ダシルワ・ルエンが捕らえられたという件がテイルからエクタに伝えられたのは、次の日のことだった。同時に印璽がダシルワの手元にあった件も教えられて、エクタは不機嫌な表情を隠すことができなかった。
「だからセルクが来てたんだな? ルイシェも水臭い。僕に協力を頼まないなんて……」
「あのなあ、いきなり聞いて腹を立てるのはわかるが、冷静になれよ。お前が動いてたら、色々ややこしかっただろうが」
「分かってるよ。ただ、話だけでもしてくれていたら、僕だって色々手を回すことができたのに。まさかリーザもそれで?」
エクタはテイルを軽く睨み付けた。エクタの執務室のソファにゆったりとくつろぎながら、テイルはにやりと笑った。
「そうだよ? 今回、ダシルワが誰かとつるんでる様子も無かったし、危険な目には俺とセリスが遭わせやしない。セルクとのこともあったし、一枚噛んで貰ったわけだ」
「何もかも僕は蚊帳の外だった訳だな」
「そう、子供みたいに拗ねるなって。だからこうして話してるんじゃないか。ダシルワにはお前も因縁があるしな」
言われて、エクタもそれ以上は言えなくなった。
実際、ダシルワには因縁がある。妹のリシアが十二歳になる前の日に、ダシルワは当時の仲間と共に彼女を攫ったことがあった。奇しくもそれがルイシェとリシアが最初に出会った日にもなるのだが、エクタも彼女を奪回するのに尽力した。その後、捕らえたダシルワに向かって、エクタは一度会いに行っている。
あの頃はエクタもまだ十六で、今よりももっと子供だった。正論をふりかざし、ダシルワを激昂させた。後のイェルト王家内紛問題、及びバルファン教問題にダシルワが絡んでいると知った時、エクタが感じたのは強い自責の念だった。
全ての企みが暴かれた後、彼が姿を消したのを一番気にしていたのは、エクタだったろう。テイルもそのことを知った上で、こうしてダシルワの話をしているのだ。
「……どこの牢にいるんだ?」
エクタが尋ねると、テイルは我が意を得たりと言わんばかりに頷いた。
「そう言うだろうと思った。案内する」
ダシルワが入れられたのは、商業地区の警備兵詰め所にある牢だった。天井は高く、窓は手が届かないところに小さく一つあるだけだ。扉も頑丈な鉄でできていて、相当腕が立たない限り、脱獄もできそうにない。
この日は、昼から冷え込んでいた。牢には暖炉などあるわけもなく、凍死を防ぐために一枚多く渡された毛布にくるまり、ダシルワは寒さに耐えていた。
心ない警備兵二人が巡回する際に口にしたことが忘れられなかった。
「この牢の男、元男爵だったらしいぜ? 男爵の時に罪を犯して、更にその後も何かやって、鞭打ちの上国外追放されたんだってさ」
「おい、そりゃ重罪人じゃないか。戻ってきたら死罪のこともあるんじゃないのか?」
「犯した罪にもよるけどな、三回目だろ? よっぽど心証が良くない限り、そうなるな」
耳にした「死罪」という言葉が、ダシルワの上に重くのしかかっている。
理不尽だ、とダシルワは思った。ダシルワは人をその手にかけて殺したことはない。仲間が殺すのを見たことは何度かあるが、それはダシルワのやったことではない。一度だけ、殺してしまった方がいいかもしれないと思ったことはあったが、実行には至らなかった。
自分が今までにしたことは、どこまでも自分の利益になるためのものであって、人に肉体的な痛みを与えることが目的だったことはないのだ。
寒さと怒りに震えながら、ダシルワは毛布を強く握り締めた。
しかし、と心の中に僅かに残る常識は囁く。
男爵だった頃、ダシルワのやり口で自殺をした者が何人かいた。ならず者とつるんでいた頃に、たまたま手に入れた王女の始末に困って、殺そうと思ったことはあった。イェルトでは、バルファンが国を実質的に乗っ取ろうとするのに荷担もした。どれ一つを取っても、死罪に値する。今まで生き延びて来られた方が幸いなのだ。
(おしまいかな、私も……)
急激に怒りが消え失せ、寒さだけが身に凍みるのを感じながら、ダシルワはそう思った。先程までは逃げたい、という焦燥感が渦巻いてもいたのに、その衝動も無くなっていた。
何故、エルス国に戻ってきたのだろう、と今になってはつくづくと思う。体型と髪型を変え、髭を伸ばして別人になりすまそうとした自分が、ひどく浅はかだったことにも気づく。
(図星だったのか?)
妻だった女が自分に投げ付けた言葉が胸に刺さる。ここが、生まれ育った国だから、ダシルワは帰ってきたのだろうか。
いや、と考え直す。
胸の奥にこびりついていたのは、幾つかの恨みの残滓。エクタ王子に対するもの、そして何よりも大きく、自分から去っていった家族へのもの。
ジェーナの糾弾は、掠ってはいるものの、当たってはいない。
今や、晴らす程の恨みではなく。かといって、消すには余りにもべったりと自分の心の一部となった、黒く濁ったそれらの思いが、ダシルワをこの国へと誘ったのだ。
自分で気づいてしまったダシルワは、大きく身震いした。毛布を幾ら掻き集めても、身体は暖まらない。こんなに寒さを感じたのは初めてだった。
「おい、面会だ」
カシャン、という音と共に、鉄の扉に付けられた食事を差し入れる小さな窓が開き、警備兵が顔を覗かせてぶっきらぼうに言った。ダシルワはのろのろと顔を上げた。相手の顔は暗くて、余り良く見えない。
「お前は重罪人だからな。ここで面会をしてもらう」
一体、誰が自分に会いにくるというのか。かつて自分が被害に遭わせた人間なのだろうか。そう思うと気が重かったが、狭い牢である。身体を隠すことなどできはしない。
「誰が会いにきたのだ」
短く皮肉を込めて言ってやると、警備兵は無言で威圧してから、面会者に場所を譲った。
「……」
こちらも無言で代わった顔は、とても小さく思えた。そして、どこかで見たことのあるものだった。誰だっただろう、と思う。
声が、聞こえた。
「おとう、さま?」
怯えるような、細い少女の声。ぎくりとして、我知らず毛布から手を緩めた。顔が小さいのは、子供だったからなのだ。見たこともあるのも道理、その目は小さい時の自分と同じ形をしていた。
「あの、エシェルです。あの、ええと……」
何を言っていいか分からないらしいエシェルを押しのけ、もう一人の影が現れた。
「お父様、イリカです。お母様に聞いて、一緒に会いに来ました。私達のこと、覚えてますか?」
先程の少女よりは余程しっかりした、でも大人にはなっていない声だ。窓から覗く目は、やはり自分のものに良く似ていた。その瞳が、不安と緊張で揺れているのが、暗い中でも見て取れた。
「……ああ」
ダシルワはつい、短く返事をした。懐かしさなどはない。ただ、自分に似ているというのが思ったよりも強い衝撃であった。二人がまだ小さかった頃のことを思い出してみるが、まだどちらに似ているとも判断がつかなかったことしか思い出せない。
「良かった……お母様に代わります」
明らかに嬉しそうにイリカが微笑み、窓から消えた。そして、ダシルワの衝撃が去りきる前に、ジェーナの顔が現れる。その目は優しいとまではいえないまでも、昨日と違って厳しくはなかった。
「会いに参りましたわ。娘達が会いたがるだろうと思いましたので」
抑えた口調の中にも、冷たさはない。
「必要なものがあれば仰ってください。とはいえ、贅沢なものは差し入れできませんが。とりあえず、今日は冷え込んでいるので温石を持って参りました」
そう言って、ジェーナは自分で編んだ小袋に包んだ温石を、小さな窓口から内側に差し伸べた。
「……何のつもりだ」
子供達には聞こえないよう、低くダシルワは問いかけた。その視線を強く絡め取り、ジェーナが答える。
「私と子供達がそうしたいだけのことです。あなたがどう思うかは、気にしないことにしました。あなたがそうなさっていたように」
不思議とその言葉は、素直にダシルワの心に入ってきた。無言のまま、ダシルワは手を伸ばし、妻だった女の手から小さな温かい袋を受け取った。微かに触れたジェーナの手は、ささくれ立ち、荒れてはいたが、温かかった。
「お父様……それで少しは温かくなりますか?」
心配そうに、イリカが顔を覗かせる。エシェルも片目だけを覗かせて、精一杯に話しかけてくる。
「その石、エシェルがここまで冷えないように持ってきたんです。おとうさまがあったかいようにって」
「ばか、あんたは懐に入れていただけでしょ」
「ちがうもん。時々こすって、冷めないようにしてたもん」
「あんたの冷たい手でこすったら、冷えちゃうじゃないの」
「そんなことないもん」
目の前で繰り広げられた時ならぬ姉妹げんかに、ダシルワは思わず頬が緩むのを感じた。自分が子供のことで微笑めるなど、思ってもいなかったことだった。
死罪となるのならば、せめて最後に偽善者を装うのもいいかもしれない、という考えがふとよぎる。
「ありがとう。暖かいよ」
たった二言だというのに、姉妹の顔にパッと走った喜びの色は、ダシルワが想像したことがない、明るくて純粋なものだった。ダシルワの心を、痺れるような驚愕が走り抜ける。
もっと若く、いい男ぶりを発揮していた頃は、憧れや好意の視線を受けることもあった。金を持っていれば人が優しいことも知った。
だが、この少女達は違う。父が今まで自分達を見返ることがなかった人間であるだけでなく、醜く落ちぶれた犯罪者であることを知っている。それでも、父親だというだけで、何のてらいもなく自分の言葉に喜んでみせるのだ。
「あなた、何か欲しいものは? 明日また参りますから」
じゃれあう娘達に代わって顔を出したジェーナは、信じられないものを見ていた。
ダシルワが、俯いていた。涙が頬を伝っている。両手でしっかりと温石の入った袋を握り締めて、髭を震わせているのだ。
まだ、やり直せるのかもしれない。
ジェーナの捨てきれなかった思いに、とうとう希望が見えてきた瞬間でもあった。
エクタとテイルがダシルワの牢に着いたのは、ちょうどそんな時だった。
先に気付いた少女達が、意外そうな声を上げる。
「あれ、フェルさん……どうしたの? その方、だあれ?」
少女達も不思議そうにしていたが、フェル、という名前を聞いた時のエクタの顔も負けず劣らず不思議そうだった。
母親のジェーナだけは、娘の声に顔を上げて、声を上げなかったのが不思議なくらい驚愕していた。フェルと名乗っている男性が、レイオス公爵であろうことは知っていたが、まさかこんな場所に、貴いエクタ王子が来るとは思わなかったからだ。慌てたように、ダシルワの鉄の扉に付いた小さな窓を閉め、小声で娘達に指示をする。
「あなた達。お母様は少しフェルさん達と大事なお話があるから、先に行っていてちょうだい」
イリカとエシェルは、明らかに不満そうだった。テイルに似ている気もする、金髪の端正な青年を紹介してもらえないのが、納得行かないのだ。しかし、母親に背を強く押されて、少女達は渋々と牢を後にした。
子供達が去るのをしっかりと確認してから、すぐにジェーナは汚い廊下の床に膝をつき、頭を垂れた。
「王子様と公爵様に拝謁できる光栄を、深く感謝いたします」
ここに至ってもまだ身分がばれていないと思っていたテイルが、己の読みの甘さに気づいて慌てて彼女の腕を取る。
「ジェーナ様、そんなことをなさらないで下さい。な、エクタ? っていうか、何で身分がばれたかなあ。あ、ジェーナ様は、ダシルワ氏の、元の奥様だ」
何が何だか分からなかったエクタも、これまでの会話でおおよその事情は察した。自分も膝をつき、顔を上げるのも畏れ多いといった風情のジェーナの態度を和らげようと、話しかけようとする。
だが、エクタが口を開く前に、ジェーナが低く、牢の内側には聞き取れないほどの声で、思い詰めたように喋りはじめた。
「ここにおりますのは、公爵様の仰います通り、私の元の夫でございます。私は彼がしたことを、全てある方に教えて頂きました。これだけの罪を重ねれば死罪は免れないと、そう存じております。ですが、彼の罪は元の妻でもありました私の責任でもございます。どうか、王子様の御厚情を賜り、死罪だけは免除頂き、彼に余る罪を私に贖わせて下さいませ」
エクタは、初めて会ったジェーナの潔さを、心地よく受け止めた。だが、王子としての立場で答える。
「ジェーナ、と言ったね。残念だが、罰を決めるのは僕ではない。王、或いは王の指揮下にある裁判官が、今までに彼の為した事柄に従って、裁決を下す。彼の起こした事柄は、何れも重大だ」
厳しいようだったが、これが真実でもある。ジェーナもそれはよく分かっていた。身体に入っていた力が、すっと抜けていく。テイルも、エクタを止めようとはしなかった。
エクタは淡々と続けた。
「ダシルワがラルドーであることは、王家の人間は知っている。だが、ラルドーの件に関しては、イェルト国に裁定権があり、我が国には無いと考える。つまり、国内の罪でのみ彼は裁かれる。詐欺を行った時の償いは当時の裁判で一応の決着を見ており、また誘拐の罪も裁かれ、鞭打ちの刑は受けている。幾度かの罪を犯しており、また今回刑の執行に背いたことは重く見られるだろうが、こうして元の妻が酌量を求めた点なども配慮するよう、進言しよう」
その言葉は、ジェーナの心に小さな希望の光を灯したようだった。血の気が失せていた顔に、ぱっと赤みが差す。感謝の眼差しで、ジェーナはエクタを見上げた。
エクタの穏やかながらも良く通る声は、牢の中にいるダシルワの耳にも届いていた。エクタもそのことは良く知っている。
「ダシルワに話がある。少しばかり席を外して頂けないだろうか」
穏やかに、エクタはジェーナに頼んだ。
「はい。……出過ぎた真似を致しました御無礼を、お許し下さいませ」
先程とはまた別の緊張に襲われたらしいジェーナは、慇懃に礼をし、エクタの希望に応えるべく、先程娘達が去った後を追った。
カシャン、と牢全体を隔離する大きな鉄の扉が閉まる音を聞いてから、エクタはテイルの顔をちらりと見た。テイルは肩を竦め、「お前のしたいようにするといいさ」という意志を伝える。
小さく息を吐いてから、エクタはダシルワの牢についた小窓を開けた。
「久しぶりだね。五年……いや、六年になるのかな」
牢の中のダシルワは、エクタが覚えている姿と大分違っていた。厚い脂肪のついた身体に、色を変えた髪、蓄えた髭。
ダシルワはエクタの顔を見ようとはせず、両手の間にある温石の小袋をぎゅっと握りしめた。構わず、エクタは話しかける。
「僕はあの頃十六歳だった。妹を誘拐されたあの時、僕は逆上していた」
答えはない。ダシルワが聞いているのかも分からなかった。それでも、エクタは続ける。
「あの時、僕が言ったことを取り消すつもりはない。だが、僕が君に会いに行ったのは間違いだった。僕は君を憎んだ。君は僕を憎んだ。お互いに許せない一線を越えたことは事実だ。しかし、それで何が得られただろう」
毛布にくるまったまま反応のないダシルワをじっと見つめてから、エクタは小さく吐息した。
「後は、ジェーナ殿に言った通りだ。僕はもう、君を憎んではいない」
これが、エクタの出した結論だった。
言い終えると同時に、エクタはダシルワの顔も見ずに小窓を静かに閉めた。先程ちらりと見えた頬に残っていたのが、涙の跡であるかもしれないことは、忘れることにする。
「僕の用事は終わったよ。テイル、行こう」
静かにエクタはテイルに微笑みかけた。テイルが半分呆れ、半分驚いたというように、両眉を高く上げる。
「はいはい。俺には言えないね、今の台詞は」
「僕だって、彼以外には言わないよ。多分ね」
軽くテイルの肩を叩いて、エクタは先に牢を後にした。
「んー、俺の言いたいことと、ちょっとずれてる気がする」
小さく一人ごちたテイルは、一度ちらりとダシルワの牢を見やる。
「まあ、いいか」
今度は先程より大きな声で言って、テイルはすぐにエクタの後を追った。 |
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