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 金色の光が目を打った。エクタの頭に巻き付けていた布が、外れていたのだ。そのエクタが、セルクの上に馬乗りになっている。喉元に、剣。絵に描かれるような、完璧な体勢。
 参ったの声を聞くまでもなく、勝ったのは、紛れもなくエクタだった。
 逆転を告げる光景。
 爆発し続ける歓声。耳が、おかしくなる。
 リーザは呆然として、目の前で起こったことを、脳裏で繰り返した。
 セルクはずっと優勢だった。つい先程までも、エクタの体勢を崩すまでに押していた。
 逆転したのは、セルクの剣がエクタの頭に掠った時だった。鋭く振り抜かれた剣は、刃を潰してあるとはいえ、エクタの頭の布を切り裂いた。金色の髪が零れ落ち、リーザは「まずい」と思った。きっとセルクも同じことを思ったに違いない。
 その一瞬を、エクタは逃さなかった。全体重を乗せて、盾でセルクを押す。よろめいたセルクを更に押し倒し、上から馬乗りになる。そして、剣を喉元に突きつけた。
 そして今の状況になっている。
 二人はまだ、そのままの体勢でいた。全身が大きく波打ち、激しかった戦いを物語っている。
「エクタが勝ったが……」
「ありゃ、納得してねー顔だな」
 後ろの二人が苦笑している。
 バンスが慌てて二人の間に割って入った。このような展開は予想していなかったのだろう。リーザにちらりと視線を寄越し、気まずそうな顔をする。
 だがバンスは決闘の立会人として、成すべきことをした。
「謎の挑戦者が勝ちました! 決闘で王室の侍女リーザを得たのは、金色の髪も眩しい、この男です!」
 そう言って、剣を握ったままのエクタの右腕を高々と持ち上げる。広場が大きく湧いた。
 だが、その中に密やかな声が風のように流れ始めたのも、同時だった。
「あの髪、あの目は……」
「あれはエクタ様ではないのか?」
「王子が侍女を賭けて決闘……?」
 その声は、次第に大きくなってくる。リーザの耳にも、それが届いた。不安になって振り返ると、テイルとセリスがちらりと視線を交わしているところだった。リーザの表情に気づいたテイルが、近づいてそっと耳打ちする。
「リーザ、エクタに勝者への抱擁を与えるんだ。この場は俺達が何とかする。群衆に紛れて、『金の麦亭』に行ってセルクの荷物をまとめるんだ。それから、それを持って俺の家に来る。いいね?」
 リーザはどういうことなのか分からず、思わず首を横に振った。自分が強い者になら誰でも靡くような女性であることを、万にも及ぶ人に見せつけようというのか。
 だが、テイルはリーザの肩を押す。
「俺達を信じて。この馬鹿騒ぎを終わらせることができるのは、君だけだよ」
 滅多に聞くことのできない、テイルの有無を言わせぬ声。
 リーザは心を決めて、立ち上がった。テイルとセリスが何も考えていない訳がない。今の自分は、信じる他はない。頭が回らないまでも、テイルに言われたことをすることはできる。
 歓声と視線を浴びながら、リーザは舞台の中心に進んだ。
 身体から埃を払い、やっと立ち上がったセルクが、表情を抑えてリーザを見つめる。リーザはその視線をあえて無視した。そうしなければ、セルクの胸に飛び込んでしまいそうだったからだ。視界の端で、セルクがリーザに背を向けるのが見えた。衝撃で、唇がわななく。そのまま消え去るセルク。
 しなければならないことも忘れて、リーザは立ち尽くした。
「姉貴、ほら」
 バンスが言葉少なにリーザの手を取る。
 目の前には盾と剣を地面に起き、困惑しているようなエクタの顔があった。バンスの手がリーザの背中を押す。リーザは強くもないその力に抗うこともできず、頽れそうになった。エクタが反射的にその身体を受け止める。
 これも抱擁といえるのだろうか、とリーザは思った。エクタがリーザの身体を受け止めた瞬間、新たな大歓声が上がったからだ。
「ごめん、リーザ」
 声にならない声が、耳に届く。
 思わずエクタの顔を見上げると、その蒼い目が想像以上に傷ついた色を浮かべていることに気が付いた。自分でも予測できない結末に、動揺しているのだ。リーザと同じくらいに混乱していることは、間違いがなかった。
 何故、と思う気持ちはあるが、それよりも彼がどういう気持ちでいるのか理解できてしまう。一緒に王宮で過ごした時間は、それくらい長かったのだ。
 エクタの目を見ただけで、リーザの麻痺していた心はやっと動き始めた。ここでしっかりしなければならないのは自分なのだという気持ちが、ようやく頭を回転させる。
 そして、この時になってようやくリーザは、テイルが何をさせようとしてるのかをはっきりと理解した。そして、これから自分のなすべきことも。
 リーザは、弟を抱き締めるような気持ちで、エクタの背にそっと手を回した。大切な王子に対する数少ない、そして最後の抱擁だ。
 耳元で囁く。
「今までお世話になりました。私、行きます。王様に、呉々も宜しくお伝え下さいませ」
 僅かな空白。その後返ってきたのは、強い腕の力だった。リーザが腕を下ろしても、エクタはリーザを離そうとしない。
「こんな風に君を送り出す為じゃない」
 苦悩に満ちた声。
 リーザは、微笑んだ。
「分かっています。ご自分を責めないで下さい。ただ、こうなってしまったというだけ。またお会いできますわ。イェルトで」
「愛していると言ったら、君をここに留められる?」
 意外な言葉に、一瞬リーザは息を止めた。
 だが、その言葉が出た理由もまた、リーザには良く分かっていた。息を整え、落ち着いて答える。
「その答えはご存知の筈ですわ。いずれ、家族以上に大切に思える女性が現れます」
 エクタの腕から力がフッと抜けた。それが、全てのエクタの答えに思えた。
 これ以上ないほど残酷なことをした、という思いがリーザの胸を一杯にしていた。
 とうとう、エクタを一人にしてしまうのだ。こんな形で。
 だがエクタは、突き放されたことで自分を取り戻したようだった。大きく溜息をついて、身体の力を抜いた。
「最後に僕の頬を、音を立てて叩いてくれないかな。セルクを負かせた恨みを込めて、本気でね。僕が王子だというこの空気を取り払う一環にもなる。あと……幸せになってほしい」
 身体を離すその瞬間に耳元で囁かれて、リーザは青くなった後、顔を赤らめた。一瞬だけ、エクタと視線を交わす。リシアとそっくりだが、淋しそうな深く蒼い目。もう、いつものエクタだったが、こんなに淋しそうなエクタは見たことがなかった。
 リーザは唇を噛みしめた。涙を堪え、心を鬼にして右手を大きく振りかぶる。
 バシン!
 辺りが一瞬静まり返るくらい、強烈な音だった。
「失礼ね! 腕試しなら、他でやってちょうだい!」
 お腹の底から、思いっきり声を上げた。ぶたれたエクタが、自分で叩けと言ったにも関わらず、本気で驚いた顔をしている。それが可愛らしくて可哀想で申し訳なくて、リーザは必死に泣き笑いを堪えた。代わりにキッとエクタとついでにバンスも睨み付け、くるりと後ろを向く。
 リーザは大股で呆気に取られる人ごみをかきわけた。胸がどきどきしていたが、顔は憤慨したものにすることを忘れなかった。
「何だ、他人の空似か」
「侍女がまさか王子は殴れないだろ」
「エクタ様がこんなところにいる訳がないしな」
 無邪気な人々がそう口にしはじめる。自分の稚拙な演技にも、騙される人がいるのだということが少しおかしい。リーザは、ざわめく会場を後にして「金の麦亭」へ急いだ。
 ぶたれたエクタがどうなったのかは分からなかったが、どうやら人々はこれで今日の見せ物は終わりと判断したようだった。最初は人の波に逆らうようにしていたのが、次第に同じ方向に進む人が増えてくる。
 興奮冷めやらぬ人々がそれぞれ次へ向かう場所を目指す一歩先を駆け抜け、リーザは「金の麦亭」に飛び込んだ。
 店では、退屈そうな顔をしたリーザの父親ベドリスが、宿帳を片手にして、受付に座っていた。
「父さん、セルクさんの部屋の鍵!」
 息せき切って叫ぶ娘に、ベドリスがぽかんと口を開ける。
「お前、終わったのか? まさかティドが勝ったんで、逃げてきたんじゃないだろうな」
「違うけど、色々あったのよ。父さん、鍵借りるわよ」
 リーザは事態が呑み込めていない父を押しのけ、セルクの部屋の鍵を手に入れた。そのまま、階段を駆け上がる。
 急いでエルス国に戻ったからだろう、幸いセルクの荷物は殆ど無かった。剣と大きな袋だけ。それらを掴んで、引きずりながら再び階下に戻る。洗い物をしていたらしいアーナが、厨房の奥から出てきて呆れた顔をした。
「なあに、あんた。そんなに息切らして、人の荷物勝手に出して。そんな不躾な子に育てた覚えはないよ?」
「ごめんなさい。急ぐ事情があるの」
 リーザは自分の財布から、セルクの宿代と食事代に十分と思われる額を出すと、受付の皿の上に置いた。虫の知らせだったのだろうか。リーザは今日、いつもは持ち歩かない額の金貨を財布に入れていた。
「やだねえ、まるで駆け落ちするみたいな慌てっぷりじゃないか」
 アーナの一言に、リーザは手にしていたセルクの荷物を床に置いた。困惑している両親の前で背筋を伸ばし、腿の上で手を揃える。
「父さん、母さん、今まで本当にお世話になりました。今からセルクさんと一緒に、イェルトに駆け落ちします」
 深々と頭を下げる。泣きそうだったが、そんな場合ではないことも分かっていた。
「おい、どういうことだ? セルクさんが負けたわけじゃないんだろう」
「ちょっと、落ち着いてみたら? 事情を説明してごらんよ。大体あんた、王宮はどうするの」
 ベドリスとアーナが、訳が分からないまでも口々に引き留めようとする。突然のことである。親としては当然であろう。
 リーザは荷物を再び手にした。
「ごめんなさい。行かなくちゃならないのよ。セルクさんがティドに勝った後、飛び入りの挑戦者が現れて、その人がセルクさんに勝っちゃったの。でも、私はセルクさんの側にいたい」
 短い、大分端折った説明だったが、それでも両親はそれなりに事情を呑み込んだようだった。二人は突如として慌ただしく動き始めた。
 ベドリスが受付の金庫に入っていた全てのお金を袋に移し替え、リーザに渡す。
「持って行きなさい。イェルトまでは遠いんだから」
「受け取れないわ、父さん」
「後で落ち着いたら、セルクさんと一緒に顔を見せに来ればいいさ。父さんは、セルクさんは信頼できる男だと思うぞ。お前も俺らの子供の中じゃ一番しっかりしてる。俺らのことは心配ないさ、バンス達がいるからな。お前達も二人で頑張れよ」
 ベドリスの目が真っ赤になっていた。リーザは涙を堪えて頷いた。父の差し出した袋を、丁寧にセルクの荷物の中にしまい込む。
 いつの間にか外に出ていたアーナが、リーザを呼んだ。
「リーザ、おいで。どっかで待ち合わせをしてるんだろ。馬車でそこまで送っていってあげるから」
 リーザは父の顔を見つめた。ベドリスが頷く。
「父さん、元気でね。きっとまた来るから」
 涙が、とうとう零れた。リーザは父の身体に手を回し、頬にキスをした。ベドリスは一回ぎゅっと娘を抱き締め、頬に愛情の籠もったキスを返す。
「さあ、行きなさい。馬車で酔わないよう祈ってるよ」
 セルクの荷物を持ち、リーザは何度も父を振り返りながら、母の待つ馬車に向かった。
 アーナは慌ただしく馬に馬車をつけていた。涙をぼろぼろ零しながら歩いてくるリーザを急き立てる。
「ほら、早くする。あんたねえ、嫁き遅れはいいけど、こんな時までとろとろしてるんじゃないの」
 口の悪い母に、リーザは泣いている場合ではないのを思い出した。荷物を馬車に押し込み、御者台の側に乗り込む。すぐにアーナは御者台に乗り込んできた。
「で、どこまで行くんだい?」
「言いにくいけど、レイオス公爵家まで。テイル様が手筈を整えて下さることになってるの」
 行き先を聞いて、アーナは僅かに残っていた感傷も全て吹っ飛んだようだった。目を大きく開き、ぐりぐりと回して驚いてみせる。
「全く、あんたときたら! あたしらの心臓をどれだけ縮めれば気が済むんだろうね。王宮の侍女が決闘に公爵、そして恋人は隣国の王の従者! ついでに駆け落ちと来たら、今あたしの心臓が動いている方が不思議だよ」
 リーザは思わず笑い声を立てた。顔は涙でぐしゃぐしゃだったが、母の軽口が嬉しかった。
「それじゃ、レイオス公爵家に参ろうかね。言っておくけど、あたしが行くのは門の前までだよ」
 迷惑そうな口調だったが、声には愛情がたっぷりと詰まっているのを、リーザは感じていた。
「わかっているわ、母さん。ごめんね」
「謝るんじゃないよ、この子は」
 馬車が猛スピードで動き出す。リーザはしばらく見られないであろう『金の麦亭』をしっかりと目に焼き付けた。

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