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 意外なことに、それからもう少しかかるであろうと思われた事態を素早く収束させたのは、ダシルワの小間使いであった。ある意味で職務に忠実だった彼女は、セルク達が踏み込んで、自分の主人を捕らえた時点で、市街を守る警備兵の詰め所へ駆け込んでいたのである。
 家に駆けつけた兵との間に多少の誤解などはあったものの、バイレン・タークなる人物が国外追放された元貴族、ダシルワ・ルエンであると元の妻が証明したことで、話は一気に進んだ。
 最後まで見苦しく喚き続けたダシルワ・ルエンは、何年ぶりかで牢に収監されることになった。
 そして、リーザ達は。
 印璽を取り戻したという安堵感の中、シロン家へ戻る馬車にいた。行きと同じくセルクとセリスが御者台に乗っている。
 柔らかな布が張られた馬車の内部では、それまでの緊張が切れてしまったのか、涙が止まらなくなったジェーナをリーザが慰めていた。
「私は……正しいことを、したのでしょうか」
 救いを求めるように、ジェーナは涙に濡れた双眸でリーザの顔を見上げる。
「ダシルワがラルドーであることは、どうしても告げられませんでした。私の中に、落ちぶれたあの人をまだ庇おうとする心があるのです。あの人には全てを償ってほしいのに……」
 自分を責めるジェーナの肩に、リーザは優しく腕を回した。
「ジェーナ様がなさったことは正しいのですわ。彼がラルドーであることが知れ、印璽を握っていたことを表沙汰にすれば、困るのは彼だけではないのですから。バルファンの事件のさなかラルドーを逃しただけでも批判が起きているイェルト王家が、印璽までも奪われていたと知れたら、イェルト国は大変なことになりますわ。それに、ダシルワとラルドーが同一人物となれば、いかに友好関係が固い我が国とイェルトといえども、国際問題として取り扱わない訳にはいきませんもの」
「ですが、このままではイェルトでの罪を償えません」
 悲痛な眼差しで見つめられ、リーザは困惑した。
 すると、外で聞いていたのだろう。セルクが小さく咳をした。
「申し訳ございません、お話を聞いてしまいました。差し出がましいようですが、一言宜しいでしょうか」
 ジェーナは思わぬところからの言葉に、目を見開いた。今日会ったばかりのこの赤毛の男性とは、殆ど話をしていない。なのに、彼の声からは並々ならぬ同情と優しさが感じられた。
「はい……」
「ルイシェ王はバルファンに操られた彼を罪に問われるつもりはない、とお考えのようです。印璽のことに関しても、実際の被害が無い限りは罪に問われないでしょう。彼に関しては、エルスで犯した罪を贖う方が大事だと、そういうお考えだと思うのです」
 イェルトの人間らしい、歯切れのいい発音である。印璽の為にエルス国にいることといい、この男性がルイシェ王の近くにいる人物で、信頼されているらしいということは、ジェーナにも理解できた。
「ありがとうございます。そうだったら、どんなに嬉しいでしょう」
 力強い声に励まされたジェーナは、やっと落ち着いて懐からハンカチを取り出した。そして、涙を拭いながら、リーザに向かって微かに笑ってみせた。
「強くありたいと思うのに、私はいつもこうです。泣いて解決することなど、何もありはしないのに。せめて子供達の前では笑顔でいられるように……そう、決めているんです」
 馬車はもう、シロン男爵の館に近づいていた。
「それだけでも、守ることは大変なことだと存じますわ」
 リーザは尊敬の念を込めて、手鏡を取り出し自分の顔を点検しているジェーナの顔を見つめる。母であるからこんなに強いのか、それとも苦難を乗り越えてきたから強いのか。いずれにせよ、リーザから見て、ジェーナは充分に強い女性に思えた。
 馬車を降りた四人がシロン家の玄関を開けると、甘く優しい香りが出迎えた。
「お母様、お帰りなさい!」
 白いエプロンをつけたイリカとエシェルが、同じく白いエプロンをつけたテイルと共に待ちかねた様子で出迎える。ジェーナの表情が、途端に柔らかくなった。
「ただいま。フェルさんにはご迷惑をかけなかった?」
 一人ずつ抱きしめて頬にキスをする。イリカは母の表情を少し心配そうに見つめたが、いつもの母の様子だと思ったらしく、笑顔になって頷いた。
「うん、私達とてもいい子にしてたわ。ねえ、フェルさん」
「それは、もう。ジェーナ様の為に、お嬢様方がホットケーキをお作りになったのですが、召し上がりますか?」
 にこやかに居間を指さすテイルを見て、ジェーナが瞬間、複雑な表情を浮かべた。多分、彼が大公爵の一人に違いないということを思い出したからだろう。だが、すぐにその表情を上手く消し去り、穏やかに答える。
「ありがとうございます。勿論、頂きますわ」
「良かった。レジー様とルディーは、次の予定があった筈ですから、ヴィス君、君だけでも一緒に付き合っていってくれるよね?」
 まだ身分がばれていないと思っているテイルは、滑らかすぎるほどに偽名で読んでみせる。その一方で、他の人にはそうとは分からぬよう、セルクとリーザに、目配せした。意図を察知するまでもない。子供達が残念そうな顔をするのが見えたが、リーザは心を鬼にして頷き、頭を下げた。
「ジェーナ様、イリカ様、エシェル様、申し訳ございません。改めて後日伺いますので、どうぞお許し下さいませ」
 ジェーナの側にこれからも居たいという気持ちはあったが、印璽は取り戻しただけで終わりではないのだ。本来の持ち主である、イェルトの王に渡さなければならない。セルクを送り出さなければならないのだった。
 ジェーナもそのことを敏感に察したらしい。今にも引き留めそうな娘達を目線で牽制してから、別れの挨拶の為に、リーザに向かって右手を差し出した。
「本日は、本当にありがとうございました。無事にご予定がお済みになりますこと、祈っておりますわ」
 言葉の裏に隠された応援の気持ちに、リーザは握手で応える。
「ありがとうございます。それでは皆様、失礼させて頂きます」
 リーザが挨拶する後ろで、セルクが深く頭を下げた。

 外は、月も無い完全な闇夜だった。数日前に降った雪だけが、僅かに白く星灯りを反射している。
 一旦馬車に乗り込んだリーザは、シロン男爵の館が見えなくなるとすぐにセルクに馬車を止めてもらい、御者台の方に乗り移った。少しでもセルクの近くにいたい気分だったのだ。
「セルクさん、すぐお発ちになるのね?」
 リーザは釣り下げランプに照らされた、セルクの逞しい手を見つめながら、尋ねた。手が動き、馬車が再び動き始める。
「はい。ルイシェ様がお待ちですから。このまま、『金の麦亭』へ行き、支度を整えるつもりです」
 セルクの声には、澱みがない。その声を聞きながら、また離れなければならなない、という気持ちが、リーザの心をずっしりと重いものへと変えはじめていた。
 お側にいます、と言ったのに。馬車では激しく酔う体質で、一人で馬を操ることもできないリーザは、この急ぐ旅についていくことはできないのだ。
 一度イェルトに戻ってしまえば、セルクは再び激務に流されるだろう。その中で、次に会えるのは一体いつなのか。少なくとも明日は会えない。明後日も。その次の日も……。
 考えると絶望的な淋しさが次々と襲ってくる。
 だが、とリーザは必死で自分の心を立て直した。今、側にいられることの方が夢や奇跡のような出来事なのかもしれないのだ。この刹那を悲しむのではなく、大切にするべきなのではないか。
「リーザ殿?」
 黙り込んだリーザを心配して、セルクが声をかけてきた。この暗さの中、彼には見えないだろうと思いながらも、その声の優しさにリーザは微笑んだ。
「ごめんなさい。少し考え事をしてしまって。宿に着いたら、私にも荷造りのお手伝いをさせて下さいね」
 明るく答えると、今度はセルクが沈黙した。また別れが近付いていることに、セルクも気付いたのだ。
 リーザは励ますような口調で続ける。
「印璽、ルイシェ様に無事届けて下さい。きっとリシア様と一緒に、首を長くして待ってらっしゃいますから。リシア様には、私が元気だったということを、是非お伝え下さい」
「……はい」
 折角一緒にいるのだから、暗い雰囲気にはしたくないと、二人とも考えていた。けれど、二人ともそれ以上の言葉が出てこない。セルクはまっすぐに道を見ながら、リーザは暗闇に溶けかけている自分の爪先を見ながら、御者台の上でじっとしていた。
 冬の夜の、身を切るような冷たい風の中、すぐ側にいるお互いの暖かさが仄かに伝わる。こんなささやかなことが、悲しい程幸せだった。きっと、離れている間も、この温もりを大切な思い出にするのだろう。
 宿に辿り着くまでの短い時間、二人はそうして黙っていた。
 街の家々は既に窓の鎧戸を閉めて、真っ暗な闇の中に沈んでいた。その中、「金の麦亭」は柔らかなオレンジ色の灯りを窓から一杯に放っている。
 二人が凍えきった身体で宿に入っていくと、ほっとするような暖かい空気が出迎えた。食事の時間も終わり、酒を楽しむ人間がところどころにいるくらいであった。
「いらっしゃい……おや」
 入ってすぐの帳場の内側で、今日一日の帳簿を管理していたアーナが、顔を上げて二人の姿を認めるなり、目を丸くした。
「こんな時間にデートかい? ティドとの決着は、まだついてないと思ったけどねえ」
 揶揄うような口調に、リーザはちょっとムッとしながらも答えた。
「こんな時間まで仕事よ。セルクさんはこれからすぐ、イェルトに向かうの。馬の用意をお願い」
「これからって……夜じゃないか。それにイェルトって、長旅じゃ……」
「そうよ。急ぎだから、仕方ないの」
 呆れた様子のアーナに向かってリーザはさばさばとした口調で答えた。後ろから、セルクが頭を下げる。
「いきなりの話で申し訳ありません。ご迷惑をおかけします」
「急いでるから、鍵、持っていくわよ」
 アーナに口を挟ませず、リーザは帳場に入ってセルクの部屋の鍵を手に取った。
「忙しい人達だね、全く。こんなに急に発つんじゃ、持っていく食料や水も用意してないだろう。下に降りてくるまでに揃えてみるから、父さんとバンスに声をかけなよ。馬もちゃんとしておくから」
 リーザ達の急ぎぶりが感染したらしく、アーナは急にてきぱきとした動きになり、リーザを押しのけて厨房に小走りに走っていく。
「私達も行きましょう」
 リーザ達も、階段を上がってセルクの部屋へと向かった。
 部屋に入ると、セルクは暖炉に火も入れず、荷物を整理しはじめた。元々荷物が少ないので、実はリーザが手伝う隙は殆ど無かった。三分もしないうちに、大きな革袋に荷物が全て入ってしまう。
 セルクが外套の下に厚手の服をもう一枚着込み、そこに印璽を大切そうにしまったところで、全ての準備が整ってしまった。リーザは、侍女の自分も顔負けなくらい手際の良すぎるセルクに、少し泣き言を言いたい気分になった。
「私がすること、何もありませんでしたわね。何かしてあげたかったのに……」
 ぽつんと扉の前に立ったまま、少し拗ねたように呟く。セルクが驚いたようにリーザの顔を見つめた。
「ずっと、側にいてくれたじゃありませんか」
「そうじゃなくて……もっと、役に立ちたかったの。あなたはすぐに旅立っちゃうから。また離れなくちゃならないから……」
 リーザは視線から逃れるように、俯いた。声が湿り、その唇が微かに震える。
「本当は行って欲しくないんです。行ったら、どれくらい会えなくなるのかと……」
 こんなつもりではなかった。泣いたりせずに、強く明るい女性としてセルクを送り出したかったのだ。なのに、これではまるで正反対だ。
「リーザ殿……」
 セルクが全身から、それまでずっと身に纏っていた緊張を解いた。手に掛けていた荷物を下ろし、リーザのすぐ前に立つ。
「不安、なんですね」
 セルクはリーザの心をぴたりと言い当てた。淋しい、もある。悲しい、もある。それよりも大きくリーザの心を占めていたのは、不安だったのだ。
 リーザは小さく頷き、顔を上げた。セルクが深い群青色の目で、リーザをじっと見つめている。
 その瞼がふっと伏せられ、精悍な顔が近づいてきた。
 どきりとしながらも、リーザも自然に目を閉じ、唇に神経を集中する。
 次の瞬間、右頬に、暖かく柔らかい感触がした。そのまま気配は去っていく。
「……え?」
 思い切り肩すかしを喰らったリーザは、思わず目を開けた。目の前では、セルクが申し訳なさそうな顔をしている。
「その……ティドとの約束が」
「あ……そうでした、ね」
 ティドの捨て台詞をすっかり忘れていたリーザは、赤くなった。同時に、あれを約束というなんて、どこまでセルクという人間は真面目なのだろう、と思う。とてつもなく残念ではあったが、その真面目さが彼の良さでもあり、一途すぎるところには可愛らしささえある。仕方がない、と諦めて、リーザは微笑んだ。
「今は、これで我慢しますわ」
 おどけるように言うと、セルクの頬がすっと赤らんだ。何かを耐えるようにぐっと首の筋が浮いた。
 その様子だけで、どんなにセルクも自分を抑えているかが分かったリーザの心は、先程の重さが嘘のように軽々としていた。
「リーザ殿……近いうち、決闘を果たし、必ずお迎えに上がります」
 セルクは低く呟き、もう一度リーザの頬に唇を寄せた。リーザも、今度はセルクの火照った頬に唇を当てる。
「信じて、お待ちしてます。道中、ご無事で」
 顔が離れ、二人の視線が別れを拒むかのように絡む。
 階下から、ベドリスのものらしい何かを指示する声が聞こえてくるまでずっと二人はそうしていた。音を耳にして我に返った二人は、無言のまま視線を外す。
 ふう、と溜息をついてから、セルクは床に置いた荷物を肩に背負った。
「見送って下さいますか?」
 セルクの言葉に、リーザは頷いた。
「勿論ですわ」

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