「次の休み?」
リーザはセルクに問いかけられて、首を傾げた。
「明後日だけれど、どうしたの?」
「その日に、ティドと決闘をすることになっているので」
さらりと言われて、リーザは絶句した。隣に座ったセルクは、顔を横に向け、静かにリーザを見つめている。
リーザは無理矢理言葉を捻り出した。
「決闘って……何?」
「ああ、前にあなたのことでティドと話し合って、勝負をつけるにはそれが一番いいということになって。大丈夫、武器は使わない。立会人はバンスさんがやってくれることになっています」
「はあ……」
返事とも溜息ともつかない音が、リーザの口から漏れる。ティドなら、いかにも決闘を申し込みそうだ。律儀なセルクもいかにも受けてしまいそうだ。
「決着って、決闘のことだったのね。まあ、それで二人の気が済むのなら。でも、私の気持ちは決まってるんだけどなあ」
ちょっと恨みがましく、セルクの顔を見上げる。浅黒いセルクの頬が、みるみる紅潮した。エルス国の女性には絶大な人気がある割に、本当にこういう言葉には慣れていないのだ。見ているリーザの頬にまで熱が伝わってくるようだ。
「え、えーと、休みは三日後よ。勝負って、大丈夫なの?」
「武器を使わないことになってるから、自分の一番得意な形ではないけれど。長引くような怪我をすることも、させることも無いと思う」
控えめな表現ではあるが、セルクが力強く言い切る。リーザは信頼をこめて頷いた。
前に、リーザはセルクが戦うのを見たことがある。戦いのことは全くといっていいほど分からないが、剣を持ったセルクの動きがまるで舞いのようだ、と思ったことを覚えている。相手が数人いたにも関わらず、恐怖に震えるリーザの側に誰一人寄せ付けることは無かった。後から相手を気絶させただけだと聞いた時は、安堵と尊敬の気持ちでいっぱいになったものだ。こんなに頼もしい人に会ったことなどない。
「セルクさんって、凄い人だよね」
感慨を込めて呟くと、セルクが驚いたように目を見開いた。
「だって、そうでしょ? 頑張って勉強して、礼儀作法を覚えて、戦いの術まで……。王子の乳兄弟といっても、右腕になるほど頼りになる人間になるのって、ごく僅かだと思う。それだけ頑張ったのよね、セルクさんは」
「リーザさんだって、頑張っているでしょう」
「あら、私は望んで侍女になったんだもん。努力するのも全て当然。宿屋の娘だった経験も、かなり活かしてるし。特に大変だったのは、礼儀作法と言葉遣いくらいなものよ。だから、セルクさんは凄いと思う」
素直な誉め言葉に、セルクが首を横に振った。表情が僅かに曇っている。
「凄くなんかない。貴族の人達を見返したかっただけなんだ。身分に対する劣等感の裏返しでしかなかった。ルイシェ様のように、素直な気持ちで頑張ってきた訳じゃないんだ」
そんなセルクの膝を、リーザは笑いながら軽くつねった。
「それでも。努力した結果として今のセルクさんがあるわけでしょう? こういう時はね、『まあね』って流せばいいの」
「ああ……そうか。そうすればいいんだ」
思いがけないことを聞いた、というように、セルクの深みのある群青色の目が大きくなった。そんなセルクのことが、愛しくてならない。
だが、一方のセルクは今の会話で不安を感じずにはいられなかった。リーザは、セルクにとって余りにも眩しい女性だったのだ。彼女が尊敬してくれる程、自分が素晴らしい人間とは、到底思うことなどできない。リーザの幸せそうな笑顔が、親しげな仕種が、本当の自分を見る度に失われてしまうのではないか。そんな暗雲が、胸に立ちこめる。
気付いた時には、その思いは口から滑り出ていた。
「俺は、つまらない男じゃないですか? あなたのように軽やかな考え方もできないし、卑屈なところもあるし。俺はあなたといて楽しいけれど、あなたはそうじゃないんじゃないかと思うと辛い」
思わぬ弱音に、リーザは心の底から驚いた。幸せな笑顔が一瞬にして凍り付く。
セルクに今、そんな思いをさせていたことを、考えてもいなかった。リーザも同じようなことを考えたこともある。だが、根が楽天的な性分の為か、再会以後はそう思うこともなくなっていた。二人とも幸せなのだと、どこかで信じていた。
そうではなかったのだ。
不安が急に胸にこみ上げてくる。
考えるよりも先に、身体が動いた。側にあった逞しい腕に縋り付く。
「いやです……」
「リ、リーザさん?」
「そんな風に言わないで。確かに、私達はお互いのことを充分には良く知らないかもしれないわ。でも、私は初めてなの、こんな風に人を好きになったの。私の方が直さなくちゃいけないことが多いと思ってる。私には、あなたじゃなければ駄目なの」
俯いたリーザの目が潤む。
「ごめんなさい。一人ではしゃいで、あなたが悩んでいるのに気づかないなんて、私、最低だわ……」
セルクは、その言葉を聞いて、己が何を口にしたのかに気付いた。腕に縋り付いたリーザの熱い重みを、後悔と共に受け止める。
「ごめん」
万感の思いを込めて呟き、栗色の髪にそっと口づける。
「あなたが謝ることも、直すことも、何もない。俺も、あなたのそのままが好きですよ。好きすぎて、少しおかしくなっているかもしれない。あなたを泣かせるつもりじゃなかった」
その行動と言葉で充分だった。リーザの不安は嘘のように消えていく。大騒ぎをして、涙ぐみさえしたことが恥ずかしくて、小さく笑う。
「ごめんなさい。私も、おかしいかも。急に不安になったり、次の瞬間、これ以上ないほど幸せになったり」
やっと落ち着いたリーザは、急にどきりとした。自分が両腕で、一体何を抱きしめているかに気づいたのだ。
勢いでしがみついたセルクの腕は、力強く、頼りがいがあった。冬の長袖の上からでも、自分達女性のものとは違う、固い筋肉の質感を感じる。それは、思いがけない程にうっとりとするものでもあった。
離れなければ、という気持ちと、離れたくない、という気持ちが衝突する。何とかしようと身じろぎすると、セルクが耳元で囁いた。
「もう少し、このままで」
心が、熱く蕩ける。
今は、これ以上はいけない。けれどこれくらいならば。
二人の気持ちはいつしか一緒だった。他から見れば、どう見ても恋人同士に見えることはもう分かっていたけれど。
二人とも、恋で少しおかしくなってしまったのかもしれなかった。
あちこちの窓から漏れる夜の灯りが、暗闇をそっと払っている。
セルクは、エルス国の平和さを再確認していた。
この光景も、そしてここに住む人も。
イェルトの決闘は、武器を必ず持つ。防具も付ける。「参った」の一言を言わなければ、命を失うこともある。それが、例え女性を賭けたものだとしても。
ずっと戦争をしていなかったエルス国と、近年まで戦争を繰り返していたイェルト国では、命の考え方が違うのだろう。ティドの申し出た決闘は、子供の喧嘩のように無邪気なものに思える。思わず微笑んでしまった程だ。
そして、自分の過去を思い出して暗澹とした気分にもなる。
十代後半に一回、そして二十代前半に二回、三度に渡ってセルクは徴兵されて他国の兵と戦った。セルクだけではない。イェルトの男は王族も平民も例外なく、十代半ば以降になれば戦争に赴かされた。
殺さなければ殺されるあの空間で、セルクも何人も人を斬った。最初こそ、自分が死んだ方がましなのではないかというような罪悪感に苛まれもした。が、感覚が麻痺するのも早かった。まるで酔ったような、妙に高揚した気分の中、兵同士で何人殺したかを競い合った。知り合いになった兵が、次の日には怪我人に、或いは遺体となっていたことも何度もあった。
死ぬのは怖かったが、同時に戦争での死が勇ましく誉れあるものだという空気に馴染んでもいた。死がいつも隣り合わせでありながら、それが誇らしい気分にさえなった。
こうして平和な空気の中で考えてみれば、恐ろしい話だ。自分のしたことに、罪悪感を覚えることも、怖気をふるうことも多い。それでもまた、戦場に行けば同じ行動を取るのだろう。
セルクはカーテンを閉め、穏やかなエルス国の光景を視界から遮った。暗い思い出を脳裏によぎらせるには、余りにも美しすぎたからだ。
先程までの甘やかな空気を、もっと味わっていればいいのに、と自分でも思う。リーザと城近くで別れてから、まだ一時間も経っていないのだから。
しかし、リーザとの時間が楽しく幸せであればあるほど、彼女の将来が心配でならなくなる。一緒にいたいという気持ちが確認できたからこそ、不安になる。
「いずれエルス国は戦争に巻き込まれるだろう」という、この前聞いたエクタ王子の言葉が、心に強く残りすぎているのだ。
ルイシェの治めるイェルト国は、平和への道を模索している。だが、隣国のエルス国が戦争ともなれば、力を合わせて戦うことも無いとは言い切れない。いや、リシア王妃がエルス国出身であることを考えれば、そうなる確率の方が高い。
戦いに麻痺した恐ろしい自分を、リーザに見せることになったのならば。
戦いの中で、自分が命を失ったならば。
リーザを残して死ななければならないとしたら。
背筋の寒くなる想像ばかりが浮かんでくる。
それらを掻き消すように、セルクは首を強く横に振った。
今が幸せだからこそ、不安になるのだということを、リーザとの恋は教えてくれた。一人の頃は、もし自分が死んだならば親には辛い思いをさせてしまうかもしれない、とは考えた。それとは質が違うのだ。こういう不安も全て、彼女が教えてくれたものだ。生き残らなければならないという、今までに感じたことのない強い使命感も。
もう引き返せないところまできている。リーザと離れることが考えられない。
(命に代えても幸せにしなければならない)
強い決意とともに、そう思う。
心を決めた途端、腹の奥が熱くなるような気がした。
初めて感じる、人生に対する闘志だった。
居ても立ってもいられない気持ちになって、セルクは立ち上がった。右手を強く左の掌に叩き付ける。
それから、セルクは無言のまま身体を鍛え始めた。
彼女を幸せにするためには、それが全てであるかのように。
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