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 印璽を取り戻し、ダシルワを捕らえてから一週間が過ぎていた。
 エルス国の空気は益々冬の匂いを濃くし、一度は積もるほど雪が降った。それほど多くはない量の雪ではあったが、それでも日陰の雪はまだ溶け残っている。
 リーザはエクタが拾ってきた猫、ディアシェを抱きながら、白い息をほうっとついて、空を眺めた。
 あれから、リーザは侍女頭の地位を退いた。エクタ付きの侍女になる、という名目である。元々侍女頭は数名いるので、その件については誰も反対したりはしなかった。というより、やっと王子付きの侍女になったのか、という感想が多いようである。
 だが、エクタは殆ど自分のことは自分でこなしてしまい、侍女を必要とする人間ではない。いつ辞めても大丈夫なように、しかし他人から余計な詮索をされないようにとリーザの立場を慮って、エクタが自分付きの侍女に任命したのが実情でもある。
 エクタの部屋は本人の手によっていつも片づけられており、拭き掃除までされている。リーザができる仕事は、殆どないといってもいいくらいだった。
 だからリーザはこうして窓から雪が残った外を見ながら、猫を抱いて溜息ともつかない息を吐いているのだった。それは丁度いいことなのかもしれない、とリーザは思う。今のリーザは、仕事が手に着かないという生まれて初めての体験に陥っていた。
 淡い色の空を見るともなしに見ながら考えるのは、セルクのことばかりだ。
 一緒にいた間、どんなに幸せだったかを考えるだけで、リーザは涙腺が緩みそうになってしまう。想いが通じたと感じたあの瞬間の、痺れるような甘い喜び。頬に感じたセルクの優しい唇。自分が口づけをした頬の、男性らしいざらりとした感触……。
 全て自分が思い通りに描いた夢のようで、いや、それ以上のもののようで、頭から離れることがない。
 心臓が不意にどきどきしはじめて、身体がおかしくなってしまったのではないかと思うことさえある。食欲も殆どなかった。
 これが恋ということなのだ、とリーザは初めて知った。
 密かに慕っていた時も、切ないと思っていた。だが、想いが通じてからの切なさは、昔の切なさが子供だましのようなものだったことばかりを知らされるような、強い感情だった。眠る前も、浅い眠りの中も、彼一色に染め上げられている。会いたくて、不意に泣きたくなることもある。
 リシアも、イェルトからエルス国に戻ってきた頃、やはりぼうっとしていたことがある。若い侍女が恋に落ち、同じような状態になっているのを見たこともある。その頃は「そんなものなのかしらね」と見ていたものだが、実際にこのような立場になると、よく皆こんな想いに耐えていたな、と思ってしまう程である。
 もう一度、白い息を空中に吐く。
 窓から望む中庭は、冬枯れの景色が広がっている。見るともなしに見ていたリーザの耳に、突然複数の悲鳴が届いたのはその時だった。
「きゃああああっ!」
 女性のものである。一体何事かと、猫を床に下ろして窓から身を乗り出す。すぐに城から中庭に、何人かの侍女が、帽子の先についた飾り布をひらひらさせながら走り出してくるのが見えた。良くないことでも起こったのかとリーザは身を固くした。
 だが、どうやらそうでないらしいことがすぐに分かった。侍女達は、満面の笑みを浮かべているようなのだ。悲鳴は悲鳴でも、黄色い悲鳴らしいのだ。
「な、何なの?」
 小さく呟いたリーザに答えるかのように、侍女達が城を通り抜けてきた一人の人物に、わっと群がる。その髪の色を見て、リーザの心臓がギクリと飛び上がった。
 赤い髪だ。
 そして、若い侍女達の様子を見れば。あれは。
 その考えが脳裏に達する前に、リーザは走り出していた。
 あれは、セルクだ。
 幾ら会いたかったとはいえ、予想よりも早すぎる到着に、リーザは嬉しさよりも不安がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
 何か印璽に問題があってエルス国に戻ってきたのではないだろうか。そうでなくとも、途中で引き返さざるを得ないような何かがあったのか。
 全速力で走るのは、久しぶりだった。高いヒールで引きつるふくらはぎや、次第に荒くなる呼吸を、自分のものでないように感じながら、リーザは頭の中で必死に計算した。
 あれからまだ一週間だ。夜を徹して、馬を乗り継いでイェルトに戻って、三日から四日。もし一度イェルトに帰ったのだとしたら、休む時間も殆どなく、とんぼ返りということになる。それほど急ぐ何事かが起こったに違いない。
 階段を駆け下り、驚く衛兵や軽蔑の色を浮かべる古参の侍女の視線を物ともせずに中庭に飛び出す。
 セルクは、黄色い声を上げる若い侍女達に囲まれ、動くに動けない様子だった。
 リーザは弾む息で、物も言えずに手近にいる侍女達の肩に手を置いた。
「あっ、リーザさん……」
 肩に手をかけられた二人が、まずい、というように身体を竦める。その声を聞いた他の侍女達も、瞬時に気まずそうな表情に変わり、一歩二歩と後ずさった。
「リーザ殿!」
 一人、ほっとしたような表情を浮かべたセルクだけが、肩で息をするリーザに近寄る。
 リーザは久々に全速力した後の切れ切れの息の中、セルクの顔を見上げた。
「セ、セルク、さん、何か、問題、があっ……げほっ、げほっ」
 無理に喋ろうとして派手に咳き込むリーザの背中を、若い侍女の一人が申し訳無さそうにさする。他の侍女達も神妙な顔をしているが、リーザの元気の良い咳き込みぶりに、笑いを堪えている者も少なくない。
 セルクはそこにいる誰よりも余程申し訳なさそうな顔をした。
「いえ、あれは無事、間に合いました。その……リーザ殿にお会いする為、急いで戻ってきたのですが、御心配をかけてしまったようで……」
 その言葉に、周囲の侍女達、そしてリーザの目が丸くなった。誰かが低く、ひゅう、と口笛を鳴らす。
「……は?」
 言われたことが俄かには信じられなくて、リーザは思わず問い返してしまった。
「ですから、休暇を頂いて、あなたに会いに参りました」
 リーザは徐々に落ち着くはずの呼吸が、一足飛びに止まってしまうのを感じた。事態をいち早く理解した周囲の侍女達がにやにやと笑いはじめる。
 それより遅く、やっとセルクの来訪の目的を理解したリーザの顔が、バッと赤くなる。
 若い侍女達は、自分達のアイドルが一人の女性に会いにきたということを気にする様子もなく、むしろ嬉しそうにじわじわと二人から離れはじめた。
「あのお、私達、これで失礼しますねえ」
「ごゆっくりぃ」
 そう言うなり、蜘蛛の子を散らすようにパアッと散る。気を利かせたように見えるが、彼女達が柱や窓の裏側からリーザ達の様子を覗き見ていることは間違いがなさそうだった。
 中庭には息を詰まらせて赤面したリーザと、セルクだけが残された。
「突然、迷惑でしたか?」
 困ったような表情を浮かべたままのセルクに問いかけられ、リーザはやっと止まっていた息をぷはあ、と大きく吐き出した。息を吐き出した筈なのに、顔はまだ赤い。
「まさか。それより、驚きました。だって、まだ一週間なのに」
 つまり、セルクは自分に会いにくる為に、目の下に隈を作りながら、強行軍をしてきたということになるのだ。そのことが理解できると同時に、リーザの心臓が誰かに掴まれたかのように、きゅうっと切ない痛みを訴えた。
 目の前で途方に暮れた顔をしているセルクは、確かに若い侍女達が騒いで困らせるのが無理もないほど可愛くて、愛しくて。
「あなたに……早く会いたかったので」
 他の誰にも聞こえないように低く呟いた声は、セルクが自分と同じ気持ちでいることを確信させてくれる。
「私も……」
 少しでも気持ちを伝えようと、同じくらい小さな声で答え、リーザはぎこちなく笑みを浮かべた。それから慌てて周囲を見回す。
 思った通り、柱から飛び出ていた幾つかの頭が、慌てて引っ込められる。リーザは溜息をついた。
「三十分ほど後に、城門の外でお会いしません? これから私も休暇の許可を取って参りますから」
 しかし、セルクは首を横に振った。
「いえ、仕事が終わる時間を教えて頂ければ。あなたの仕事の邪魔をしたくないので」
 いかにもセルクらしい言葉だったが、リーザは少し落ち込んだ。俯いたリーザを前に、セルクが苦笑いをする。
「……と言いながら、今、ここにいるのですが」
 今、落ち込んだ筈なのに、リーザはその一言だけでも舞い上がりそうに嬉しくなった。顔を上げると、セルクが少し眩しそうに目を細める。
「夜七時には上がります。どこかで待ち合わせをしません?」
「そうですね。知っている場所は少ないのですが、噴水の前はどうでしょう? あそこならば迷わずに行けます」
「分かりました。八時前には行けると思いますわ。どこかで夕食をご一緒しましょう」
「いいですね。それなら彼との約束を破ることにはならないでしょうし」
 そうは言っても、好きな人との初めてのデートの約束だ。他人から見れば事務的に話しているような素振りをしながらも、二人の頬は輝いていた。
「それでは、私はそれまで休んできます。勤務中にいきなり訪ねて申し訳ありませんでした」
 表情とは裏腹に、どこまでも堅苦しいセルクの言葉に、リーザは笑顔を向けた。
「はい。楽しみにしていますわ」

 それからの勤務時間をどうやって過ごしたのか、リーザは良く覚えていない。物凄く長く感じたことだけは事実で、時を告げる鐘が鳴るのが遅くて苛々したことだけははっきりしている。
 待望の七時の鐘が鳴ると、勤務表を管理する古参侍女の点呼を誰よりも早く受け、すぐに自室に戻った。
「何、着ていこう……」
 突然のことなので、服を準備する暇も無かったリーザは、小さなクロゼットを開けて、少ない服を見回しながら激しく悩んだ。気張り過ぎていてもおかしいし、かといって実家に帰るようなあっさりしすぎた格好でも色気がない。
 結局、友人の家に着ていく、若葉色のシンプルなドレスにすることにした。前にミッティーの家に行った時、栗毛に合っていると褒められたからだ。
 そのいつも上げている栗毛の髪も、遊び心を加えて、肩に幾筋かが綺麗に垂れるように調節した。
 最後に化粧がおかしくないかを念入りに点検する。仕事中の化粧のままでは可愛げがないので、眉を優しい形に書き直し、口紅も柔らかい色に変えた。
 そこまで身支度を整えたところで、時間切れになった。リーザは小さなバッグを抱えて、慌てて城を後にした。
 噴水広場は、夜になれば恋人達の場所だ。
 そのことに気づいたのは、噴水に着いてからだった。腕を絡ませた、或いは肩を組んだ恋人達の中で、セルクは多少居心地悪そうに、腕を組んで待っていた。
 リーザを見つけるなり、ぱっと腕を解いて笑顔になる。その側に、リーザは気恥ずかしいような気持ちになりながら駆け寄った。
「ごめんなさい、少し遅れました?」
「いえ、早く着いたものですから。まだ八時の鐘は鳴ってませんよ」
 セルクが言うなり、八時の鐘がタイミング良く鳴り始めた。二人は顔を見合わせて、思わず微笑んだ。
「……いつもと、雰囲気が違いますね」
 昼に会った時と同じように、セルクが眩しそうにリーザを見つめる。照れてリーザは俯いた。
「おかしく、ありませんか?」
「とんでもない! あ、いや……とても可愛い、と」
 意外な言葉に、リーザは思わずセルクの顔を見上げた。嬉しくて、胸がドキドキしている。「可愛い」という形容詞を男性に使ってもらったのは、子供の時以来だ。他の人に言われていたのなら、揶揄っているのかと躊躇するところなのだが、セルクの言葉はすんなりと胸に滑り込んでくる。
「ありがとう、ございます」
 噛み締めるように呟いたリーザの顔は、幸せが零れ落ちんばかりで、それを見ていたセルクの胸を激しく締め付けていた。
 二人は少しの間、照れて無言になった。それから顔を見合わせ、小さく笑い合う。
「行きましょうか」
 二人で歩くのがこんなに楽しいことだと、リーザもセルクも思っていなかった。リーザお薦めのレストランに辿り着くまでの間を二人は満喫した。
「今回の宿は、どちらに?」
「どうしようかとも思ったのですが、『金の麦亭』にまたお世話になってます。旅立つ前に色々用意して頂いたお礼もしたかったので」
「まあ。たった一週間でイェルトを往復したと聞いて、父と母が驚いたでしょう?」
「ええ、きっと呆れられたでしょうね」
 レストランに入ってからも、会話は止まらない。
「じゃあ、本当に凄いタイミングで印璽をルイシェ様へ渡せたのね?」
「少しでも遅かったら、と思うと冷や汗が出ます。ぎりぎりでした。その後、ダシルワ様は?」
「来週、裁きを受けることになっておりますわ。話によれば、娘さんたちが会いにくる度、涙ぐんだりしているとか……」
 食事が運ばれてきて、ようやく一旦会話は中断した。
 ジャガイモで包んだ白身魚を一口食べてから、リーザはセルクの顔をまじまじと見つめた。セルクがそれに気づき、うろたえる。
「な、何ですか?」
「セルクさん」
 リーザの顔は真剣だ。
「お友達やご家族にも、そう丁寧にお話してるの?」
「え?」
「そうじゃないなら、私にも普通に接して欲しいんです。リーザ『殿』、なんていうのも無しで」
 言われて、セルクはそれまでずっと敬語で通していたことに気づいた。リーザの方は、時折砕けた口調になっている。確かにこれでは、心の距離を置いているように取られても仕方がない。
 セルクの耳が赤くなった。
「ああ……でも、俺の普段の言葉はあまり上品ではありませんよ?」
 何気なく言ったのに、目の前のリーザは、急に笑顔になった。
「セルクさん、普段は本当は『俺』って言うのね。何だか嬉しい」
 こんな些細なことでリーザの優しい笑顔が見られるのなら、とセルクは心を決める。
「じゃあ、徐々に」
「はい」
 二人の間に流れる空気は、恋の緊張を含みながらも、とても柔らかい。
 居心地の良さを改めて感じつつ、セルクはティドの決闘のことを考えていた。
 ティドに対して、一種の申し訳なさは感じている。リーザを諦められない気持ちも理解できる。それでもリーザが自分と一緒にいることを望んでいる以上、きちんとした形で決着を付けなくてはならない。
 明日は、ティドのところに顔を出さなければならない。セルクは心に決め、目の前にいるリーザの笑顔に飽かず見入った。

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