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 馬車が金の麦亭に着いたのは、それから程なくしてのことだった。
 テイルは宣言通り、金の麦亭の前でリーザを丁重に下ろした。
 金の麦亭周辺は、人通りが多い中心街とはいえ、庶民の場所である。立派な馬車と、降り立った美しい貴族の女性に、人々は目が釘付けになった。見たことがあるような、というように怪訝そうな顔をしている者もいる。
 テイルからは先程の感傷的な表情は、すっかり消えていた。周囲の視線に気づくと、面白そうな表情さえ浮かべる。
「注目の的といったところだね。明日から、ここらの噂になることは覚悟しておいた方がいいよ。それじゃ、報告は明日でいいから」
 馬車に乗り込みながら、憎らしい程に鮮やかな笑みと、ウインクを一つ。何を勘違いしたのか、街を歩いていた娘達が何人も、頬を染めて立ち止まる。
 リーザは苦笑し、テイルの馬車が発つのを見送った。二頭立ての馬車は、軽々と走り出し、あっという間に角を曲がって視界から消えていく。
 一人になると、信じられないという思いに急に捕らわれ、リーザは呆然としてしまった。
 何もかもが、嘘のようだった。
 ティドと付き合おうと思ったことも。セルクがこの国に来たことも。今、手の中にある手紙も。
 エクタのことも、テイルに言われるまで、それがどんなに深刻なことか、考えようともしていなかった。
 様々なことがありすぎて、様々な思いが胸から飛び出る程で、それが必ずしも整合しているわけではなく。
 ふっと気を緩めたら、涙が出そうだった。
 変化を望み、変化を恐れた一年だった。大きな悩みだったものを、たった数日で何もかも決めて、全て上手くいくようにすることなどできはしないのに。
 けれども、人生には間違いなく、特別な岐路がある。
 リーザはセルクの許に行くことを望んでいる。この機会を逃せば、もう彼との間に次は無いだろう。
 どんなに反対要素があるとしても、セルクと離れることだけは考えられなかった。
 この一年の後悔が、全てどっと思い出される。どんなに悲しかっただろう。どんなに会いたかっただろう。多分、こんな気持ちを抱く人は、この先にはいない。
 しかも、もう、ただの片想いではないのだ。リーザが一言気持ちを告げれば、ずっと一緒にいられるのだ。
 少しの間立ち尽くしたリーザは、決意を固めた。
 掻き立てた緊張と高揚感を抱き締めるようにして、金の麦亭の扉を開ける。
 中は、食事の時間を過ぎた頃で、近所から集まった老人達のささやかな集会場になっていた。慣れ親しんだ者同士が賑やかに会話を交わしている。繰り返す日常の中にも僅かな変化を探し出し、楽しむ人々。
 が、突如現れたリーザに、場の雰囲気が一瞬にして変わった。静かな驚愕。これは僅かな変化どころではない。
 奇妙に静まりかえった宿屋の中、盆の上にお茶を乗せたまま目を丸くしているアーナに向かって、リーザは尋ねた。
「母さん、セルクさんの部屋は?」
「リーザ、何だい、その格好は。一体どういう……」
 戸惑って訊き返すアーナを、リーザが遮る。
「セルクさんの部屋を教えて。会わなくちゃいけないの」
 今まで見たこともない娘の姿が、アーナの目に映っていた。貴族の服を着ているからではない。その面立ちは、夫であるベドリスと一緒になろうと決めたあの時覗き込んだ鏡に映った自分の顔に、とても良く似ていた。喜びと、様々な決意に美しく彩られる、女性の数少ない瞬間の一つ。
 ああ、とアーナは思った。
 この子は、自分の心に正直に生きることを決めたのだ、と。
 淋しさと、安堵がアーナの心を満たす。
「……二階の南端の部屋だよ。行っておいで」
 厨房から飛び出してきたベドリスが、あっさりと部屋を教えてしまったアーナを責める顔をしたが、アーナは取り合わなかった。仕方ない、という顔に切り替わった父の姿が、リーザには愛しかった。
 父母に自分でも驚くような柔らかな笑顔を向けると、リーザはくるりと身を翻し、落ち着いた足取りで階段を上り始めた。
 一つの難関を突破してしまった。父も母も、強く止めはしなかった。
 どんどん、「その時」に近づいている。
 見慣れた階段だが、いつもと違う場所のように思える。セルクがこの先にいると思うと、駆け上がりたいような気もする。それでも、リーザはゆっくりと噛みしめるように一歩一歩上った。
 二階の良く磨き込まれた廊下の、一番奥の部屋。幼い頃から、何度も何度も掃除した場所。床の木目さえも、全てがリーザには親しみ深い。
 扉の前に立って、リーザは大きく息を吸い込んだ。この向こうに、セルクがいるのだ。
 まだ、半信半疑でいる自分と、喜びに打ち震えている自分を感じた。頭の中が、ふわふわと浮いている。落ち着いている振りだけでもしなければならないのに。
 頭は混乱していた。なのに、気が付くと身体は勝手に呼吸を整え、ノックをしていた。
「はい」
 扉の向こうから、求めていた声。リーザは、胸が飛び跳ねるのを感じた。
 これは、現実なのだ。
 内側から静かな音を立てて、扉が開く。
 そして、同じ空気の中に、二人は向かい合った。
 本当に、久しぶりに会った気がした。 
 あの時の続きのようだ。
 瞬きするのも忘れて、リーザはセルクの精悍な姿を見つめた。逞しい肩、焼けた肌。厳しく男らしい顔立の中にある、そこだけ強い感情を宿した濃紺の瞳。
 何故、今までこの人無しでいられたのだろう。
 考えたのは、それだけだった。自然に唇が綻ぶ。
 最初、リーザの服装に少し驚いた顔をしたセルクも、リーザの笑顔を見るのと同時に、ふうっと微笑んだ。
 ずっと待ち続けた間、セルクはこの笑顔だけを思い浮かべていたのだから。強くて弱い、励ましてくれると同時に支えたくなる彼女の笑顔。
 二人は、お互いの気持ちが通じるのを感じていた。
 今まで素直にそうできなかった分を埋めるかのように、セルクとリーザは見つめ合う。
「いらして、下さいましたね」
 ようやく絞り出したセルクの言葉に、リーザが応える。
「はい、参りました。あの言葉を伺いに」
 短い会話の中に、喜びが溢れる。
 言葉を交わすこともできなかった長い時間。やっと、という言葉だけが心に浮かぶ。誤解も何もかも溶け去って、相手の気持ちが全て伝わってくる。
 甘やかな光を放つ、リーザの茶色い瞳に見蕩れながら、セルクは想いを口にしようとした。
「リーザ殿、私は……」
 リーザの胸が高鳴る。幸せの絶頂が、すぐそこに来ていることを感じて。
 だが、二人の間に存在していた間の悪さは、最後の抵抗を見せようとしていた。
「うおおおっ!」
 セルクが言葉を続けようとしたその瞬間、凄まじい咆哮が階下で上がったのだ。
 続いて、異様な地響き。
 轟音は階段を駆け上り、まだ扉が開いているセルクの部屋に一直線に向かってくる。
「おおおおおお! その二人、待ったあああっ!」
 うっとりとお互いを見つめ合っていたセルクとリーザでさえ、何事が起きたのかと、音が発生した場所に目を転じた。
 部屋の入り口の床が、ダン、と大きくしなる。
 そこには、顔を真っ赤にしたティドが仁王立ちになっていた。
 リーザが金の麦亭にやってきたと聞いて、全速力で走ってきたのだろう、分厚い胸板は大きく上下し、荒い息を吐いている。
「武器屋! ぬけがけなんてさせねえ! 正々堂々の勝負だっ!」
 ティドは、言葉の勢いそのままに、二人が向かい合う部屋に飛び込もうとした。が。
 ゴン、という嫌な振動と鈍い音。
「ぐあっ!」
 ティドは頭を抱えてその場に蹲まった。自分の身長も忘れ、そのまま扉をくぐろうとした為、頭を強打したのだ。
「おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫、ティド?」
 セルクとリーザは同時に言って、ティドの側に駆け寄った。
「……ってーっ! がっ! 敵の情けは受けねえ!」
 小さな目をクワッと見開き、セルクを睨み付けるティド。砂色の髪の生え際には、見るからに痛々しい、赤い扉枠の跡ができている。二人が見ている間にも、その跡は段々膨らみ始めていた。
「リーザもリーザだ、ほいほい男の部屋に入ってんじゃねえ! 俺はまだ納得してねえぞ。こいつがお前の好きな奴だっていうのは分かった、けどまだお前、俺んこと嫌いとは言ってねえ!」
 喚き散らしながらも、ティドは蹲ったまま、リーザの手をぐいと掴んだ。
「リーザ、俺はお前が好きだ。小せえころからずうっとだ!」
 必死な血走った目が、リーザを捕らえる。
「俺と一緒にこの街で所帯持とう。子供いっぱい作ってさ、昔と同じ町の人間になって、気心知れた奴の中で楽しく過ごそう。俺、幸せにする。絶対、幸せにする」
 それは、ティドが紡ぎだした言葉の中で、リーザに一番強い衝撃を与えた。
 身体が、凍り付く。
 ティドの本気が痛いほどに分かったから。彼の言うことは、リーザがセルクに会う前に望んでいた、一つの思い描く未来だったから。
 エルス国に、残って。王宮をやめて。
 幼い頃から慣れ親しんだ町に戻って。
 普通のお母さんになって。夫を支えて。子供を作って。父や母をおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばせて……。
 しかし、リーザはゆっくり首を横に振った。最後に強い光輝を放った幻を押し込める。
 リーザに今見えているのは、セルクとの未来。
 自分が心から愛した人と、一緒に暮らしたい。
 イェルトにはリシア王妃がいる。王宮で働けるかは分からないが、セルクを通して彼女を見守ることができる。
 何より、イェルトで、セルクと愛を育みたい。好きな人と、もう離れたくない。
 今のリーザには、これ以上の望みは無かった。
 胸の痛みを堪え、きつく掴まれた手を、そっと捻って解く。離されたティドの手は、力無く床へと垂れた。
「ありがとう、ティド。ティドのこと嫌いなんかじゃない。好きよ、友達として。でもやっぱり、結婚はできない。好きな人がいるんだもの」
 そう言って、リーザは隣にいるセルクを見上げた。セルクの目が、力強く頼もしい光を返す。それだけで、リーザは勇気づけられた。
「あなたの言葉、本当に嬉しかった。付き合ったことも、間違いじゃなかったと信じてる。あのことで、私は本当の自分の気持ちに気づいたから。だから、自分の気持ちを騙してあなたを愛していると言うわけには、いかないの」
 ティドは、今や涙を流していた。床に座り込み、二人を見ないようにしている。背中が丸まり、大きな体がひどく小さく見えた。
「ティド……」
 リーザが低く名前を呼ぶと、ティドの肩が大きく震えた。大声で泣き出すのではないか、と思った次の瞬間、ティドは二人の目の前にのそりと立ち上がった。小さな目は真っ赤になって、涙が次々と溢れ出している。
「リーザ。それでも、俺は諦められねえ。物わかりのいい男なら、引き下がるんだろうけどよ。俺には、リーザがそんなに会ったこともない武器屋にのぼせちまってるだけにしか思えねえし、お前が外国行くのも、いいとは思えねえ」
 ティドは顔を上げた。その目はまっすぐ、セルクに向けられる。
「だから、武器屋。改めて、勝負してくれねえか。次に負けたら、俺、今度こそ潔く手を引くから」
 セルクは、その視線を受け止めた。
 ティドの気持ちは、痛いほどに分かる。ティドにとっても、リーザの両親にとっても、自分はいきなり出てきた、身元の知れぬ男でしかない。そのような輩に、リーザを奪われる訳にはいかないという考えは、当然なのだ。
「わかった。信じてもらうには、それしか無いらしい」
 勝負を受けることで、リーザや周囲の人々に、自分の気持ちを示すことが必要だと思った。一時の考えではなく、リーザをこれからも愛し続けることを、周囲には納得してもらう必要があるのだ。
「いつでもいい。ただ、今、私が受けている仕事は、君が思う以上に重要なものだ。その差し障りになるようなことだけは避けたい。それで、いいかな」
 セルクの真剣な声に、ティドは少し驚いたようだった。だが、セルクの厳しい顔つきをまじまじと眺めて、それから頷く。
「俺も男だ。そこまで言うなら、仕事の邪魔はしねえ」
 ぐい、と涙と鼻水を袖で拭き、ティドは立ち上がった。そして、くるりと後ろを向く。
「今日のところは退散してやる。勝負を済ますまでは、リーザに変なことすんなよ。絶対だからな」
 悔しさを押し殺すような声で、ティドは低く唸った。
 そしてティドは、今度は頭をぶつけずに扉を潜り抜けた。二人に目をやろうともせず、扉をバタンと音を立てて閉める。
 気がつくと、セルクとリーザは、部屋に二人きりに戻っていた。殆ど同時に、突然の闖入者から解放された安心の吐息をつく。
 リーザは少し腹を立てていた。
「セルクさん、何故、あんな申し出を受けたんです? 私が……その、ああ言っただけじゃ、信じて頂けないんですか?」
 突然勢い良く怒られて、セルクが目をぱちくりさせる。それから、セルクの顔は髪と同じくらい、真っ赤になった。
「いや、あなたのことは信じています。彼の言う『勝負』というのは、あなたを私に任せられるかを見極めたいという申し出だと、私は思ったものですから。周囲にも、認めさせたいのです。あなたとの事に関しては、誰か一人にでも反対されたくはない。男の我が儘ですか?」
 真っ直ぐな言葉に顔を赤らめたのは、今度はリーザだった。
「もう……何で、そんな恥ずかしいこと言うかなあ?」
 街言葉の発音に戻って、リーザが上擦り声で呟く。着飾った貴族の令嬢のような外見には相応しくない発音ではあった。口からぽろりと出た素の言葉に、リーザはハッと口を抑える。
 セルクは、その姿を限りなく愛しく思った。ティドに釘を刺されていなかったら、抱き締めてしまっていただろう。
「本当の気持ちですから。それとも、お嫌でしたか?」
 柔らかに、けれど確実に気持ちを伝えながら、セルクはリーザの気持ちを確認する。
 リーザは、首をゆるゆると横に振った。何かを言わなければ、と思うのに、体が言うことをきかない。、代わりに潤みきった瞳で、セルクに救いを求めて、視線を送った。
 セルクはその視線を強く絡め取る。
 約束の言葉が、放たれる時だった。
「リーザ殿。イェルトの宿屋で、あの時言葉が足りなかったことを、ずっと後悔していました。けれど、やっともう一度言い直すことができる」
 リーザは、祈るように、励ますようにセルクを見つめる。
「私は一生、あなたのことを、命を懸けてお守りします。もう、離しません。結婚を前提に、イェルトに来て頂けますか?」
 予期していた言葉なのに、何故もこう衝撃を受けるのだろうか。リーザは言葉を発することができなかった。
「あ……」
 無理矢理言葉を紡ごうとしても、音しか出てこない。
 絡まったままのセルクの視線が、揺るがない信頼と、自分への僅かな不安を同居させている。答えを待っているのだ。
 リーザは大きく息を吸い、掠れた声で言った。
「あなたが仰って下さるのを、待っていました、ずっと。お側にいます」
 リーザが答えた途端、二人を取り巻く空気が、瞬間に切り替わったようだった。
 ずれた運命の歯車が、カチリと音を立てて噛み合ったのを感じる。
 セルクは、リーザが大好きなはにかみを含んだ笑みを、精悍な顔に浮かべた。武器屋と間違われるくらいの、固い手がリーザの手を取る。
 リーザはその手をしっかりと握り返した。

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