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 シロン男爵家に向かう小さな馬車の中は、賑やかだった。今日は普段着を身につけたリーザ、そして、テイルとセリスの姿もある。セルクは御者となり、馬車の会話に耳を傾けていた。
 セリスはテイルが勝手に裏で手を回していたことで、すっかりお冠だった。
「表立ったことはしねえとか言いやがって。この出しゃばりが」
「だってさー、その方がいいと思ったんだもん。ほら、表立ってはいないし、お前も助かっただろ?」
 上手く出し抜いたことに得意満面のテイルは、わざとらしくセリスの顔を覗き込む。セリスは鬱陶しい蠅を振り払うような手つきでテイルを追い払った。
「まだどう出るか分からねえ駒一つで、よくもそう恩着せがましくできるもんだな。てめえの図々しさにはほんっと、呆れるぜ。上手くいくよう、ガキの守りしながら祈ってやがれ」
 テイルは溜息をついて首をふるふると振ってみせた。
「何でこう、素直じゃないのかなー。他に手があった訳じゃないだろうに。ダシルワ殿の狸っぷりは、相当なもんだよ? ま、俺はお前に任せて大人しく留守番させてもらうよ、『ヴィス』君」
 適当につけられた偽名に、セリスはあからさまに嫌そうな顔をする。効果を確認してから、テイルは楽しそうにリーザの方に向き直った。
「それでさ、レジー姫。セルク氏……おっと、『ルディー』氏とはあの後どうなったの? 上手くいったかどうか、俺達まだ報告受けてないんだけどなあ」
 いきなり矛先を向けられたリーザは、小さな窓から覗くセルクの背中をちらりと見て、真っ赤になった。セルクの背筋も、心なしか緊張しているようだ。
「テイル様、昨日は有り難うございました。お陰様で会うことができましたわ」
 最低限のことを答えると、テイルがやれやれ、と肩を竦めた。こんな報告で満足するような男ではない。
「だーかーらー。俺の仕入れた情報に寄れば、ティド氏を退けた後、二人で小一時間部屋に籠もってたという話なんだけど、その間何をしてたのかなあ?ってこと」
 リーザは耳まで赤くなった。御者台のセルクの首筋も、真っ赤になっている。馬車の室内温度と湿度が一気に上がった。無言でセリスがテイルの脛を蹴り上げたが、聞く気満々のテイルは気にも留めない。
「いえ、お話するようなことは、何も。期待なさりすぎですわ」
 もじもじと居心地悪そうに座り直すリーザ。テイルは子供のように口を尖らせた。
「二人とも、俺や俺の侍女達がどんなに協力したか、忘れた訳じゃないだろうに。聞いてこなければ帰ってくるなって、双子にどつかれてるし、絶対何か聞かなくちゃいけないんだよ」
 聞かなければ絶対に納得しないといった表情だ。リーザは窓の外にあるセルクの背中を、助けを求めるように見つめた。セルクの背中が、「いいですよ」というように、力を抜く。リーザは確認して、彼には見えないことも忘れ、頷いた。
「その、ですね」
「うん」
 テイルが身を乗り出し、きらきらと目を輝かせる。
「あの、ですね」
「ああ、勿体ぶらないで一気にすぱっと!」
 勢いに乗せようと、テイルが強い口調で言う。その声に後押しされ、リーザはぎゅっと目を瞑り、絞り出すような声で言った。
「ずっと……お話を、しておりましたの」
 意表を突かれたテイルとセリスは、「はあ?」と声を合わせた。
 余程照れているのか、リーザが早口になる。
「だからですわね、今回の作戦のお話ですとか、リシア様とルイシェ様の現在のご様子ですとか、エクタ様のお話ですとか、テイル様やセリス様の協力が大変有り難いというお話ですとか、ダシルワとジェーナ様の心情についてですとか、現在の国際情勢を鑑みてイェルトやエルス国は今後どうなっていくのだろうという予測ですとか、イェルトとエルス間の街道の整備についてですとか……」
「ちょっと待て」
 慌てて、テイルはリーザを止めた。
「何で国際情勢の話にまでなるかな。じゃなくて、んじゃ、何? 二人きりで、ずっとそんな話してた訳か? 俺が聞きたいのはそうじゃなくて、こう、盛り上がってこんなことしちゃって、あーんなことまでしちゃってってことなんだけど」
「まさか!」
 ガタン、と馬車が跳ねるのと同時に、悲鳴に近い声が上がった。ぽかんとするテイルの前で、リーザはとんでもない、というように、真顔になって頭をぶんぶんと横に振っている。
「セルクさんは、こういう状況下で、そういうことをする人じゃないんですっ! その、手を握ったりはして下さいましたけれど、あの、ティドとの約束もありますし、まだそんな畏れ多いことはとてもっ」
 セリスが笑い出さないように口元に手を当てているのを横目で見ながら、テイルは生真面目な表情のリーザに力無く聞いた。
「もしかしてホントに、告白して手を握っただけ?」
 力一杯頷くリーザ。小窓の外でも、セルクが力一杯頷いている。テイルはがくりと頭を垂れた。
「降参。君達の潔癖さを、甘く見てた。帰ったら、俺、殺されるかなあ」
 半分泣きそうな声だ。どうやら、双子の侍女に散々な目に遭うということは、間違いなさそうだった。
 小さく咳払いをしてから、リーザは話を逸らした。
「私達のことはいいんです。それよりも、今日これからの方が大事ですわ」
「そうだな。ジェーナの気が変わってねえといいんだが」
 話題をそろそろ変えたくなっていたセリスも迎合する。
「それにダシルワだ。今んとこ逃げちゃいねえが、いつ逃げるか分からねえ男だからな」
「何よりも、印璽を返して貰わなくてはなりませんわね。印璽がないというばかりにリシア様やルイシェ様が責められるようなことになったら、辛いですわ。一刻も早く、イェルトに印璽をお届けしなければ。いかに新任領主の任命に手間がかかるといっても、届ける手間を考えればそろそろ時間切れです。今日、必ず印璽を手に入れなければ……」
 真剣に話し込む二人の横で、テイルはまだ頭を抱えている。双子の侍女のお仕置きは、相当なものなのだろう。心なしか、震えてさえいるようだ。
 完全にそれを無視してリーザとセリスが真面目に今後のことを話し合っている間に、馬車は、シロン男爵家の前まで来ていた。壊れそうな門を抜けて、玄関前に停車する。
「こら。いつまでも下らねえことで落ち込んでんじゃねーよ。そろそろ出番だぜ」
 セリスがテイルの後頭部を叩く。それまでずっと塞ぎ込んでいたテイルは、やっと頭を上げた。
「はいはい。裏方も重要な役割だからね」
 仕方なさそうに溜息を吐き、それでも気持ちを切り替えたらしく、一番初めに馬車を降りる。初めてシロン家を訪れたセリスとセルクは、先日のテイルとリーザと同じく、館の寂れ具合に軽い衝撃を受けている様子だった。
 テイルが呼び鈴を鳴らし、程なく二人の少女が玄関を開けた。前もって連絡をしておいたので、テイルとリーザが来るのを楽しみに待っていたのだろう。
「こんにちは! ようこそ、おいで下さいまし……」
 元気な挨拶が途中で止まる。少女達は、昨日よりもぐっと質素な服を身に纏ったリーザと、知らない二人の存在に明らかに戸惑っていた。テイルが人好きのする笑顔で取りなす。
「こんにちは。今日は大勢で押し掛けて済まないね。お母様はいらっしゃるかな?」
 姉のイリカは、明らかに不審の眼差しをセルクに向けている。反対に妹のエシェルは、美しいセリスに心を奪われたらしく、熱心に眺めていた。 
「イリカちゃん、大丈夫だよ、このお兄さんはルディーさんって言って、凄くいい人だから。私の友達なんだ」
 テイルに紹介されて、セルクは貴族の令嬢に対するのに相応しく、丁寧に少女に頭を下げた。
「初めまして。本日ジェーナ様のお供をさせて頂きます。宜しくお願いいたします」
 途端に、イリカの眼差しが優しくなる。
「良かった、借金取りさんじゃないのね。そちらの方も?」
 セリスにうっとり見惚れているエシェルの足を軽く踏んづけて、イリカが尋ねた。母を傷つける与える可能性のある人間は近づけたくないという、しっかりした意志が感じられる。
「うん、そうだよ。こっちはね、ヴィス君。女みたいだけど、一応男の人なんだよ」
「一応って何だ、一応って。俺は生まれてこの方、女だったことは一度もねーぜ。」
 微妙に悪意のこもったテイルの言葉に、セリスが軽く応戦する。だが、それ以上続けることはなく、少女達に向かって彼らしいことこの上ない挨拶をした。
「ま、そーゆーことなんで宜しく。あんたらのお相手は、この男がすることになってる。何か変なことされそうになったら、逃げろよ。で、帰ってきてから俺に言え。叩きのめしてやるから」
 不思議なもので、こんな挨拶でも少女の心を奪うには充分だったらしい。顔の造形が担う部分もあったようだが、エシェルだけではなく、イリカまでもが小さく頷き、ぽうっとセリスを見上げている。疑いは完全に晴れたようだった。テイルは非常に面白くなさそうな顔をした。
「あらあら、あなた達。お客様がいらしたら、すぐに通しなさいと言ったでしょう」
 柔らかい声がして、人々の目はそちらに向けられた。廊下の奥から、ジェーナが困ったような顔をして現れる。
 今日のジェーナは、夫に久しぶりに会う為なのだろうか、精一杯のお洒落をしていた。型遅れにはなっているが、仕立ての良いドレス。白いレース編みの手袋。疲れが目立っていた顔には白粉が塗られていて、この前会った時より随分若く見える。
 ジェーナは少女達の肩に軽く手をやり、リーザ達の顔を順々に見回した。
「こんにちは、皆様。私の方は、準備が整っております。すぐに参りましょうか?」
 これから裏切られ続けた元の夫に会うとは思えないくらい、落ち着いた様子だ。微笑みさえ浮かべている。
「ジェーナ様が宜しいのなら……」
 彼女の信頼を得ているリーザは、他の三人の顔、特にセルクの顔を長く見てから、そう答えた。間を置かず、テイルが続ける。
「お嬢様方は私がしっかりとお預かりいたします。こちらは御心配なく」
 その言葉に安心したのだろう、ジェーナは娘達に語りかけた。
「イリカ、エシェル。これからお母様は出かけて参ります。フェルさんの言うことを良く聞くんですよ」
 そして、二人をじっと見つめ、無言で抱き寄せる。僅かな心の乱れを表すような、そんな仕種。
「お母様?」
 母の様子に異変を敏感に感じ取った姉妹は、不安そうな顔をして母親に縋り付いた。ジェーナはそんな娘達の頬に、軽く腰を屈めて優しいキスを与える。
「大丈夫よ、大丈夫……」
 宥めるように囁いた言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
 顔を再び上げた時、ジェーナはすっかり落ち着いていた。
「では、行って参ります」
 理想の母親を思わせる暖かな声で娘達に告げると、ジェーナは何かを振り切るように、誰よりも早く玄関を後にした。
 慌ててリーザ達が追いかけようとすると、まだ大きくなりきらない手が、リーザの腕を捕らえた。
「レジー様。お母様を、お願いします」
 姉のイリカが、真摯でな眼差しで、リーザを見つめていた。この聡明そうな少女は、娘なりに母がこれから運命を変える出来事に直面することを、薄々と感じているようだった。
「はい。力の及ぶ限り」
 リーザは真っ直ぐに少女を見つめ、答えた。
 安心した様子で手を離した少女に微笑みかけ、リーザは玄関を後にした。

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