page24
NEXT

 ジェーナの強気な眼差しには、後ろにいる三人には分からなかった。だが、彼女の発した声に彼らは一様に驚いた。
「私はあなたと関係が無くなりました。けれど、イリカとエシェルにとっては、あなたは生涯変わることなく、実の父親ですわ」
 彼女のこれまでの言動からは考えられないような、厳しい声だった。ダシルワが傍目にもはっきりと分かる程にたじろぐ。ジェーナは調子を変えず、低く続けた。
「娘達には、父親が罪人であることは告げていません。ただ、私と喧嘩をして離婚したとだけ告げてあります。あの子達は、どこかにいる父親と私がいつか仲直りして、家族で暮らせるものと……そう信じています」
 内容は、ジェーナらしいものなのだ。なのに、口調には氷の冷ややかさが感じられ、元の優しい母親、穏やかな女性を思わせるところは微塵もない。
「エルス国王にはあなたの罪を軽くして頂いて、正々堂々とこの国で暮らせるように、私からお願いするつもりでいます。イェルトでの罪を、これ以上重くしないで下さい。子供達の為にも」
 言い切った声は、広い部屋にほんの僅か反響した。
 呆然とした時間が過ぎると、ダシルワの顔に怒りがじわじわと滲んだ。語気荒くジェーナに詰め寄る。
「子供を持ち出せば、私の気が変わるとでも思ったのか。私が涙して懺悔するとでも思ったのか。私は今、とても幸福なのだ。お前達さえいなければな。過去の事を暴かれようと、私はどこでも生きていけるだけの財を成したのだ」
「ならば、どうしてこの国にいるのです」
 飽くまで冷ややかに、ジェーナは問いかけた。大人しいと思っていた女に下から睨み付けられ、ダシルワは不覚にも黙り込んだ。
「未練があるからでしょう。そうでしょうとも、ここがあなたの生まれ、育った国ですもの。あなたが結婚し、子供を作った国もありますわ。だから、騙し、脅して財を奪った相手が住んでいても、王女を誘拐して国外追放されても、あなたは舞い戻ってきたんじゃありませんか」
 ぴん、と張った緊張の糸が室内に幾重にも張られているかのようだった。ダシルワにも後ろの三人にも、誰にも逆らわせないといった雰囲気が漂う。ジェーナは、明らかにこの部屋を支配していた。
 緊張の糸を切り、主導権を握ろうと、ダシルワがごくりと唾を呑み込み、頬を引きつらせて笑う。
「過去とは全く関係がないね。ここは勝手を知っていて暮らしやすい国だから、それだけの理由だよ。どこの者とも知れぬ人間が、金を稼ぎやすい国でもあるしね」
「この国は、あなたのような後ろ暗い過去を持つ人間が暮らしやすいような、そんな国ではありませんわ。外見を変えても、あなたは怯えていたのでしょう。誰が自分を捕らえに来るのかと。とうとう見つかったものの、あなたは印璽を盾に自分の新しい立場を守ろうとしている。愚かですわ。あなたの印璽などなくとも、ここにいる方達が太って動きが鈍くなったあなたを捕らえ、兵の詰め所に引き渡すことなど簡単ですもの。国外追放という罪を償わずに舞い戻ったあなたは、今度こそ極刑でしょうね。あなたを捕らえてからの方が、ゆっくり印璽を探せて良いかもしれませんわ」
 余りの言葉に、ダシルワが色を失った。部屋の隅に影のように、だが厳然と存在する三人にちらりと目をやる。ジェーナが挑発していることが分かっていても、その言葉には聞き流すことができない真実があった。
「売るのか、私を」
 ダシルワの声は息ばかりになり、もう殆ど声になっていない。
「売ってもお金にはなりませんが」
 ジェーナの表情はぴくりとも動かなかった。じっとダシルワを見据えている。
 ジェーナから逃れるかのように、ダシルワの視線が泳いだ。三人に固められた出口を、彼が抜け出すには細すぎる窓を、火が燃えさかる暖炉を、そして何故か砂糖菓子の盛ってある容器へと。
 目を眇めるようにしてその様子を見ていたセルクが、表情を変えた。タッと音を立てて、最後の視線の先へと走る。
 自分の犯した間違いに気づいたダシルワは、思わずジェーナを突き飛ばし、それを遮ろうとした。だが、俊敏な動きをするにはダシルワの身体は向かないものであった。
 セルクはダシルワの指先を掠めるように、砂糖菓子の器を掴んだ。色とりどりの砂糖菓子が音を立て、机の上に花が咲くように散る。掴み返そうとしたのも束の間、ダシルワは華奢に見えるセリスに、関節を極められて動けなくなっていた。
「こいつ一人くらい、簡単に押さえておける。そっちを頼む」
 冷静なセリスに感謝の視線を送り、セルクは息を整えた。銀の燭台の下で、器を照らす。
 金色の器は抱く物を失い、底の立体的な浮き彫りを光に晒していた。一見すれば、精巧にして細緻な彫刻の施された、美しい金の器でしかない。良く見れば、浮き彫りは深く削り込まれ過ぎていたし、支える一本の足が全体に不似合いなくらいにがっちりとしている。足の中に印璽が入っているのは、ほぼ確実だった。セルクが爪で弾くと、中が空洞になっている証拠に、微かに虚ろな反響があった。なかに何か詰まっているらしい、鈍い音だ。
 セルクは器を様々な方向から眺め、どこから開けるのかを探った。手伝おうと側に来ていたリーザも、一緒になって目を凝らす。
「そこにあると何故わかる」
 ダシルワが馬乗りになったセリスの下から、苦しみの滲む声で、しかし嘲るように言った。しかし、誰も相手にはしない。先程の視線で、ここにあると知らせるには充分だったのだ。
 ダシルワは悔しげに呻き、続けた。
「もしそこだったとしても、入れ物ごと壊すしか印璽を取り出す方法はないのだよ。溶接をしてしてしまったからね。無傷で印璽を手に入れられるなど、本当に思ったのかね?」
 その声に、一瞬セルクの目がダシルワへと向けられた。
 しかし、床に組み敷かれたダシルワの希望を砕くかのように、ジェーナが冷水のような声を浴びせた。
「嘘ですわ。この人が嘘を吐くときの声は、思い返せばいつもこうでしたもの。印璽は間違いなくそこにありますし、開け方もございますわ、リーザ様。いざとなれば持ち帰り、ゆっくりと開くこともできましょう」
 心を読んだかのように不利なことを語る元の妻に向かって、ダシルワは憎々しげな視線を送った。僅かにジェーナの顔に、脅えが走る。
「おいおい。状況考えろよ。あんま物騒な顔すんじゃねーって」
 セリスがすぐに気づき、極めていたダシルワの腕を更にぐいっと捻った。ダシルワは苦痛の声を上げ、ジェーナはほっとしたように肩の力を抜く。
 セルクとリーザはその様子をちらりと見た後、金の器に真剣に向かい合った。
「ここも……何もない」
「セルクさん、そちらは?」
「……駄目です」
 ジェーナが推察してくれたことを、二人は露ほども疑っていなかった。同時に、どうあってもここで印璽をダシルワに見せつけなければいけないという気持ちも湧き上がってきていた。ここで器を持ち帰ってしまうのは簡単だが、それではジェーナが納得できないような気がしはじめたのだ。一番身近だった人が、騙し、嘘を吐く場面を見逃してきたジェーナ。今はその支配下にはいないということを彼女自身が確認する為にも、必要な儀式でもある。
 滑らかな弧を描く金属の上に、細かい細工のざらつきの上に、二人は丹念に指を這わせた。少しでも指先に違和感を覚えれば、爪で押してみる。キラキラと輝いていた金の器は、二人の指紋であっという間に曇っていった。時折二人の指先は触れ合ったが、そんなことにも気付かないくらいに、二人は集中しきっていた。
 その時。
「リーザ様。ダシルワが、今、表情を変えましたわ」
 ダシルワの顔を観察し続けていたジェーナが、鋭く二人の指を止めた。リーザの指先には、一つの小菊の蕾が、他の図柄から少し離れ、端の方に淋しそうに描かれていた。
「そう、そこですわ」
 確信のこもったジェーナの声に従い、リーザは冷たく湿った指先で、力を込めてぎゅっと押してみた。
 だが、何も起こらない。不安になって間近にあるセルクの顔を見上げる。
 大丈夫、というように頷くと、セルクが真剣な表情で、リーザの指の側に自分の指を添えた。リーザの冷たい指に比べて、熱を持った指だ。その指が軽く小菊を押し、やはり何も起こらないことを確認する。
「こういう時は、押して駄目なら引いてみろ、という諺に従ってみましょう」
 無意識なのだろうか、リーザの耳にそう囁きかけて、セルクは小菊の萼(がく)の部分に爪を引っかけた。
 パチリ。
 小さな音が、誰の耳にも届いた。一瞬、リーザはセルクの爪が割れたのではないかと思い、彼の指先を見つめた。が、彼の爪が傷付いた様子はなく、代わりに小菊のレリーフが、先程よりも僅かに浮き上がっていた。いや、小菊だけではない。小さな金属片が浮き上がるのと同時に、どういう仕組みになっているのか、真ん中で固まって咲き誇っていた三つの小菊も浮き上がっていたのだ。
 リーザが緊張しながら中央の金属を爪で剥がすと、器の足の空洞がぽかりと姿を現した。そして、その中には、薄い紙に包まれた……。
「ありました!」
 思わずリーザは叫んでいた。もどかしげに引き上げて、紙のままセルクに渡す。
 セルクは肌色の紙を丁寧に広げた。変色した血で、何かの文様が不気味に描かれている。
「その紙、俺んとこ持ってきて、目の前でちょっと広げてくれ」
 セリスが強張った声でリーザに声をかけた。リーザは言われるがまま、セリスの目の前に不気味な包み紙を広げてみせた。セリスの翠の目が、嫌悪感に細くなった。
「なるほどねえ。気持ち悪ぃ術使いやがって。精霊共が見つけられねえ訳だ。バルファンの置き土産を有り難く使ったって訳か」
 その声を聞きながら、セルクは白い印璽の確認に余念がなかった。象牙でできており、大きさは掌の半分ほどもある。見た目は本物に見えるが、偽物を持ち帰るわけには絶対にいかない。懐から、この時の為にルイシェに用意してもらった本物の印影を取り出し、細かく印璽の彫りと見合わせていく。
 誰もがセルクに注目していた。ずっとダシルワの顔を見つめ続けていたジェーナでさえも、視線を送る。
 ふう、と大きな溜息がセルクの口から漏れた。印璽をしっかりと掌に握り締め、セルクは漸く顔を上げた。自分に注がれている幾つもの視線に気が付くと、力強く頷いてみせた。
「大丈夫です。本物です」
 印璽は遂に発見されたのだった。
 複数の溜息が、部屋に広がった。同時に、「離せ! 返せ!」と喚き出すダシルワの声が。
「そーゆー訳にもいかねーだろーが。なあ、こいつどうする? あんたが決めるのがいいと思うぜ」
 セリスが側にいるジェーナに向かって話しかける。ジェーナは、喚き続けるダシルワの顔をじっと見つめた。
「街の警備兵に渡そうと思います。それが一番、理に叶ったことですから」
 迷う様子は殆ど無かった。一瞬ダシルワが蒼白になり、更に大声で訳の分からないことを喚き始める。
 セリスはその腕を、仕方ねーな、と呟きながらぐっと強く捻り込んだ。

NEXT
BACK
感想を心よりお待ちしています。
フォームメールへ
「LIEZA」トップページへ戻る
My Castleへ戻る