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 イェルト国。フェノルト兼ラグドア領任命書発行の期限が迫っていた。
「ラグドア領主は、僕が役に立たないという噂をばらまき始めたようだよ」
 側近から耳打ちを受けたルイシェは、隣を見て苦笑いを浮かべた。リシアは心配そうに、蒼く澄んだ目を曇らせる。
「そんな……確かに、前王と比べたら遅いかもしれないけれど……」
「まあね。でも、幸いなことにラグドア領主は、僕の政策に反対しているといっても、地方の一貴族だ。政策を転換させるというのも、要は農民の税率を上げろといったものだと思う。心配するほどのことじゃないよ」
 しかし、リシアの表情は晴れない。
「そういうのが馬鹿にならないって、父様はよく言ってたわ。地方では絶対の権力を持つ領主を決して軽視してはならないって。中央から離れた場所で連絡を取り合って、地方の領主同士が手を組み合って国を滅ぼした例も、歴史上少なくないでしょう?」
 結婚して以来、ルイシェはリシアが想像以上に聡明であることに気が付いていた。最初は愛しくて守りたいだけだった彼女が、このように自分の力になってくれることは、心強い一方で不安もあった。聡明すぎる女性は、男尊女卑の気風がまだ強いイェルトの社会では疎まれる傾向がある。部屋の中にいるのは信頼できる側近だが、人の出入りが自分の代になって自由になりつつある王宮では、誰がどこで聞き耳を立てているとも限らない。
 だから、心配をかけたくないという思いと共に、無理に微笑みを浮かべてこう言ってしまう。
「分かっているよ。地方の領主を軽視するつもりはない。けど、こちらの手落ちを引き替えに、向こうが要求を出してきたとしても聞くつもりはない」
 ルイシェがどうとでも取れる答えを返すと、リシアの表情は益々曇った。彼女には、ルイシェが何故こういう答えを返すのか分からなかったのだ。まるで聞き流されているようで、信頼されていないのかとさえ思う。
「それに、今、エルス国ではセルクが手を尽くしてくれている筈だ。リシア、君も信じてくれなければ」
 追い打ちをかけるように、ルイシェが力強くリシアに語りかける。まるでリシアは自分がセルクを信じていない、と言われたような気になって、情けなくなってきた。
「ええ、勿論よ……」
 笑顔を返そうと思うが、上手くいかない。きっと、ルイシェがこういう態度を取るのには何か訳があるのだろうと思いながらも、もしそうではなかったら、と一方で考えると、胸が痛くなってくる。
 結婚して一年。会いたくてたまらなかったルイシェは、ずっと側にいる。
 それまで思っていたよりも、ルイシェはずっと強い男性だった。リシアを助けてくれることはあっても、リシアが助けてあげられるような場面は殆どない。勿論、リシアを無視するようなことはない。愛してくれていることも間違いない。
 でも、今のようなやりとりの中に、仕事の上でのパートナーとしてはまだ認められていないことを感じてしまう。
 リシアがそんなことを考えている時、部屋の扉がノックの音と共に開き、一人の侍従がルイシェに軍法会議の時間が迫っていることを告げた。
「もうそんな時間か。リシア、行ってくるよ。少し顔色が優れないようだね。仕事はもう大丈夫だから、部屋で休むといいよ」
 うっとりするような優しい笑顔で、ルイシェはリシアを気遣う。見ていた侍従達が思わず口元を緩める程である。リシアも慌てて笑顔を返し、夫の頬に顔を寄せてキスをした。
「ええ、そうするわ、ありがとう。会議、頑張ってね」
 ルイシェ達が立ち去った後、リシアは一人で執務室に佇んだ。
 こういうささやかな不満は、ルイシェにぶつけたくない。これ以上ないくらい愛してくれて、大切にしてくれる彼に、我が儘を言っている気になってしまうからだ。同じ理由で、義母であるライラにも告げられない。
 だからといって、現在のリシア付きの侍女ハルマにも言うことも考えられなかった。信頼していない訳ではないのだが、ハルマはどこまでもリシアを主人として崇めている。ルイシェと仲のいい様子をいつも誇らしげに、羨ましそうに見ている彼女にこんなことを相談しても、驚かれるのが関の山だろう。
 こういう時、頭に浮かぶのはリーザの姿だった。
 リーザがどんなに自分にとって大切な人だったのか、リシアは痛感する。侍女という枠を遙かに越えて、リーザは姉であり、母であり、教師だった。
 机の上をぼんやりと眺める。幾つかの文書がまだ広げられていた。こちらに来てから、下手に片づけをすると怒られてしまうことが多い。侍女の仕事を王妃がするものではない、という訳だ。
 リーザだったら、そんなことは言わないだろう。「一緒に片づけてしまいましょう」と、リシアにも促すのが常だった。懐かしく思い出しながら、手を伸ばして開いたままの本を一冊だけ閉じる。
 リシアは悩みを打ち明けた時のリーザを想像することで我慢することにした。
 リーザなら、きっとこう言う。
『姫様、焦りすぎですわ。まだ、たった一年じゃありませんの。必要以上にお仕事に関わらせないのは、ルイシェ様がリシア様の為を思ってなさっていること。出過ぎる女は、杭を打たれるものですから。ルイシェ様はそうでなくとも、他の殿方全てがそうでないとお思いになっては危険ですもの』
 まるで本当のリーザが言ったかのようなこの助言が、リシアの心を慰めてくれた。今までも何度か誰かに相談したくなってきたときは、いつもリシアはリーザが何というかを想像して安らぎを得てきた。
 でも、とリシアは思う。
 リーザが本当に側にいてくれたのなら、どんなにいいだろうと。想像するのと、実際に喋るのは全然違う。内心のささやかな不満を口に出せずにいる状態は、我慢できないことではない。だが、話さずにいると、気持ちは大きく膨らんできてしまう。発散する相手がいないというのは、辛いことだった。
 ライラや侍女のハルマに、こういうことを打ち明けられる関係になろう、と思ってはいる。だが、今はまだ、そういうことを話せる段階には来ていない。
 ルイシェにはたしなめられたが、セルクがリーザと付き合えばいい、という思いが強かったのも、その為かもしれなった。リーザは現在別の男性と付き合っていると本人からの手紙にあったにも関わらず、今もその考えは消え去ってはいない。
 再びエルス国にセルクが行ったことに、期待してしまう。リーザを一緒に連れてきてくれるのではないかと。
 しかし、リシアはそこで深い、深い溜息をついた。
 自分の我が儘に、嫌気が差したのだ。リーザの為だけではなく、自分がリーザと一緒にいたいという理由で、こういう風に考えている。
 ルイシェは愛してくれるし、周囲の人達も気を優しく受け入れてくれているのに。
 いつもならばここで考え直し、前向きに物を見ようとするリシアだったが、何故かそうできない。リシアは深く項垂れた。

 軍法会議は、妙な雰囲気が漂っていた。
 いつもなら王であるルイシェが席につく時は、咳一つ、衣擦れ一つ聞こえないのに、妙に落ち着かない空気である。ラグドア領主がばらまいた噂が、ここにも広まっているということなのだろう。
 内心ではうんざりしていたが、ルイシェは表情一つ変えずに、玉座に着いた。戦争も内乱も無くなったというのに、イェルトの人間は常に争いの種を求めているらしい。
 ルイシェは会議に揃った顔の上を、すっと刷毛で撫でるように見回した。雑音が、波が引くように止まる。
 ある者には冷ややかに、ある者には威厳を持っているように、ルイシェの表情は受け止められた。
「始めてほしい」
 ルイシェが簡単に命を下すと、軍の高官が頷いて今日の議題について話し始めた。だが、席についている人々の視線は、ルイシェにちらちらと寄せられている。
 噂だけではなく、何かがあるな、とルイシェは直感した。
 考えてみれば、ラグドア領主が噂を流したにしても、広まる速度が早すぎる。ちらちらとルイシェを見ている人物の中には、日頃噂話には疎い者も含まれている。
 情報源が近いのだ、とルイシェは気付いた。ラグドア領主が首都イェルティに来ている可能性は否定できない。
 しかし、そう考えると不審な点も出てくる。領主が任命書を待たずに王都にやってくるなどとは、普通有り得ないのだ。多少発行が遅れているとはいえ、その日数はまだ僅か。領主のような旅慣れない人物がラグドアからこちらに来るまでの日数を考えれば、まるで任命書が来ないことを予測していたような行動ということにもなる。
 そこで、ルイシェはハッと気付いた。
 ラグドア領主は、かつてルイシェの弟ライクを次期国王にと強く推していた人物の一人である。バルファン教との関係こそ薄かったようだが、去年宰相にまで昇り詰めたラルドー……つまりダシルワとは懇意だった筈だ。
 ダシルワは王都から逃げる時に、もしかしたら一時ラグドア領主の許に身を寄せたかもしれない。そうなれば、印璽のことも知っていてもおかしくはないということになる。そして、大領主であるラグドア領主は、希望さえすればこの会議に参加する権利があり、会議終了後にこの場でルイシェへ任命状の発行について尋ねることも……。
 ルイシェはそこで目を閉じた。
 これらは皆、想像でしかない。それに、もしそうなったとしても、なるようにしかならない。ルイシェにとっては不利になるだろうが、これ一つで国が崩壊するという訳でもないのだ。
 気持ちを切り替えて、目を開く。余計な物は見ないようにして、議題に集中する。
 その時である。
 ルイシェの従者が、慌てた様子で入ってきた。議場がざわめく。従者はルイシェに差し迫った表情で耳打ちした。
「ラグドア領主が、会議に出席したいと行っております」
 今、考えた通りの展開が起ころうとしているのだ。ルイシェは舌打ちを辛うじてこらえ、無表情を保った。
「入るよう伝えてくれ」
 従者が入り口を大きく開くと、ラグドア領主は待ち構えていたかのように議場に入ってきた。嘲りを含んだ仕種で、ルイシェに一礼する。
「遅れて申し訳ございません。今回の議題にはいささか興味がありましたもので、遠路はるばる駆けつけて参りました」
 ラグドア領主は、ダシルワと気が合っただけあって、都会風の洗練された男性である。冷たさを感じさせるかぎ鼻の、細身の男性だ。年には抗えず頭こそ白髪になっているが、それを長く伸ばしてぴったりと頭に撫で付けている様は、初老の男性の魅力を見せつけているようでもある。
 彼が述べた口上が、いい加減なものであることであることは、その場にいる誰もが承知していた。今日の議題は主に軍においての傭兵の扱いについてで、基本的に今までと変わらない路線を歩むことで議会は一致している。細かい部分の取り決めだけを行うこの会議に、領主である彼が関係するとは思えなかったし、増しては興味を持つことはもっと考えられなかった。
 しかし、誰もそのことは表情には出さない。ルイシェも無表情のまま頷き、ラグドア領主が席に着くのを待った。
 議場は、益々落ち着かない雰囲気になった。ルイシェとラグドア領主の間を、目線が行ったり来たりする。面白がっている者。孫と祖父といった年齢差でもおかしくない二人は、視線を交わらせることもなく、何事も無いかのように議会に参加している。
 何も知らない進行役が不審に思うほど、滞りなく会議は進んでいった。
「……それでは、本日の軍法会議をこれにて終了致したいと思います」
 締めの言葉を進行役が口にする。同時に、それまで場に満ちていた緊張感が一瞬弛み、議場がざわつく。
 ラグドア領主は、それを待っていたのかもしれなかった。人の注目を集めるかのように、大きな咳払いを浮かべる。人々が再び静まると、彼は不自然なほど朗らかな笑みを浮かべた。場の中心であることを、確実に印象づける行動。
「本日の会議は有意義なものでしたな。たまには大事な会議に出席するのもいい」
 来たな、とルイシェは心の中で呟いた。
「時に、この度フェノルト領主が亡くなった旨は、皆様ご存知のことでしょうな。不肖私目が兼任をお願いする旨、文書にしたためましたが、数日経つ今、まだ任命書が届いておらんのです」
 ラグドア領主はそこで効果を確かめるように、辺りをぐるりと見回す。王の不手際を有り体に指摘するような態度は、不敬に当たる。周囲の人々の身体が凍り付く中、ラグドア領主は愛想の良い笑みを浮かべた。
「もちろん、王が即位されて僅か一年。その間領主変更の機会はござらんかったから、遅れるのも無理はござらん」
 取りなすような言葉に、人々がほっと力を抜く。だが、ルイシェは反対に身体を強張らせた。
「たまたまこの会議の為にイェルティに来たのも不思議ですな。王、御威光を示される為にも、是非、任命書をこの場で私目に」
 ルイシェの予測通り、ラグドア領主は、そう言い放った。柔らかな声音の中に、できるものならそうしてみろという強い挑戦が含まれている。辺りは、思いがけない展開に完全に静まりかえった。
 誰もがルイシェの顔を見つめている。この場で任命書がまだ発行できないことを告げれば、ラグドア領主の思う通り、新王に対する評価が下がるのは間違いなかった。
 だが、用意できないものをできると言う訳にもいかない。ルイシェは覚悟を決めて、口を開こうとした。
 しかし、その口から声が漏れる前に、静かに扉が開かれた。ルイシェはそちらを見て、安堵の念が押し寄せるのを感じた。
 燃えるような赤い髪をしたセルクが、一通の書を携えていたのだ。旅装を解いてはいないことからも、急いでこちらに来たのが分かる。
「ラグドア領主がこちらにおいでとのことでしたので、取り急ぎ参りました。任命書の件、ルイシェ様も気になされていましたゆえ」
 ラグドア領主からすれば、小憎らしいほどの落ち着きぶりに見えたであろう。セルクは真っ直ぐに王の許へ行き、任命書を手渡した。任命書には、朱で印がはっきりと押されている。不備も一切ない。ルイシェはセルクに向かって、万感の思いを込めて頷いてみせた。それから、ラグドア領主に向き直る。
「ご覧の通り、用意はできている。領主任命については初めての手続き故、遅れてしまったことを大変遺憾に思っている。本来、使者にて送らせるものだが、そちらの御要望もある。この場で受け渡しということで宜しいか?」
 形勢は完全に逆転していた。
 王が任命書を準備していた以上、ラグドア領主のしたことは、無礼にしかならない。自分から任命書を取りに来ること自体が王を軽んじている証拠になるし、王に取りなされたとはいえ、先程の発言もある。場の空気も今や、ルイシェ王のものだった。面白がっていた人々も、ルイシェを甘く見るとこういうことになる、という実例を目の当たりにしている。
 ラグドア領主の顔色は既に蒼白だった。半分よろけるようにしながら、ルイシェの前に歩み寄り、跪く。
「は……」
 口から出たのは、その吐息のような一言だけだった。ぶるぶる震える手で任命書を受け取り、目を皿のようにして眺めるラグドア領主の様は、誰の目からしても情けないものに映った。
「遺漏はございませんか?」
 ルイシェの隣に控えていたセルクが、極めて事務的にラグドア領主に問いかける。ラグドア領主は、何も言わずに頭を下げ、多少ぞんざいに任命書を丸めて懐にしまい込んだ。
 それを見届けてから、ルイシェは軽く頷いてみせ、おもむろに椅子から立ち上がった。
「では、私は退出するとしよう。皆、御苦労だった」
 ラグドア領主を咎めるつもりがないらしい若き王の態度に、人々は安堵の空気を漏らした。
 その中を、ルイシェとセルクは何事も無かったかのように通りすぎ、議場を後にした。

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