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 八百屋の軒先には、野菜が溢れんばかりに並べられていた。濃き浅きを取り混ぜた緑の野菜の中に、赤や黄色、紫色が彩りよく配置されている。呼び込みの明るい声が場を生き生きとさせ、辺りの雰囲気を活気のあるものにしていた。
 その中、いつもなら誰よりも率先して声を張り上げている筈のティドは、店の奥で低く唸っていた。
「んー。んんんー」
 雇っている店員達は、もうその原因を突き止めている。下手に声をかけて怒られるような愚は犯さなかった。
「本当に来やがったかー。んー」
 滅多に寄せることのないティドの眉が、ぎゅっと寄せられている。
 ティドがセルクの来訪を知ったのは、昨日のことである。金の麦亭の、常連の一人が慌てて教えてくれたのだ。
「あの赤毛の旦那、また来てるぜ。リーザ会いたさに、イェルトを一週間で往復したらしい。ありゃ、本気だなあ」
 エルス国を……いや、ネ・エルス市を離れたことのないティドにとっては、それがどれくらい凄いことなのか良く分からない。ただ、リーザに対しての気持ちがどうやら本物らしいということは分かってきていた。
 そして、はっきり言われたからに他ならないのであるが、どうやらリーザもあの男に惚れているようだ。
「だからといって、引く訳にゃいかねえ」
 心を決めて、一つ頷く。
 リーザへの憧れは、ティドにとってはかなり強いものである。小さい頃、もっと小さかったリーザに何度叱られたことか。その頃は可愛い顔してる癖に生意気だ、としか思わなかった。だが、彼女が侍女になると聞いた時のちょっとした喪失感。侍女になってから、たまに帰ってくる彼女の、自分が思っていた以上の美しさ。
 実は、小さい頃からリーザのことが好きだったんじゃないだろうか、と気付いてからは、他の女性が目に入らなくなった。
 その彼女と結ばれないと思うとたまらない気持ちだが、どうやら動かせない事実のようだ。別の男に渡すのならば、誰もが納得する、きちんとした形でなくてはいけない。それがティドの考える男の矜持なのだ。
「……ふられるのは最初じゃねえしな」
 鼻をこすりあげて、決まり悪そうににやりと笑う。
 同じような繰り返しで、ティドは今まで三人の女性と別れを告げている。武器を持たない決闘で、身体の大きさを活かして今までは三戦三勝。相手が顔ばかりのにやけた男ばかりだったのもあるかもしれないが、一撃で相手を降参させてきた。
 勝っておきながら、女を祝福し、男に譲る。それはティドの考える男らしさの証明でもあるのだ。
「女は、見る目がねえからなあ。男は顔じゃねえんだ」
 大きな拳をぎゅっと握る。
 だけど、とも思う。
 あの武器屋は、今までティドと付き合ってきた女性をかっさらっていった男達とはひと味違うようだ。一度勘違いをして殴りかかった時、自慢の拳が一発も当たらなかった。手にできたタコは、相当仕事熱心な証拠でもある。武器を扱う仕事の為か、身体もティドよりは小さいが、良く引き締まっている。おまけに言えば、顔もちょっとだけティドより良いかもしれない。もしかしたら、色んな意味で負けるかもしれない。
 やっぱり、リーザのような何でも持っている女性から見てもそうだったということか。
「そんなの、不公平だよなあ」
 美人で才能のある女性は自分よりちょっと頭も顔も悪いくらいの男と付き合うべきなのだ。リーザも、本当はティドと結婚すべきなのだ。
 ティドはそう思って、子供のように頬を膨らませた。
「何、一人で百面相してんだ?」
 店先から聞き覚えのある声をかけられて、ティドはのろのろとそちらを向いた。
「バンスか……俺は今、考えんのに忙しいんだ」
 リーザの弟バンスが、荷車を置いて店内に入ってきたのだ。リーザと良く似た、角度のある眉が更に吊り上げられる。
「似合わねえなあ。姉貴とセルクさんのことか?」
「だったら何だってんでい」
 ティドは無意味に胸を張った。バンスがにやっと笑い、表情とは裏腹な真面目な声で告げる。
「いや、今、本人連れてきたから。姉貴じゃなくて、セルクさんの方な」
 ぎょっとしてティドは店先に目をやった。すぐに見間違いのない赤い頭を見つけ、その頭が自分に向かって丁寧に下げられるのも見る。
 少し疲れたような顔をしているが、それよりも気合いが入っている。ぱっと見て、ティドはそう思った。別の人間であれば、気力が充実している、とでも表現したであろうが、ティドにはそう見えたのだ。
「……何の用だ」
 ぶすっとした顔つきで、ティドはセルクに尋ねた。セルクは表情を変えずに答える。
「決闘のルール、それに日時の打ち合わせに参りました」
「なあにが、『参りました』だ。すかしやがって」
 ティドはセルクの前にのっそりと立った。セルクもそう身長は低くないが、巨漢のティドが相手では鼻先にやっと頭が届く程度だ。身体の厚みも全く及ばない。ティドにとって、いつもなら簡単に気圧せる相手だ。
 だが、セルクは下から真っ直ぐ目を見つめ返してきた。視線の強さに、却ってティドの方が目を泳がせる。こんなことは初めてだった。
 自分に憤りを感じつつ、ティドは泳ぐ目を無理にセルクに固定させた。
「いくら決闘っても、命に関わるような野蛮なことはしねえ。武器は無しだ。急所を狙うのもナシ。あとはどっちかが『参った』って言うまで。それでどうだ」
 セルクは何がおかしいのか、口元に微かに笑みを浮かべた。ティドは、気圧されているのを見透かされたような気がして、むっとした。
「いいでしょう」
 セルクの声は落ち着き払っている。今までティドが倒してきた男達が、威勢だけで喧嘩を買っていたのとは大きな違いだ。
「じゃあ、俺、立会人になるよ。姉貴の次の休日に決闘でいいかな? 時間は午前十時。場所は……噴水前でいいかな」
 側でずっと聞いていたバンスが、右手を挙げて発言する。二人の男は頷いた。
「決まりだな。手加減はナシだからな」
 ティドは小さな青い目でセルクを睨み付けた。セルクも紺色の瞳で強い視線を返す。
 それを見ていたバンスは、呆れたように肩を竦めていた。

 カシャ、カシャーン!
 激しく剣が交わる。冬にも関わらず、その場だけは熱気に満ちていた。
「ようし、そこまで」
 テイルが大声を張り上げるのを聞いて、エクタは相手から離れた。胸が大きく波打っている。額からは汗が流れ落ち、普段は寒いだけの冷気が気持ち良く感じられた。
「やっぱり、マクイエと五分五分ってところだな。大したもんだ、去年以来、めきめき腕を上げてるな。マクイエ、どうだ?」
 二人が模擬戦を行うのを注意深く見ていたテイルが、組んでいた腕を解く。テイルに問われ、マクイエと呼ばれた初老の男性も乱れた息のまま頷いた。
「そうですな、坊ちゃま。エクタ様は、確実に強くなっておられます」
「坊ちゃまはやめろって。それにしてもエクタ、凄いことだぞ? マクイエは老いたとはいえ、今でもエルス国で五本の指に入る剣士なんだからな。一番は俺だけど」
 嬉しそうにテイルが笑う。
「姉御前がいなくなってからは、だろ」
 息を整えながら、エクタは茶々を入れた。エクタの言う姉御前、つまりミリアのことを耳にした途端、テイルの顔がしかめ面になる。
「ありゃ化け物だ、人間と一緒にするなよ。誉めてるのに全く……」
 ぼやくテイルを見て、辺りに笑い声が一斉に弾けた。
 城の片隅で剣の訓練をしているのは、二十人ほどの集団である。エクタを除いては、マクイエも含め、テイルの直属の部下達である。エクタの練習相手と銘打ち、「美味いものを皆に喰わせる」為に、テイルが時々こうして連れて来るのだ。もっとも、王宮の食事とレイオス家の食事はそう変わらない。王族を目の当たりにすることにより王家への忠誠心を養う目的もあるのだろう。
 どの男達も屈強で、鋭い眼光を湛えている。それもその筈、テイルも含め、彼らは他国での傭兵生活で実戦を経験し、生き延びた者ばかりなのである。
「五本の指には、セリスは入るのかい?」
 やっと息が整ったエクタは、ふと疑問に思い、問いかけた。エクタの知る限り、セリスも傭兵になったことがあり、相当の腕を持つ筈である。何度か訓練相手になってもらったが、いつも動きの素早さに翻弄されてしまう。あの細い身体でテイルと対等に渡り合うという話を聞いたこともある。
 テイルの顔が益々渋くなる。
「あいつは番外。得意な武器が短剣や飛び道具だし、精霊様のご加護があるからな」
 しかし、思い直したようにテイルはにやりと笑った。
「言っとくが、こういう真っ当な打ち合いじゃ、俺が負けたことは一度もないぞ」
「ふうん、そうなんだ」
 疑わしげにエクタは答えた。
「何だよ、その気のない相槌は」
 口を尖らせたテイルの肩を、マクイエがポンポンと叩く。
「坊ちゃま、王子に絡みなさるな。そんな子供っぽいところがあるから、孫のルルゥやリリィに揶揄われるのですぞ?」
「だから、坊ちゃまはよせって」
 周囲が再びどっと沸く。レイオス公爵家の名物侍女ルルゥとリリィに、テイルがいつもやり込められていることはここにいる誰もが周知の事実なのだ。マクイエに幼い頃から「坊ちゃま」と呼ばれることを嫌がっているのも、皆良く知っている。
 だが実際、普段そんな態度を取ってはいても、テイルの剣の腕は生半可ではないことも、この場にいる男達の共通認識であった。
 エクタも例外ではなく、テイルの強さを認めている。少なくとも、エクタは未だに、傭兵生活から戻った後のテイルが負けるのを見たことがない。例外は「アリアーナの戦姫」と呼ばれたミリアであるが、これは「姉に勝つことはできない」というテイルの心の奥深くにある刷り込みが大きいと思われる。
 口に出したことは無いが、テイルの戦い方には、エクタも憧れる。彼の剣を剣で受けた時の重さは、鍛えていなければそれだけで簡単に骨折できるほどのものだ。受け止めきれず、手の痛みと痺れに負けて最初の一撃で剣を落とす者がいかに多いか。鋭い太刀筋、隙の見つからない身のこなし。剣を振るう時のテイルは、普段のテイルを忘れさせる。対峙する者を震撼させ、見ている者の息を止める、そんな迫力がある。
 顔だけではなく、体格も良く似ている従兄は、エクタにとって良い剣術の師匠であり、同時にいつか越えてみたい壁でもあった。
 その時、考えを遮るように、エクタの視界の端に鮮やかな色が映った。何気なく顔を向ける。
 その途端、嬉しいような、苦々しいような相反する気持ちが一瞬にしてエクタの心に沸いた。目に映ったのは、おめかしをしていそいそと城の外へと向かうリーザの姿だった。
 エクタも見たことがない、オレンジ色を基調とした服を着ているリーザは、喜びが身体の外にまで発散されているような足取りで門へと向かっている。
「おや、またデートかな? いいねえ」
 ほぼ同時に気づいたテイルが、羨ましそうに眺める。側にいるマクイエが、賛美も顕わに目を細めた。
「良いおなごですな。姿勢が良い。昔の女性は皆ああでした。坊ちゃまも、あのような女性を娶らねばなりませんぞ」
「だから、坊ちゃまはやめろって」
 テイルが条件反射で答える中、指揮官を冷やかす若い部下達の声が上がる。
 そんな中、エクタはもう一人、剣の腕が立ちそうな人間を思い浮かべずにはいられなかった。
「テイル、セルクの剣の腕はどれくらいなんだろう?」
 義弟にあたる隣国の王ルイシェの強さは、少なくとも一年前はエクタよりも上であった。そのルイシェに剣を教えた一人が乳兄弟のセルクであると、エクタは聞いている。
 何気なく発した質問だったが、問いかけられたテイルは急に真面目な顔になった。茶色を帯びた緑の目が、挑戦的な輝きを放つ。滅多に表に出ないテイルの闘志が、そこにあった。
「さて、どれくらいかな。実際にやってみないと分からないが、機会があれば一度打ち合ってみたいね。あれは相当剣を使い慣れてる身のこなしだし」
 口調は軽かったが、奥に潜む熱がある。
 その声を聞いた途端、そして、軽やかな足取りで門に向かうリーザの姿を見た途端、エクタの胸の奥でも、自分でも驚くほど大きな闘志がセルクに対して湧き起こった。こんなことは初めてだった。
「一回、講師として招いてみるか?」
 テイルの冗談めかせた提案でその場は終わったが、エクタの心に湧いた闘志は、消えることがなかった。

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