届けたら、すぐに退散するからさ」
 リーザは頷いた。
 馬車が、最初ゆっくりと、それから加速をつけて走り出す。
「頑張って、下さいねえーっ!」
「お幸せにぃー!」
 双子が飛び跳ねながら、大きく手を振る。リーザは彼女達が見えなくなるまで、満面の笑顔でそれに応えた。
 馬車が内門を過ぎると、リーザは大きな溜息をついて、椅子に深く腰かけ直した。そして、向かいに座るテイルに向かい、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、テイル様」
 リーザの心は、穏やかに満ちていた。あんなに激しい恋をしたのだから、激しい感情が湧き上がるのだとばかり思っていたのに、手紙を読み終わった瞬間に感じたのは、これ以上無いという程の静穏と満ち足りた思いだったのだ。
「いや。俺は何もしてないさ。セルクが、決断しただけだ」
 眩しそうに見つめるテイルが、短く応える。その言葉をリーザは噛みしめた。
 彼は、同じ気持ちでいてくれた。そして、動いてくれた。これ程嬉しいことがあるのだろうか。リーザは心の中の隅々まで入り込んでいく幸福感を、じっと感じていた。
 そんなリーザの様子を見つめていたテイルが、微笑む。
「羨ましいな、セルクが。さっき笑顔になった瞬間を、見せてやりたかったよ。だけど、あればかりはその場に居合わせた特権、かな」
 いつもの軽口かと、リーザはテイルを軽く睨んだ。
「そんなこと仰って。後で揶揄う種になさるおつもりでしょう?」
「まさか」
 短くはっきり否定したテイルは、それなのに心ここにあらずといった感じだった。珍しいテイルの姿だった。何かに迷っているようにも見える。そのまま、少し黙り込んでいる。
 言いづらいことがあるのなら、自分から尋ねようかとリーザが息を吸い込んだその時、テイルが口を開いた。
「あのさ、リーザ。聞き流してくれていいんだけど」
 軽く言ったようだが、聞き流せない何かがある。さりげない風を装い、窓の外へと視線を向けたテイルが、どこか淋しげなのは、気のせいか。
 リーザは背筋を伸ばした。何かとても大事なことだ、ということだという気がしたのだ。
「エクタ、のことなんだ」
 そう言って、テイルはやはり迷うような様子を見せた。しかし、今度はリーザが何かを言おうと思うより早く、言葉を続ける。
 「自分でも気がついてないと思うけど、あいつは君に憧れていると思うよ。姉として、何より女性として」
「まさか……」
 リーザには、とても、聞き流せるような内容ではなかった。驚愕が表情に出たのだろう、ちらりと視線を寄越して、テイルがちらりと笑う。それまで言い渋っていたのが嘘のように、一気に口から言葉が流れ出した。
「ごく自然なことだと思うけどね。これだけ綺麗で有能で、暖かい女性だ。側にいる男だったら、憧れない訳がない。勿論、恋なんていう強いもんじゃない。ただ、あいつが今まで身を固める気がなかったのはきっと、君以上の女性を見つけられなかったからだと思うんだ。シエラでさえ、あいつにとって君以上にはなり得なかった。今回、君がセルクと上手くいくことで、間違いなくエクタは大きな喪失感に襲われる。君の幸せを心から喜びながらもね。リシアの時もそうだったけれど、彼女はエクタにとって守るべきものだったからだ。リーザ、君は違う。君は、あいつにとっての姉であり、理想の女性そのものなんだよ」
 言葉が無かった。リーザの頭の中が、ぐらぐらと揺れる。
 まさか、と思った。脳裏によぎる、エクタの蒼い、真っ直ぐな瞳。
「だからどうしてくれ、って言う訳じゃない。ただ、あいつの気持ちを分かってやってほしかったんだ。それを知った上で、幸せになって欲しいって、ね。まあ、俺の我が儘ってやつだ」
 それから、テイルは軽く声を立てて笑った。
「従兄弟だからかな。あいつの気持ちが分かりすぎて困るよ」
 リーザはやはり、声を出すことができなかった。ただ、これまでに無い程、エクタに対する強い愛情を自分の中に感じた。
 それを気づかせてくれたテイルもまた、もしかしたら同じような気持ちを自分に感じてくれていたのだろうか。
 何故かとても切ない気持ちになって、リーザは自分の手をぎゅっと握り合わせた。

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