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 噴水前の広場は、霜も降りた寒い朝だというのに、人々の期待を込めた視線と熱気に溢れ返っていた。大人も子供も、頬を輝かせて、これから起こる出来事のことを語っている。
 ネ・エルス市の民全部が集まってきたかと思うような数であった。粗末な服を着た親子から、お忍びで出てきたらしい貴族まで、ありとあらゆる身分の人が渾然一体となって、人の渦を作り出している。
 どこから聞きつけたのか、食べ物や小物を売る屋台があちこちに出て、賑わいに拍車を駆けていた。温かいものを売っている出店には、長蛇の列ができている。
 冷たい空気を切り裂くかのように、ピイッと鋭い笛の音が鳴り響いた。ざわり、と空気が揺れて、人々の視線がそちらに向けられる。
 人々の中心には、飾り立てられた紐で仕切られた四角い空間があった。更にその中に、背中を向けて立つ二人の男。一人は、雲をつくような大男で、もう一人はよく日に焼けた男だ。
 戦いを前にした二人の男に、観客は伸び上がって手をふったり、はやし立てたりしている。
 二人の間に、進行役の栗毛の男が進み出た。口に細長い笛をくわえている。男はもう一度ピイッと笛を鳴らし、人々の視線をその横にある段に向けさせた。
 急ごしらえの段の上には、紙で作られた色とりどりの花を飾り、貴族がくつろぐかのように、赤い布をかけた大きな椅子が一つ。椅子には、背筋をしゃんと伸ばした美しい女性が座っていた。
「何、これ」
 椅子の上の女性は、薄い作り笑顔のまま、呆然として口の中で呟いた。
 勿論、リーザである。
 弟のバンスから「姉貴の席はここ」と言われた時は、逃げ出そうかとも思った。だが、周囲の視線は既にリーザに集まっており、逃亡は不可能になっていた。
「大体、何で話がここまで大きくなっているのよ」
 人々の笑顔に応えなければ、と無意味に笑顔を作り続けているせいか、頬がひくひくと痙攣した。これからでもまだ逃亡できるのではないだろうか、という気持ちが段々大きくなる。
 姉の気持ちを察したバンスは、人々の注目の中、姉の側へと悠々とやってきた。営業用の満面の笑みを浮かべ、姉に語りかける。
「姉貴、雲隠れなんてこんな中、無理だからな。姉貴の為に二人もみんなも集まってんだから、頼むぜ」
 バンスの声は、ぶり返してきた人々のざわめきの中に掻き消されて、リーザにしか聞こえない。リーザは言い返した。
「あのねえ。だからって、こんなお祭り騒ぎにするなんて聞いてないわよ。大体、あたしは見せ物じゃないってば」
「集まっちゃったもんは仕方ないだろ? 俺に文句言うなって。ともかく、そろそろ始めるから、笑って笑って」
「覚えてなさい。この貸しは高いわよ」
 リーザはにっこりと笑いながら、弟を脅した。
 意に介する様子もなく、バンスはリーザの目の前で笛を大きく三回鳴らした。リーザと周囲にいた人々が、耳を塞ぐ。
 会場のざわめきが落ち着いたところで、バンスは決戦の舞台の真ん中に戻り、紙を丸めた拡声器を使い、声をあげた。
「お集まりの皆様、ようこそ! 本日行われるのは、一人の女性を巡る、男と男の戦い。ご紹介しましょう、まずは一人目。この大男、ご存知の方も多い筈、生粋のエルスっ子にしてアバイル通りの八百屋の大将、ティド!」
 わあああ、と大きな歓声があがる。「ティド、よそもんに負けるな!」「その筋肉は飾りじゃないってこと見せつけてやれ!」といった声もかかる。ティドはそんな中、堂々と太い右腕を突き上げてみせた。
「もう一人は、この男。エルスとイェルトを僅か三日で行き来し、エルス国女性の心を掴んで離さない異国からの戦士、セルク!」
 きゃあああ、と今度は黄色い悲鳴が上がる。「かっこいい!」「頑張って!」と、女性の熱烈な声援ばかりだ。セルクは戸惑ったような表情を浮かべたあと、黙礼をした。
「さあ、そしてこの二人に求愛されている幸せな女性がこの絶世の美女! 泣く子も黙る王宮の侍女、リーザ・ロウリエン!」
 弟の熱に浮かされたような煽りを聞いて、リーザは頭を抱えたくなった。半分泣きそうになりながら、歓声の中、周囲に軽く頭を下げる。
 バンスは二人の間から一歩引いた。
「それでは、これからティドとセルクの試合を始めます。二人とも、準備はいいですね? どちらかが参ったを言うまでの、一本勝負」
 バンスの声が低くなると、周囲のざわめきは一瞬にして緊張したものに変わった。
 ティドとセルクはお互いの目を睨み、頷き合う。
「それでは……始め!」
 決戦の火蓋は切って落とされた。
 睨み合ったまま、二人が間合いを取る。
 と、ティドが一歩前に突き出て、右腕を大きく振り下ろした。セルクが紙一重の差でそれを躱す。残念の意味か、安心の意味か、溜息のような音が、あちこちから湧いた。
 次に動いたのはセルクだった。腰を低く落とし、ティドの懐に潜り込む。右足を重心のかかった相手の左足にかけながら、腕をひねる。ティドの身体がよろりと揺らめき、どうっと床に落ちた。
 物凄い歓声が飛び交う。
「ちっくしょう」
 ティドは起き上がりながらセルクを睨み付けた。セルクはいつでもティドがかかってきても対応できるように、軽く背を曲げ、脇を締め、両拳を軽く開いている。隙のない姿勢だった。
 ティドは猛然とセルクに襲いかかった。右、左、右。巨大な拳がブンブンと音をたてて振り回される。だが、セルクは最小限の動きでそれを避けきった。
 決闘が始まってまだ間もないというのに、観客にもどちらの方が実力を持っているか、はっきりと理解しはじめていた。セルクの動きには、いかにも無駄がない。彼に比べれば、ティドが素人同然だということは明らかだった。
 だから、次の瞬間、セルクがティドの懐に飛び込み、足を取ってティドをまた床に寝そべらせた時には、人々はさほどは驚かなかった。自分の足をティドの足に絡め、足の関節を極めたまま上に跨る。ティドが、くぐもった呻き声を上げ、両腕をばたつかせた。
 そのまま、時間が過ぎる。真っ赤になったティドが、痛みから逃れようと暴れるが、ティドから見れば細く小さいセルクの身体は、びくともしない。それどころか、セルクの両足は益々厳しく締まっていく。
「おい、大丈夫かよ」
「もう決まっただろ」
 次第に、周囲からも歓声よりもざわめきが多く聞こえるようになってくると、審判を務めていたバンスは、ティドの顔を覗き込んだ。
「ティド、まだやるのか? 骨、折れそうだぜ?」
 ティドは小さくぐぅ、と呻き、また手をばたばたさせた。やめる気はなさそうだが、どう見ても、悪あがきである。
 バンスはぐるりと辺りを見回し、人々の痛ましそうな表情を見てとると、笛を大きく三度鳴らした。
「審判の判断で、これ以上は危険と判断します。異国の戦士、セルクの勝ち!」
 余りにも呆気ない幕切れだった。セルクが足を外しても、ティドは動くことができずにいる。
 最初はほっとしたような顔をしていた観客達も、短すぎる戦いであるということを思い出したらしい。徐々に不満の声をあがりはじめた。その声は急速に数を増し、暴動がおきかねない勢いにさえなってきた。
 やっと上半身を上げたティドは、顔を真っ赤にし、俯いて舞台から降りた。セルクが貸そうとすると、その手を拒否する。
「……人生で一番、情けねえ気分だ。武器屋、リーザを幸せにしてやれよ」
 どうやら、涙ぐんでいるようだ。片足をひきずり、人ごみに紛れようとしている。
 セルクは、勝った気が全くしなかった。戦い慣れないティドに、この決戦が余りにも不利すぎることは明白だったからだ。思わず、ティドの腕を引く。
「君は、それでいいのか? 彼女への想いは、そんなものだったのか?」
 語気が段々荒くなるのを感じながら、セルクは詰問した。
 ティドは、壇上で成り行きをはらはらしながら見守っているリーザをちらりと見上げた。小さな可愛らしい青い目が、己への屈辱で揺れる。
「好きだったよ。けどよ、どうしようもねえ。もう、分かった。最初から負けてるんだから、せめて決闘で一矢報いたかった。拳の一発もかすらねえ俺は、これ以上あんたとリーザに手を出しちゃいけねえんだよ」
 視線をリーザに向けたまま、ティドは周囲にも聞こえるように、鼻声ながらもきっぱりと言った。
「リーザ、俺は身を引く。二人で幸せになれよ」
 最後のプライドを振り絞り、胸を張ったその姿は、潔いものであった。
 セルクは、ティドに向かって敬意と感謝を込め、深く一礼する。ティドはそれに軽く右手を挙げて応え、人にもみくちゃにされながら中央から去っていった。感動的、かつ完璧な身の引き方であった。
 しかし、群衆の殆どにとって、そしてリーザにもセルクにとって、どこか納得できないものであることも確かだった。
 勝ったらすぐに段を降りていって、セルクの胸に飛び込もうと思っていたリーザも、同じく彼女を受け止めようと思っていたセルクも、そうする気分ではない。流石に、司会進行役のバンスも戸惑った表情を見せていた。
「おいおい、もう終わりかよ」
「朝早くから見に来たのに」
 周囲の不満の声は、収まる様子を見せない。帰りはじめた者もいるが、多くはまだそこに残っている。腕を突き上げて怒鳴る者も多い。このままでは帰らない、といった感じである。
 呼び戻そうにもティドの巨体はどこにも無く、三人は呆然と辺りを見回した。
 その時である。
 剣と盾を胸に抱えた、救いの主が現れた。
 頭に布をきつく巻き付けた長身の男性は、俯き加減にバンスの側にすうっと寄った。
「……?」
 何事かを、訝しげな顔をしているバンスに尋ねる。途端に、一筋の光明を見いだしたかのように、バンスの顔がぱっと明るくなった。一言二言何かを尋ねる。男性が頷いた。
「何と、新たな挑戦者が現れました!」
 バンスが、周囲の声を打ち消さんばかりに絶叫する。
「絶世の美女に魅せられた男がまたここに一人! 異国の戦士に挑戦状を叩き付けております!」
 不満の声が、一瞬に消えた。わあっと歓声が上がる。
 リーザとセルクは、信じられない思いで目の前の挑戦者を見つめていた。
 布で髪を隠し、顔に汚れをなすりつけただけでは、その見慣れた端正な顔立ちを見間違いようがない。
 蒼い目をきらめかせたこの国の王子、エクタがそこには立っていたのだった。
「!」
 驚愕を隠しきれないリーザ。
「どういう……ことでしょうか」
 低く、セルクがエクタに問いかける。エクタは静かに答えた。
「あんな戦いでは、君も納得がいかないだろうと思って」
「それだけですか?」
「……どうだろうね」
 微かに笑い、手にしていた二本の訓練用の剣のうち、一本をセルクに差し出す。
「刃は潰してある。この勝負、受けるかい?」
 セルクは迷った。バンスは気づかなかったようだが、いくら髪を隠し、顔を汚していても、エクタの正体に気づく者が必ずいると考えたのだ。それに、訓練用の剣とはいえ、本物の鋼を使っている。しかも鎧はない。盾はあるものの、そこ以外に当たれば、骨折してもおかしくはない。
「無茶を言わないで下さい」
 それだけをやっと口にする。周囲はいつの間にか静まり返り、事態がどう展開するのかと、固唾を呑んで二人の会話に耳をそばだてている。ここでエクタの身分を露見させる訳にはいかなかった。
「では、彼女を諦めるかい?」
 エクタの目が、挑戦的にきらりと光る。セルクは思わず、壇上にいるリーザの顔を見上げた。
 リーザは完全に混乱しきっている様子だった。腰を浮かせ、首を横に大きく振っている。それが戦うな、という意味であることは、セルクにもすぐに分かった。
 だが、その仕種を見た時に、セルクの心はエクタと戦うことを選び取っていた。
 煽られたからではない。戦いに勝たなければ、リーザをイェルトに連れていくことはできないと思ったからだった。
 この期待に満ち満ちた空気を裏切れないというのも、無くはない。だがそれ以上に、エクタを裏切れない。自分の主であるルイシェ王の親友であり、いずれエルス国を背負う立場にいる、敬愛する王子。エクタが、リーザに対してどういう想いを抱いていたのか、本当のところは分からない。しかし、彼が怪我も、身分がばれることも恐れることなく、戦いを挑んでいる。自分が彼の一番側にいた女性を奪っていこうとしていることだけは、間違いがない。
「……手加減は、できませんよ」
 セルクは真っ直ぐに、エクタの目を見て、決意を確かめる。エクタの剣の腕は、去年目にした時も悪くは無かった。だが、それから一年が経過している。若いエクタが技術を磨いているであろうことは、簡単に予測できた。本気の勝負になれば、手加減することが負けに繋がる。
「分かっているよ。さあ」
 エクタの視線は、揺るぐことなくセルクに向けられていた。
 セルクは、差し出された剣を、しっかりと受け取った。

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