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「自分では気持ちが固まっていたつもりなのですけれど、みっともないところをお見せしてしまいました」
 馬車に動き出してすぐに、ジェーナはリーザに頭を下げた。
「いいえ、みっともないなんて……気持ちが揺れない人間など、おりませんわ」
 少し狼狽えて、リーザは首を横に振ってみせる。
 馬車の中は、リーザとジェーナの二人きりだった。セリスは御者台の方に移り、セルクと低く何事かを話し合っている。ジェーナにとっては、その方が気が楽だという配慮なのだろう。
「本当にお優しいのですね。あなたがどういう家の方であれ、私はあなたを信じます」
 意図的に低く発せられた声に、リーザは弾かれたようにジェーナを見つめた。そういえば、今日は名前を彼女からは一度も呼ばれていない。
 ジェーナは邪気の無い瞳で微笑む。考えてみれば、リーザが来た後すぐハイム子爵家に連絡の一つも取れば、身柄を詐称していることなど、すぐにばれてしまう。リーザは素直に頭を下げた。
「重ね重ね騙すことになって、本当に申し訳ありません」
 そして、迷ってから名前を告げる。
「本当の名はリーザと申します。あの、どこの者かは申せないのですが、貴族でもございません」
「まあ」
 ジェーナは驚いたようだったが、それはリーザが貴族ではないということに対してらしかった。騙したことを怒ったり呆れたりする気持ちは、微塵も無さそうである。
「他のどなたのことも、身分を問い詰めるつもりなどございませんわ、リーザ様。お話がイェルト国の印璽のことですもの。どんな方がいらしてもおかしくはありません」
 ジェーナは心なしか、誰が誰なのかを知っているかのようでもあった。
 リーザは、身分を隠そうというアイデアを出したテイルに向かって、胸の内で文句を言う。今になって思えば、この国の王子に瓜二つのテイルを、貴族であるジェーナが気づかない訳などないのだ。
「私のことはリーザとお呼び捨て下さいませ。ジェーナ様は、御慧眼でいらっしゃいます」
 リーザは諦めて、そう呟いた。途端に、ジェーナの顔が苦しげに歪められた。
「私は……周囲に目を配らない、愚かな女でしたから。ずっとダシルワのしていることにも気づかなかった。彼の罪を知った時から、知らないことは罪だと知りました。周囲に迷惑をかけない為には、自分のできる限りで知ることがとても……とても重要だと、思ったのです」
 ふっくらした頬が、青ざめて見える。ジェーナは窓の外に目をやった。流れ行く町並みは、活気に溢れていた。
「リーザ様……あなたの優しさに尊敬を込めて、やはり、こう呼ばせて頂きますわ。私とダシルワのことを、聞いて頂けないでしょうか。あなたに、是非聞いて頂きたいのです」
 懺悔をするような声。リーザには、無下にできよう筈もない。それ以上に、過去ダシルワを夫に持った為に、ここまで忍耐を強いられてきたジェーナという女性の人生にも、興味があった。
「勿論ですわ。お聞かせ下さい」
 ジェーナは頷いた。
 しばらく何から話そうか迷うような間。
 そして、ジェーナは語りだした。
「あれは十五、でしたわ。ダシルワと初めて会ったのは。私にとっては、初めて夜までいていいと親から許可を得た園遊会でしたの。春も半ばで、会場のルエン家のお庭は色々な花が咲き乱れていました。その中を、艶やかに装った女性や、彼女達に秋波を送る身なりの良い男性達が歩き回っていて……夢のように美しくて、胸がときめく光景だ、と、私はすっかり現実を忘れてしまいましたの」
 ジェーナの目には、窓の外の冬枯れの景色はもう映っていなかった。リーザも一緒に、園遊会にいるような気持ちになる。
「私、生まれて初めて胸の開いたドレスを身に着けていて、とても恥ずかしかったのを覚えていますの。素敵な若い男性達が声をかけてくるのですけれど、俯いて扇で顔と胸を隠してばかりで。そのうち彼らも喋らない女の子に飽きてしまったのでしょうね、ふと気が付いたら、一人でぽつんと会場の隅に立っていました。自分だけ素晴らしい園遊会に入り損ねたような気がして、急に泣きたくなりました。その時、ダシルワが声をかけてきたんです。『これはまた、美しくも可愛らしい令嬢だ。お嬢さん、私とお話して頂けませんか?』……彼は、そう言って微笑みました。その頃のダシルワはお洒落でハンサムで、しかも私から見たらとても大人で……お恥ずかしいのですけれども、その一言で、ぽうっとなってしまいましたの」
 それは、分かるような気がした。リーザもダシルワを見たことがあるが、彼には一種の魅力がある。そうでなければ、どんなに運が良かったとしても、とてもイェルト国の宰相までは昇り詰めることはできなかったであろう。
「その後、帰るまでの間、私はふわふわと熱に浮かされたようになっていました。まるで世界で私だけしかいないかのように扱ってくれるダシルワに、すっかり夢中になってしまったのです。彼の唇から流れ出る珍しいお話に、私は飽きもせず聞き惚れて。今にしてみれば、全部自慢話やほら話だったのですけれど、信じてしまったのですね。ダシルワはそんな私を気に入ったようでした。次の日には、結婚の申し込みが正式にありましたから」
「え? でも、ジェーナ様はその頃十五だったのでは……」
 リーザは思わず口を挟んだ。ジェーナが微笑む。
「ええ。私が十六になってからというお話でした。彼も三十近かったものですから、脈があって大人しそうな女性だったら誰でも良かったのでしょう。だけど、そんなことはどうでも良かったのです。一夜の恋に目が眩んでいた私は、両親を説き伏せてしまいましたの。その頃、ルエン家は羽振りも良かったものですから、周囲の説得もあって、両親も渋々ながら認めてくれましたわ。私は、ダシルワのことを表面しか知らなかったのに、結婚を決めてしまったのです。恋は盲目って、本当ですわね」
 ジェーナの後悔の表情に、リーザは何故か後ろめたくなった。今、自分が恋をしているのが、愚かなことのような気がしてしまったのだ。だが、御者台に座るセルクの背中を見て、その思いを振り切る。ダシルワとセルクは別人だし、ジェーナもリーザとまた違う。一つ一つの恋愛を同じように扱うことなど、できる筈もない。
 これは、ジェーナの話なのだ。
 リーザは話に集中した。
「ロマンチックな婚約期間、そして私の家には豪華すぎるほどの結婚式。結婚してからは優雅な男爵夫人として、私はすっかり有頂天でしたわ。男爵家が普通どれくらいの俸給を頂くのかも知りませんでしたし、ダシルワが贅沢な生活を続ける為に、裏でどんなことをしていたかも知りませんでしたの」
 男爵時代のダシルワは、領地の管理の他に美術商をしていたという。大して値打ちのない美術品を買い取り、高額で売り払う。相当の売り上げを誇っていたらしいが、融通の利く役人に鼻薬を嗅がせ、資産を少なく見積もらせる。そこから算出された税は売り上げからすると微々たるもので、彼は富裕の限りを尽くしたと、リーザはそう聞いている。
「恋の幻影から覚めはじめたのは、長女のイリカが生まれた頃でした。ダシルワは、人様の前では、子供ができたことを自慢している風でしたが、家にいる時には、泣く声がうるさい、部屋が赤ん坊臭いと言って、イリカには近寄らなくなりましたの。そこでようやく気が付きました。ダシルワからは、ロマンチックな台詞と、自慢話の他は殆ど何も聞いたことがなかったということを。でも家族になったのですから、何とか子供に目を向けて貰おうとしました。そうしたら、彼は家から飛び出て殆ど帰って来なくなってしまいましたの」
 ジェーナは俯く。話し始めてから、彼女はどんどん小さくなっていくようにも思えた。
「とても、悲しかった。私は結婚を決めた時、ダシルワと暖かい家庭が築けるのだと、どこかで信じていたのです。でも、ダシルワは違っていたのですわ。結婚していないと世間体が悪いから、何でも自分の思い通りになるような女性を選んだというだけだったのです。私でなくても、誰でも良かったのでしょうね。時折帰ってきても、私は口答えも許されませんでしたわ。それでも意見を言って、叩かれたことも何度もあります」
「そんな……」
 リーザが思わず声を上げると、ジェーナは淋しそうに笑った。 
「そういうことなんです。あの人が必要としていたのは、自分に都合のいい家庭。もし家族を大事に思っていれば、罪など犯しません。その頃から、時々ダシルワに騙されたという人が家を訪ねてくるようになりました。私には身に覚えのないことですから、いつもお茶を濁しておりましたの。けれど年々、我が家への訪問者はそういう人が増えてきて、中には武器を持った人までいて……エシェルが生まれてすぐに、身の危険を感じた私は実家へ戻りました。危害を加えられると思ったのと同時に、彼が何をしているのかを知るのが怖くて、逃げ出したのです。直後、賄賂を送った罪が発覚して、ダシルワは爵位を剥奪されました。私は……私は、ダシルワと離縁しました。その後はリーザ様も、きっと御存知ですわね」
 リーザが頷くよりも早く、ジェーナの唇が震え、悲鳴のような声が漏れた。
「若かったから、あの人のことを分からなかったのは当然だ、と自分の中では言い訳していました。けれど、知らなかった、いえ、知ろうとしなかったのは私の罪。あの人を止めることさえ、思いつかなかった。嫌なことを深く知ることなく離婚してしまえば、自分が傷つかないと思いましたわ。両親に諭されなければ、イリカとエシェルがいなければ、私は逃げ続けたかもしれません。私は……卑怯者です」
 言い切った後、まるで誰かにぶたれたかのように、ジェーナは口を閉ざした。
 居たたまれない気持ちになったリーザは、首を強く横に振った。ジェーナにも非はあったかもしれない。だが、そんな風に考えては欲しくなかった。
「ジェーナ様、それは違います。離婚して他人になった後も、ジェーナ様はあの方の被害者の為に、我が身を顧みずに尽くして来られたではないですか。今もこうして、ダシルワ様に会おうとしていらっしゃいます。過ちを犯さない人などおりませんわ。経過はどうあれ、それを償おうと力を尽くすジェーナ様は、正しいと存じます。それを否定など、なさらないで下さい」
 リーザの真剣な眼差しに、ジェーナは戸惑いの表情を浮かべた。それから、弱々しい笑みを漏らす。
「ありがとう。リーザ様の言葉を聞くと、いつも救われます。そうですわね、あなたがいらしたからこそ、私もあの人と会う気になったのですものね。あなたにこういう弱音を吐くことこそ、卑屈ですわね。こんな考え方をするのでは、ダシルワにも昔のようにあしらわれてしまいますわ」
 その言葉と同時に、縮まっていたジェーナは、不意に背を伸ばした。今まで耐えてきた強い母親であり女性である顔が、表に出される。先程までの己の過ちを悔いるだけの姿とは違った、決意を秘めた表情。
 ほっととして、リーザは微笑んだ。
 そして、ふと考える。
 ジェーナは、案外自分と年が近いのかもしれない。十六で結婚、すぐに現在十二歳のイリカを身籠もったのであれば、最も早く見積もれば二十八、九。ダシルワとの新婚生活が、二、三年だとしても、三十を少し出たばかりになる。となると、五歳と離れていないことになるのだろうか。初めて会った時からもう疲れ切り、母の顔をしている人だったから、もっと上にも見えたのかもしれない。
 そんなに離れていない年齢の女性が、これ程までの目に遭い、立ち向かおうとしている。そう思うと、リーザの心の中に、改めて彼女を尊敬する気持ちと、良い方向の結末を得たいという気持ちが強まった。
 馬車は、もうネ・エルスでも南に位置する商業地区に入っている。取引の最後の時間に迫っているのだろう、胴間声で値段の交渉をする商人達の声がかまびすしい。大きい問屋が建ち並び、荷を一杯に乗せた、或いは荷を空にした馬車や手押し車が忙しく道を行き交っている。活気に溢れた、エルス国を支える地区でもある。
 過去のことを一気に話したことで様々な思いがよぎるのか、ジェーナは口を開かずにその光景を見ている。リーザも、沈黙を敢えて破ろうとは思わなかった。

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