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 セルクの出発は、呆気ない程、素早いものだった。宿にいたアーナやベドリス、バンスにとってはつむじ風が通り過ぎたような出来事だったろう。かき集めた食糧を受け取る、受け取らない、或いは宿代を引く、引かないといった、ちょっとした押し問答はあったものの、結局リーザの一声で食糧はセルクの荷物に詰め込まれ、宿代は正規の値段が支払われることになった。
 いずれにせよ物事は、普通こんなやり取りをする場合よりも何倍も早い時間で済んだことは明らかだった。
「……忙しい人だねえ。あれじゃ、いつ身体を壊すか分からないよ」
 セルクが馬と共に闇に消えた方向を見つめながら、アーナが心配そうに溜息をついた。ベドリスとバンスは宿の客を相手する為に宿の中でセルクと別れたが、アーナとリーザは外で彼を見送った。その後もすぐに宿に戻る気にはなれず、白い息を吐きながらセルクと別れた場に残っている。
 夜中になり、気温はぐっと下がってきていた。こんな中、夜を通して馬で旅をするのは、普通の人間では考えられないだろう、とリーザも思う。少し愚痴を口にした。
「そうなの。真面目だし信頼できる人だから、ルイシェ様が頼りになさる気持ちは分かるけれど、もう少し気遣って頂きたいと思うこともあるわ。何年か前にエルス国に来た時、過労で熱を出したこともあるし……」
 何気なくリーザは言ってしまったのだが、その言葉を聞き逃さなかったアーナは、ぎょっとしたようにリーザの顔を凝視した。
「ちょっと、今ルイシェ様って……?」
 リーザははっとして、やっと自分がルイシェの名前を出したことに気づいた。
「そういえば、まだ聞いてなかったね。セルクさんの仕事って、武器屋じゃないのかい?」
 アーナの声はいかにも不安そうだ。
 話を逸らそうかとも思ったのだが、このまま自分とセルクの仲が進むことになれば、分かることである。それに、逸らせばさらに追求されることなど目に見えている。リーザはできるだけ何気ない風を装って、まるでアーナが知らなかったという事の方に驚いた、というように答えた。
「あら、教えてなかったしら。セルクさんはルイシェ様の乳兄弟で、従者を務めてらっしゃるのよ」
「ちょっとあんた、何でそんな大事な話をするのを忘れていたんだい。そうしたら、偉い人じゃないのかい? そういえば、何となく品があったよ。自分のこと『私』なんて言ってたしねえ。あたしらがあんな話し方をしちゃあ……ああ、宿代なんか受け取らなきゃよかったよ」
 みるみるアーナの様子が変わった。最初は呆然としていたが、段々事の重大さが分かった、とでもいった様子である。宿代のことを口にした時には、このままセルクを追いかけて、宿代を返しかねない勢いだった。
 母親のうろたえぶりがおかしくて、リーザは思わず大声で笑い出した。アーナがリーザを睨み付ける。
「笑い事じゃないよ、リーザ。あんたは宝くじに当たるより凄い確率で、平民でありながら王宮に勤めることができたけどさ、普通は王族の側に仕えるのは貴族と相場が決まってるんだから」
「大丈夫よ、母さん。セルクさん、身分的には一般の人よ。ルイシェ様のお母様、ライラ様が一般の御出身だってこと、忘れたの? ライラ様と、セルクさんのお母様が同じ村の出身なんですって。ずっと前に話した時、私が貴族じゃないって知ってほっとした、みたいなことを言ってたくらいだもの」
 笑いを声に滲ませながら説明すると、アーナは「はああ」と気が抜けたような、変な声を上げた。
「じゃ、あたしのしたこた、失礼じゃないんだね?」
「問題はないと思うわ。それよりも、このこと、父さんには言ってもいいけど、他の人には絶対言わないでおいてよね。お客さんやティドには勿論、できればバンスにも言わないでおいて」
 安堵した様子の母親に向かい、リーザは厳しい声で念を押す。
「何で? 立派なお仕事じゃあないか?」
「あのねえ、そのことが知られたら、今度あの人が来た時に色眼鏡で見られて困るでしょ。ついさっきだって、母さん、貴族だのなんだのって騒いだじゃない」
 妥協のないリーザの言葉に、アーナは仕方なさそうな声を出した。
「そうだね、そうかもしれないし、あんたも余計なこと言われるかもしれないか。黙っておくさ。それにしても……まあ、ルイシェ様の乳兄弟……」
 最後は呟きながら、アーナはすっかり考え込んでしまったようだった。
「母さん、私も王宮に戻るわ。まだ入れてもらえるぎりぎりの時間だし。母さんも中に入らないと、風邪ひくわよ」
 段々寒い中で立ち尽くしているのが辛くなってきて、リーザは両腕で身体を抱え込みながら言った。アーナがハッとしたように返事をする。
「あ、ああ、そうだね……って、あんた、泊まっていかないの? 全くあんたも忙しい人だねえ」
 その口調は、先程セルクが去った時と全く同じものだった。それに同時に気づいたリーザとアーナは、顔を見合わせてニヤリと笑う。
「次の休みにでも、また顔を出すわ。あと、セルクさんに食糧を用意してくれて、ありがとう」
「はいはい。じゃ、あたしは中へ戻るよ。あんたも風邪ひかないようにすんのよ。あと、ちゃんと馬車をつかまえて帰るんだよ」
「うん」
 手を振り、母親が暖かそうな宿屋に入っていくのを確認してから、リーザは軽く身震いをした。身体が随分冷えている。セリスが用意した馬車は、御者を雇ってシロン家に返していたので、近くの馬車屋まで歩くことにした。凍え始めた足で歩き始めながら、色々なことを考える。
 数時間前、ダシルワの家で印璽を発見したばかりなのに、何故かもっと前のことのように思える。何それに、ついさっきまでセルクと一緒にいたのが、夢のようだった。頬に受けた唇の暖かさは、何日かしたら本当に夢だったと思ってしまうかもしれない。彼は、気持ちが冷めないうちに戻ってきてくれるのだろうか。
 明日からは、またいつもの日常が始まる。それがいつまで続いていくのかは、考えないようにした。

 パンケーキの宴を無事に終えたテイルとセリスは、リーザが気を利かせて戻しておいてくれた馬車の御者台に乗り、のんびりと夜道を走っていた。
「何でお前ばっか、いいとこ取りするかなあ」
 テイルは少しばかり不機嫌そうだった。ダシルワの家で何が起こったかを今聞いたばかりである。その場にいられなかった悔しさがある。それだけではない。一緒に遊んですっかり仲良くなったと思っていた姉妹が、セリスを前にした途端、まるでテイルなど忘れてしまったかのように振る舞ったことが、テイルの心を深く傷つけていた。
「そもそも印璽の件は、リシアが俺に頼んできたことだぜ」
 だるそうにセリスが答える。余りテイルの会話に乗るつもりはないようだった。少し眉根を寄せて、目を瞑っている。
「何だ、疲れたのか? 外見にそぐわず、結構頑丈なくせに」
「あれぐらいで疲れやしねーよ。ただ、やなもん見たな」
「やなもんって?」
 テイルの問いかけに、セリスは懐から肌色の紙を指先でつまみ出した。馬車を操るテイルに見えるよう、広げて灯りに翳す。
「何だ? 血で書いてあるようだが」
「印璽を包み込んでいたもんだよ。バルファンの妖術士が、精霊に感知されない結界だ。インクはといえば、死者の血に、粉になるまで砕いた人間の骨を混ぜたもんだ」
「げっ」
 テイルは思わず紙から顔を背けた。セリスができるだけ紙に触れないよう、指先だけを使って折り畳み、また懐に戻す。
「どおりで、段々精霊が内偵しにくくなってきたわけだよ。ミスク国や、完全にバルファン教に帰依した国には、こんな小っせーもんじゃなく、でかい結界があちこちに張ってあると考えて間違いねえな」
 こんなものを見てしまったのでは、冗談を言い交わす気になれなくても仕方がない。テイルも、いつしか眉を顰めていた。
「まさかその為に、生け贄を?」
「これだけの為じゃねーだろうな。どうしてもこーゆーのが必要って時は、普通の精霊使いなら自然死した人間のものを使う。ただ、必要とすることなんか、大抵一生ない。俺も、作ったことはねえしな。見たのも、本の中だけだ」
 テイルは、セリスが何を言いたいのかが何となく分かってきた。考えながら、口に出す。
「結界を張っている中は、精霊の力が及ばないんだよな。だが、そうなると水も風も土も火も、徐々に本来の力を失ってしまう。そこまでは分かる。だが、そこで何で生け贄が必要なんだ?」
「精霊がいなくても何かで代替させる何らかの方法を、バルファン教が考え出したんだってところだと思うぜ。その為に生け贄が必要なんだと、俺は推測してる」
 声に苛立ちを滲ませながら、セリスがぎゅっと拳を握りしめた。
「ただ、方法がわからねえ。どういうからくりになってやがるのか、今の俺にはわかんねーんだよ。内定が特にしにくくなってきたのは、ここ二、三年。ミスク国とバルファン教は、精霊を締め出して、一体何をしようとしてるのか……」
 セリスの言葉を聞いて、テイルも不安が大きな波のように襲ってくるのを感じた。表情には出さないようにしながらも、セリスの言葉を頭の中で繰り返す。セリスが精霊の絡むことで、こんなに思うようにならないのは初めてに違いない。
 しかし、ミスク国とバルファン教に忍び込みでもしない限り、現状は掴めそうにもない。
「……一応、人間の内偵も放ってはいるさ」
 テイルは低く、そう呟いた。だが、その声は風にあっという間に吹き消され、自分にも、いかにも頼りなく聞こえた。
 バルファン教の全てが明らかになるまでには、これから長い時を必要としていた。

 リーザは、無事王宮に戻ってきていた。
 まだエクタが眠る時間には間がある。この時間なら、まだ執務室にいることも多い。リーザは王宮の女官服に着替え、テイルへの協力が終わったことを報告するために、執務室に向かった。
 思った通り、エクタはまだ執務室で書類に目を通している最中だった。リーザが入っていくと、疲れたような目元で、それでも嬉しそうに笑う。たった数日顔を合わせていなかっただけなのだが、二人はしばらくぶりに会うような気がしていた。
「お帰り。テイルの仕事の手伝いは、終わったのかい?」
 リーザは丁寧に一礼してから、微笑んだ。
「はい。無事終わり、ただいま戻りました。明日からは、いつもの仕事に戻りますわ」
「大丈夫? こんな遅くまで働いていたなら、明日は休んだ方がいいんじゃないかな?」
 気遣うように問いかけるエクタに、リーザは優しく首を横に振る。
「お休みはこの間頂いたばかりですわ。それよりも、エクタ様の方が余程心配です。お言葉、お返しさせて頂きます。今は急ぎのお仕事も無いはず。たまには一日ゆっくりお休みになって下さいませ」
 言い返されて、エクタがくすくすと笑う。
「そうだね。たまにはいいかもしれない……それより」
 ふと、エクタは心配そうな顔をした。
「セルクがここに来たんだけれど、リーザは会ったのかかい? 会いに行くとは言っていたんだけれど、リーザも忙しそうだったから、擦れ違ったんじゃないかと心配になって……」
 思わぬ言葉にリーザは驚いた。セルクが王宮に来ていたことを誰からも知らされていなかったのだ。エクタはセルクがエルス国に来ていることを知らないのだとばかり思っていたのだ。
「は、はい。無事に会うことができました」
 無難に答える。だが、エクタはその答えでは満足しなかった。
「それで、どうだった?」
 整ったエクタの顔には、好奇心よりも心配の色が濃い。答えない訳にはいかなくなって、リーザは覚悟を決めた。
「あの、まだ、幾つか問題があるんです。それが解決できないと、分からないのですが……もし解決したら……」
 明るく話してしまうつもりだったのだが、エクタを見ているうちにリーザは段々胸が重くなってきて、言葉を続けることができなくなった。
 エクタの目は、どこまでも澄んで蒼い。その色が、今はとても淋しそうに見えたのだ。
「……行くんだね、リーザ。君が決めてくれて良かった。僕は、ずっと君がそうしてくれることを望んでいたから」
 目の色を隠すかのように、静かにエクタは微笑む。リーザの胸を、突かれたような鋭い痛みが走った。
 リーザはエクタの言葉を否定したいという衝動に襲われた。だが、そうしてしまうことは、一介の侍女に過ぎない自分の思い上がりであり、エクタの気持ちを傷付けるだけなのも分かっている。
 ぐっと気持ちを抑えて、リーザは睫毛を伏せた。
「ありがとうございます。いつになるかは分からないお話ですので、お話がきちんと決まるまでは王宮で働かせて頂くつもりでおります」
 どこまでも慎重なリーザの答えに、エクタは少し淋しさを感じていた。同時に、ほっとしたような気持ちがあることも否めなかった。この受け答えがリーザなりの気遣いであることも、エクタには分かっている。
「そうしてくれると助かるよ」
 短く答えて、エクタは椅子から立ち上がった。項垂れているリーザの前に立つ。
 初めて会った時は、リーザは自分より背が高かったのを覚えている。いつの間にか、その頭は自分の顎の高さにも届かなくなっていた。昔は軽く見上げていたはっきりとした美しい顔を、今は上から見ている。
 そんな感傷的な思いを抱きながら、エクタはリーザの額を軽く指で突いた。
「この前のお返し。僕の心配なんかしてると、身体の毒だよ」
 リーザは目を見開いた。思わずエクタを見上げる。
 エクタは、他の人には滅多に見せないような悪戯っぽい笑みを浮かべた。それを見て、リーザも思わず苦笑する。エクタが自分の考えを見通していることを、はっきりと理解したのだ。
「じゃあ、お言葉を返しますわ。私だって、エクタ様が少しでも幸せになって頂く責任があると思ってますのよ。私の方が先に、なんて、やっぱり納得がいきませんの」
 さっぱりと言い切ったリーザは、いつものリーザに戻っていた。エクタもそれに安心した様子で、軽口を叩く。
「そんなことないと思うけどな。君の方が年上なんだから、君が先に幸せにならなくちゃならないよ」
「まあ。そんなことを仰って。夜更かしのしすぎで、本音が出ましたわね?」
 二人は顔を見合わせて、吹き出した。そして笑いながら、エクタの仕事を終わらせる為に、一緒に部屋の片づけを始めた。

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