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 議場を出たルイシェとセルクは、人の目が届かぬところまでくると、二人で大きく息を吐いた。ルイシェの目は興奮できらきらと輝いている。セルクも疲れ切っていたが、頬を紅潮させていた。
「危なかった……セルク、助かったよ。お前がいなかったら、王の権威が多少なりとも失墜するところだった」
「いえ、間に合って何よりです。つい先程、王城に着いたばかりでしたので」
 二人は顔を見合わせ、思わずにやりと笑った。

 時間は少し遡る。
 ルイシェが議場に向かい、リシアが一人途方に暮れている時、セルクは王の執務室へと辿り着いていた。
 それまで俯いていたリシアは、息せき切って入ってきたセルクを見て、ぱっと顔を輝かせた。
「セルク! それじゃあ、取り返したの?」
「はい。無事、ここに。それよりも、門番に嫌なことを聞きました。ラグドア領主が現在行われている会議に出席の為、来城しているとのこと。リシア様、任命書に印を押して頂けませんか? 私がすぐに持って参ります」
 事態が極めて切迫していることを察知したリシアは、慌てて机の引き出しを開けた。ルイシェがいつでも発行できるように、一番上に任命書を置いてあることは、有能な片腕である彼女は勿論知っている。
「印璽は、これです。リシア様がいらして良かった。私が押しても良いのでしょうが、やはり任命権のある方に押して頂いた方が、気分的にも正式な文書という気がいたしますから」
 小さな印璽を渡しながら言うセルクの言葉に、先程まで重苦しかったリシアの心が嘘のように晴れていた。自分でも役に立てるのだと思わせてくれるその一言が、今のリシアにとっては何よりも嬉しい。
 印璽は、思ったよりも余程小さい。掌にすっぽり収まってしまう、こんな小さなものの為に右往左往させられていたのかと思うと、少し腹立たしい気もする。リシアは朱肉を万遍なく印璽に付けて、文書に文句のつけようがないほどくっきりとした印を残した。
「さあ、これでいいわ。間に合えばいいんだけれど」
 吸い取り紙で余分な朱肉を除き、リシアは任命書をセルクに手渡した。
「有り難うございます」
 そしてセルクは任命書を片手に会議場へ向かい、瀬戸際に立っていた主を救ったのである。

 リシアは部屋に戻ることなく、執務室で待っていた。セルクから事情を聞いて、自失に戻る気分など全く失せたのだろう。
 ルイシェが戻ると、待ちきれない様子でその腕の中に飛び込む。ルイシェはその肩を両腕でしっかりと抱き締めた。
「待っていてくれたのかい? 君とセルクのお陰で、命拾いをしたよ。任命書が無い、と言おうと思ったところにセルクが飛び込んできてくれたんだ」
「じゃあ、大丈夫だったのね? 良かった……」
 やっと安心したという様子で、リシアがルイシェの胸に額を擦りつける。余りにも甘いその情景に、セルクは思わず目を逸らしてしまった。
「君にまで心配をかけて済まなかった。頼りないね、僕は」
 苦笑混じりにルイシェが言うと、リシアは生真面目な顔をして首を横に振った。
「そんなことないわ。あなたは王として頑張りすぎてるほど頑張っている。一人でできることには限りがあるもの。私も力になりたいの」
 リシアの真剣な声に、横を向いていたセルクは違和感を覚えた。いつも言っていることと内容は変わりないのだが、どことなく切羽詰まったような響きがあるように思ったのだ。
 殆ど不眠でエルス国から戻ってきたセルクにも分かるくらいの声である。ルイシェも訝しげにリシアの顔を覗き込んだ。
「君は、これ以上ないくらい僕の力になってくれているよ。どうしたの?」
 どこまでも優しいルイシェの言葉に、セルクもほっとした。しかし、リシアはそうではなかったらしい。見るからに悄然と項垂れてしまった。蒼い目が物憂げに揺れる。
「リシア?」
 不安そうにルイシェがリシアの身体をもう一度引き寄せようとする。リシアはその手を無意識に避けるような仕種を見せた。
 こんな仕種を見るのは、セルクも勿論のこと、ルイシェも初めてのことだった。
 リシアも自然に身体が動いてしまったものの、自分のしたことにすぐに気付いた。
「ごめんなさい……」
 低く張りのない声で、リシアはルイシェに謝る。
 何かがほんの僅かずれてしまっているのに、ルイシェとリシアはお互いに気付いていた。お互いが思いやる上の擦れ違いが原因だということも分かっている。だから、喧嘩するにも喧嘩することができず、こうしてぎこちない間を過ごすしかないのだということも。
 表面化したのは初めてだった。でも、いつ起きてもおかしくないくらいのことだったのだ。
 その場にいたのが二人だったのならば、小さな事柄を誰にも話すことなく、お互いに抱え込みながら忘れた振りをし、余計傷付いたかもしれない。だが、その場にはセルクがいた。
 セルクとて、このまま二人の仲がぎくしゃくしたまま部屋に帰すようなことは避けたかった。場の雰囲気を何とか変えようと、思わず似合わぬ妙な明るさで声を張り上げる。
「そういえば、エルス国では皆様に色々大変良くして頂きました。印璽のことに関してはリシア様が連絡を取って下さったセリス様をはじめ、テイル様、リーザ殿にはお世話になりっぱなしでした。こんなにこれが早く取り返せたのも、あの方々のお陰なんです」
 セルクが望んだとおり、場の空気は一気に変わった。だが、狙い通りの変わり方とはいかなかったようだった。
 明らかに、空気は凍り付いていた。今、ルイシェとリシアの肩を叩けば音を立てて崩れてしまいそうなほど、二人も固まっている。
 訳がわからずにいるセルクに、しばらくして少し平常心を取り戻したルイシェが尋ねる。
「リーザと会ったのか?」
 明らかに困惑を顔にして、ルイシェが尋ねる。リシアも怯えたような顔をしている。
 二人の余りに劇的な反応に、セルクはやっと思い当たった。リーザがティドと付き合っているといった話を、リシアが手紙で知って、ルイシェも聞いたとでもいうところなのだろう。
 そのことを知った時、激しく狼狽し、自失までして失態をセリスに見せたセルクだというのに、その後リーザと気持ちが通じ合った喜びで、すっかりそんなことを忘れてしまっていた。自分に呆れて思わず微笑みそうになるのを引き締め、事務的に答える。
「はい。印璽を取り返した後、ダシルワは牢に連れていかれました。ルイシェ様が当初からお望みだった通り、ダシルワがラルドーであることはエルス国では知られていないことになっております」
「そ、そうか」
 セルクの、笑いを隠す為に固めた顔は、傷付いているのを隠すような表情に見えたようだった。ルイシェとリシアがちらりと目を合わせ、それから自分達の問題を完全に忘れたようににこやかに優しく話し始める。
「印璽が戻って本当に良かったわ。セリスやテイル兄様にもあとでお礼を言わなくちゃ」
「そうだね。ラグドア領主もこれで嘴を挟みにくくなっただろうし」
「そうそう! 何よりだわ」
 自分を思ってここまでしてくれているのは分かっている。セルクは内心、可笑しいやら有り難いやらで、とても悪いことをしているような気分になった。セルクは二人に本当のことを打ち明けることにする。
「その……大丈夫です」
 だが、この切り出し方が悪かった。若い夫婦は、どうしよう、といわんばかりに一層慌てて、別の話題に振ろうとする。
「セルク、疲れているんじゃないか? こんなに早く戻ったってことは、ここ数日まともに寝てないだろう」
「それはいけないわ。重要なお務めも果たしてくれたんだし、ゆっくり休んでね」
 セルクはとうとう、決まり悪そうに、そっと微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、このことに関してきちんと報告をさせて頂きたいのです」
 そこに至って、ルイシェとリシアも何かがおかしいと気づきはじめたようだった。
「このことというのは……印璽のこととは別という意味なのか?」
「はい」
「それって、どういうことなの?」
 セルクは頬に血が上ってくるのを感じた。主君に伝えようと思ったものの、いい年をした男なのに恥ずかしい、という気持ちが捨てきれない。それで益々赤くなる。
「リーザ殿のことなのですが。一緒にいられる方向を模索することになりました」
 一瞬、静けさが執務室を覆う。王と王妃の思考が、どういうことかを判断する為に止まってしまった為だろう。
 そして。
「きゃあああ! セルク、あなたって素敵な人だわっ!」
 喜びの余りいつもより一オクターブ声の高くなったリシアが、そう言いながら飛び跳ね始めた。王妃の威厳の為に低くしている声も、おしとやかな振る舞いも、完全に吹き飛んでしまったらしい。
 それを横目で見ながら、ルイシェの方は益々心配そうな顔をする。
「セルク、余計なことかもしれないけれど……リーザには、その、お付き合いしている相手がいたんじゃ……?」
「ルイシェ、いいじゃない。ねえ、セルク? リーザと気持ちが通じ合ったってことなんでしょ?」
 蒼い目をここしばらく見たことがないほどキラキラさせているリシアには申し訳なかったが、セルクはルイシェの方に向き直った。
「はい。リーザ殿とは気持ちが通じ合ったのですが、リーザ殿とお付き合いしていた男性……ティドという方が、このままでは我々の仲を認めることはできないと言っておりまして」
 セルクの言葉に、飛び跳ねていたリシアも飛ぶのをやめ、急に心配そうな顔つきになる。セルクは続けた。
「ルイシェ様……大変急な申し出なのですが、できれば半月ほど休暇を頂けないでしょうか。エルス国に再び行って、筋を通して参りたいのですが」
 決闘を申し込まれていることは言えなかった。必要以上に心配をかけてしまうことにもなる。
 ルイシェは、セルクの申し出にほっとしたような笑顔を浮かべた。
「そうか。実は、お前に休暇を与えた方がいいと他の側近からも勧められていたところなんだ。僕がお前に頼りすぎるのは良くない、ということなんだろう。実際頼ってしまっているからね。切り出しにくかったけれど、お前が言ってくれたなら安心して言える。いい機会だから、休んでほしい」
 あっさりと許可が下りて、セルクは拍子抜けがする思いをしたが、ルイシェの言う内容も良く理解できた。
 ルイシェは優秀な王であるが、大きな欠点を持っている。第一王子である兄が亡くなって次期王になると決まったのがたった六年前であること。また、第三王子ライクを次期王にと担ぐ一派との間のいざこざがやっと無くなったのが昨年、王になる直前であったこと。
 本来ならば彼の為に命を投げ打ってもおかしくない周囲の人材との間に、確固たる絆が育ちきっていないのだ。それには、乳兄弟でもある自分という存在が、ルイシェに近すぎることも影響している。夢中で王の仕事をこなしてきたこの一年間は周囲も甘んじて二人関係を受け止めてきたが、これからはそうはいかないということだろう。
「……ありがとうございます」
 セルクは一拍置いてから、ルイシェに頭を下げた。頭を上げたとき、ふとルイシェの目に淋しそうな光が宿るのを見たような気がしたセルクは、無理にその視線を絡め取って叱咤するような表情を見せた。
「それでは、私は今日一日休み、明日すぐにエルス国に発ちます」
 予定を淡々と告げたセルクは、ルイシェにもう一つ伝えなければいけない重要なことがあることを思い出した。エクタからの伝言だ。
「ルイシェ様、あと、エクタ王子より大切な伝言を預かっております」
 明らかに声色を変えたセルクの顔を、ルイシェとリシアが、ハッとしたように見つめる。
「私は外した方がいいかしら?」
 リシアが気遣って尋ねる。セルクは一瞬迷った。いつもだったら衝撃的な内容ゆえに、「お願い致します」と頼むところだが、先程リシアが見せたルイシェへの態度には抜き差しならないものを感じ取ったからだ。
 自分のいない間、ルイシェが信じ切れる人材との関係を築くまでの間、ルイシェが一番頼りにしなければならないのはリシアだ。
 一瞬にしてそう考えたセルクは、首を横に振っていた。
「いえ、こちらにいて下さい。リシア様にも知っておいて頂きたいと私は考えます」
 そして、エクタからの伝言の要点だけを話す。
 エクタがミスク国からの刺客に襲われたこと。
 エクタには怪我もなかったものの、次にミスク国が狙っているのは様々な要素からエルス国であると推測できること。
 急激に重くなる空気の中、セルクはこう締めくくった。
「刺客に襲われた件は、いたずらに混乱を招くことがあってはならないと、リーザ殿にも知らせていないという話です。混乱が向こうの狙いでしょうからね。ですが、将来ミスクが動いた時に対処するようでは遅いと、そうエクタ様はお考えのようです」
 ルイシェは親友が危機にあったことを聞いて蒼白にはなっていたが、王の顔を取り戻していた。
「良く伝えてくれた。こちらも極秘事項として話を進めるようにしておく。協力は惜しまない、と言えるような体制にするよう、僕も力をつけておかなければな」
 そう言いながら、側で全身を震わせているリシアを気遣わしげに見つめる。
 リシアは、気丈にも一度唇を強く噛み、それからセルクに真っ直ぐな蒼い目を向けた。
「私にも教えてくれてありがとう。私も精一杯ルイシェを支えるわ。あなたは、今はリーザのことだけを考えてね」
 誠意の溢れた言葉に、セルクは頷いた。
 重い空気を振り払うかのように、リシアが笑顔を作る。
「リーザと一緒にイェルトに来ることになったら、先に連絡をちょうだいね。準備をしておくから」
 か弱いかと思えば、時折とてつもない強さを見せる。リシアはそんな女性なのだ。セルクは改めてそういう思いを強くした。
「ありがとうございます」
 セルクは心からの感謝をリシアに向けて、二人に頭を下げた。

 とんぼ返りの旅の前に、セルクは前王の館の中にある母親の部屋に立ち寄った。
「おや、帰っていたのかい?」
 母親のイルマが驚いたように立ち上がる。
「うん。いいよ、座ってて」
 自分も椅子に座り、母親の前でしか見せないような欠伸をする。馬上でしか睡眠を取らなかった三日間の旅の後だ。流石に疲れている。
「お前、ちゃんと休んだの? 随分疲れてるようじゃない」
 心配そうにイルマがセルクの顔を覗き込む。
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから、自分で体調管理くらいできるさ。それより、話があるんだ」
 唐突に尋ねてきた唐突な息子の切り出しに、イルマは眉をひそめた。
「なんだい、急に。お金が足りない……なんて言う訳じゃないだろうね」
「俺がそんなこと言うわけないだろ」
 突飛な母親の発想に、セルクは呆れて答える。
「じゃあ、何」
「あのさ、俺、結婚したいと思ってる人がいるんだ。母さんに話しておこうと思って」
 その言葉の効果たるや、大変なものだった。母親の顔が一瞬渋くなり、それから笑顔になり、更に困惑にまた顰められる様をセルクは吹き出すのを堪えて見つめた。
「それって……冗談かい?」
 やっとイルマの口から出てきたのは、そんな言葉だった。セルクはとうとう笑いを堪えきれなくなり、含み笑いを漏らした。
「どうやら、冗談じゃないみたいだよ。俺、ちょっと今からエルス国に行ってきて、彼女の周辺も納得させて、できれば一緒に帰ってくるから」
「ちょ……ちょっと、今からって……それにエルス国って?」
「とりあえず、心の準備だけして待っててくれないかな。母さんも多分気に入るよ、彼女のこと。じゃ、俺、今から少し寝てくるから」
 それだけ言うと、セルクはもう一度大欠伸をして立ち上がった。母親の呆然とした顔を後に、部屋を後にする。
 残されたイルマは目を丸くしたまま、口をぽかんと開けていた。
「結婚したいと思ってる人……?」
 口に出してみて、その意味がやっと脳髄に到達する。息子の立ち去った扉を見つめながら、イルマはやっと、決まり悪そうに、しかしとても幸せそうに微笑んだ。

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