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 長くはない、レイオス公爵家までの馬車での道程。アーナは、異国へ駆け落ちする娘に、手短に母親らしい幾つかの助言を与えていた。
「こういうのも、駆け落ちって言うのかね。まあ、あんたの人生には時々とんでもないことが起こるようだからね。こうやってこの国を出ていくんだから、戻れないくらいの気持ちで精一杯やりなさいよ。セルクさんは真面目そうな人だから、一緒にいる時は仕事のことを忘れさせて、気持ちを楽にしてあげるように気をつけなさい。でも仕事のことで悩むようだったら、きっちり話を聞くことも大切だよ。喧嘩はしていいけど、次の日までは絶対引きずらない」
 リーザは無言で頷きながら、大切な言葉をしっかりと胸に刻みつけた。
「あと、恋愛と結婚は違う。思っていたのと違うからって、いちいちがっかりしないで、新しい生活を楽しむのが大事だわね。いつも笑ってなさいな」
 きびきびした物言いではあるが、アーナの目は赤くなっていた。
「イェルトにはリシア様もいらっしゃる。あたしはあんたのことを心配しちゃいないよ。父さんも言ってたけどね」
 ぶっきらぼうに言った母は、鼻を啜り上げた。
 何か喋らなければ、と思うのに、リーザの声は出てこなかった。自分が置いていくものの大きさと重さとを比べるように、膝に乗せたセルクの荷物をぎゅっと抱き締める。触り慣れなれておらず、いつもなら怖く思える剣が、セルクのものだというだけで、とても愛しく感じられた。
 レイオス公爵家が見えてきたのは、間もなくだった。
 堅牢な門の前には、人の姿がある。黒と白の衣装を身に纏った、双子の侍女だ。
 双子は、リーザが乗る馬車に気づくと、大きく手を振りながらぴょんぴょんと飛びはねはじめた。
「迎えが来ているようじゃないか。ここでいいかい?」
 アーナは問いかけておきながら、リーザの答えを待たずに、馬車を止めた。
「母さん……」
 やっとリーザの口から出たのは、濡れてびしょびしょになったような声だった。
「馬鹿だねえ、本当に。お泣きでないよ。あたしまで釣られちまうだろ。親に公認の駆け落ちなんか、滅多にできるもんじゃないってのに」
 強く微笑むアーナに、リーザは涙を落としながら頷いた。
「ありがとう。今まで、育ててくれて。父さんにも伝えてね。私、幸せになるね」
「その言葉で充分さ。元気でおやり」
 片腕でぎゅっと娘を抱き締める。アーナの目から、一粒だけ涙が転がりだした。まるでそれを恥じるかのように、アーナは涙を慌てて拭く。
 リーザが馬車から降りるとすぐ、アーナは後ろ髪引かれる思いをわざと断ち切るかのように、強く馬に鞭を入れた。あっと言う間に、馬車は曲がり角を越え、リーザの視界から消える。
 リーザはその姿を見送った後、丁寧に顔をハンカチで拭った。涙を流さないようにしていた母親を見て、自分が恥ずかしくなったのだ。例えどんなに短い時間で決めたことであろうと、自分が決めた道である。一部に悲しいことがあるとはいえ、これは幸せを掴む為の思い切った行動だ。泣いてなどいられない。
「リーザ、さーん」
「はやく、はやくぅ」
 後ろから、パタパタという足音と、双子の声が近づいてくる。リーザは笑顔で振り返った。
「ごめんなさいね。少し感傷的になってしまって」
 つい先程まで泣いていたのが明らかな顔を見て、ルルゥとリリィは同じ顔に同じ痛ましそうな表情を浮かべた。だが、すぐに気づかなかったふりをして、リーザの足元に置かれた荷物を手に取る。
「セルクさんがお待ちかねですよー」
「出発の準備もできていますぅ」
 どうやら双子は、これから何をするのかを聞かされているらしい。のんびりした口調とは裏腹に、きびきびとリーザを急かす。
「あなた達にまで迷惑をかけてしまったわね」
 つい、そう声をかけると、双子は同時に首を横に振った。
「いいえ、そんなことないですぅ」
「袖すりあうも、たしょーのエンですー」 
 どこかユーモラスな発言に、リーザの心が少し癒される。テイルがこの双子を側に置いているのは、見かけの割に有能だというだけではないのだろう。
 双子に連れられて、リーザはレイオス家の門をくぐった。門を守る中年の屈強な兵達も、どことなく同情的な顔つきだ。或いは彼らにも簡単な事情が知らされているのかもしれない。
 レイオス公爵家には、入るとすぐに訓練場を兼ねた広々とした前庭がある。そこには既に大きな馬が二頭繋がれていた。足の速い種ではなく、農耕などに良く使われる足の太い馬でである。一頭には荷物が括り付けられていて、もう一頭には二人乗りの鞍がつけられていた。
 双子が慣れた手つきで、セルクの荷物を荷馬に積み込む。双子の見せた新たな特技に、そんな場合ではないのにも関わらず、リーザは驚いた。馬で良く遠出をするテイルの側にいるからなのだろうが、それにしてもこの双子は得難い人材だろう。
 それから、少し不安になってもう一頭の馬を見上げた。二人乗りの鞍がついている、ということは、これに乗っていけということなのだろう。しかし、実はリーザは馬に乗った試しがない。いつも乗るのは馬車だが、御するのは得意でない上に、一時間以上乗ると必ず気分が悪くなる。
 こんな大変な時に、何をつまらないことを考えているのだろう、とは思う。だが現実は、どんなに困惑し、混乱したとしていても、こんな風に些細なことに気を取られるものだ。
 額に星をつけた丈夫そうな鹿毛の馬は、値踏みするようにリーザをじっと見つめている。我知らず、リーザは汗ばみはじめた手をぎゅっと握り締めた。
「不安?」
 急に側で声がして、リーザは飛び上がった。いつの間に来たのか、セルクが荷物を抱え、横に来ていたのだ。後ろからは同じく荷物を持ったテイルが歩いてきている。
 つい先程、広場でセルクに会い、負けた彼が去るのを見たばかりの筈だ。しかし、まるで何日も会っていなかったような気がした。見上げたセルクの顔は、意外と晴れ晴れとしている。リーザはその表情に、何よりほっとさせられた。
「いいえ……でも私、馬車ばかりで、馬に乗ったことがないの」
 普段のようにすんなりと応える。セルクは荷物を馬に積み込んでいたが、安心させるように頷いた。
「休み休み行けば大丈夫。腰に当てるクッションも持たせて頂いたよ」
 リーザは微笑んで、セルクの腕から落ちかけていた荷物を支えた。馬は相変わらずじっとリーザを見つめているが、もう不安は無くなっていた。
 余りにも自然な二人の会話と動作に、テイルと双子の侍女は思わず顔を見合わせる。それから、同時に溜息を吐いた。
「いいなあー」
「実に羨ましい」
「彼氏欲しいですぅ」
 この状況にも関わらず羨望の声を上げた三人を気にも留めず、リーザがテイルから荷物を受け取りながら尋ねた。
「セリス様もいらっしゃるのですか?」
 テイルは照れもしない二人に不満そうだったが、さらりと答えた。
「いいや、あいつはエクタのお守り。君達に宜しくってさ」
「エクタ様は大丈夫でしょうか」
「大丈夫じゃないだろうね。でも、経過はともかく結果的にはこうなることをあいつも望んでいたし。時間が解決するさ」
 テイルの言葉に、リーザの手が止まった。セルクも複雑な表情を浮かべる。
 テイルは苦笑して二人の肩を叩いた。
「知ってるだろ? エクタは淋しん坊なんだよ。リーザに幸せになって欲しい、というのが本音。だけど淋しいから、つい引き留めたくなってしまった。たまたまああいう場があったから話が大袈裟になった、それだけの話さ。本人もよく分かってるよ」
 後ろでは、双子も訳知り顔で頷いている。動揺を隠してリーザは微かに頷き、セルクと共に無言で最後の荷物を馬の背に乗せた。
「さて、準備は整ったかな?」
 場違いな程に明るくテイルが声を上げて、リーザとセルクの顔を見回す。
「そうそう、最後にいい事かどうか分からないが、とにかく知らせが一つあるよ。今帰ったら、手紙が届いていてね。シロン男爵家のジェーナだが、元夫のダシルワと復縁することにしたそうだ」
 本当に思いがけない知らせに、二人は驚いて小さく声を上げた。
「大丈夫……なのでしょうか?」
「さあねえ。ただ、ダシルワ氏、大分心を入れ替えたようだよ。子供達を見て泣いたらしいし」
 長年関わり合った身としては、あのダシルワが、という思いはある。それでもジェーナがしっかりした女性であることも間違いはない。彼女が決めたことなのだから、きっといいことなのだろう、とリーザは思った。
「レジー様とルディー殿にも宜しく、だってさ」
 忘れかけていた偽名で呼ばれ、リーザとセルクは頬を緩ませた。その様子を見て、テイルがふっと肩の力を抜く。テイルも彼なりに、気が張っていたのだろう。
「これで荷物の積み込みと伝言は終わった。君達からは?」
 問いかけられて、リーザとセルクは視線を交わした。無言の確認の後、リーザが口を開く。
「皆様に宜しくお伝え下さい。言葉では伝えきれないくらいに感謝していることも。あと、こんなに慌ただしくこの国を去ることをお詫びします、と」
 リーザの言葉と共に、セルクが頭を下げる。ありきたりの言葉になってしまったのが惜しまれて、更に言葉を継ごうとするリーザを、テイルが押しとどめた。
「それで充分だよ。一人一人への伝言は、後でゆっくりイェルトから手紙でも出せばいい。そうじゃなくても、数ヶ月もすれば皆ほとぼりが冷める、その頃帰ってきて改めて話すのもいいだろうし。さあ、馬に乗って」
 できるだけ別れを短くしようとするテイルの気持ちも理解できた。だが、セルクとリーザは同時に首を横に振り、テイルの前に跪いた。セルクが口を開く。
「テイル様とセリス様には本当にお世話になり、どうご恩を返せば分からない程に感謝しております」
「おいおい、やめろって」
 うろたえるテイルの言葉を押し切るように、セルクが続ける。
「ルイシェ王、リシア王妃に仕える身ではありますが、エクタ様、テイル様、セリス様をエルス国の主君と心得ます。いずれ必ず御恩に報いる機会をお与え下さい」
「私も同じ気持ちでおります。テイル様……ありがとうございます」
 真剣に感謝の念を伝える二人に、テイルは両手を上げた。
「分かった。気持ちはよく伝わったから、これ以上は勘弁してくれ。ただ、エクタはともかく、俺は君達の第二、第三の主君になる気はないぞ。ちょっと偉そうな友人のつもりだったし、これからもそのつもりだから、俺の気持ちも汲んでくれ」
 必死なテイルの声に、ずっと静かに成り行きを見守っていた双子が、ぷっと吹き出す。
「テイル様、こーゆーの苦手なんですよー」
「偉そーなくせに、本当に偉い人になるのはイヤなんですぅ」
 生意気な台詞ではあるが、テイルは救いの神とばかりに、その言葉に乗った。
「そうなんだ。君達が顔を上げてくれないのなら、このまま逃げようかなあ、なんて思っているくらいだ。だから、そろそろ立ち上がって、笑顔の一つでも見せてくれないかな」
 言いながら、セルクとリーザの手を引っ張り、無理に立ち上がらせる。二人は抵抗する訳にもいかず、立ち上がった。
「はい、立ったら次は馬に乗って乗って。恋人気分を味わってもらおうと、折角二人乗りにしたんだから」
「そーゆーとこだけは、気が回るんですぅ」
「いつか自分もこーしたいっていう願望なんですー」
 双子に茶化されながらも、テイルはセルクを無理矢理馬に乗せることに成功した。
「テイル様……」
 上からセルクに引っ張られ、自分も馬に乗りながら、リーザはどうしても言わなければならないことを訴えた。
「エクタ様を、宜しくお願いします。どうか、あの方が淋しくないように……」
 リーザの足を丁寧に鐙の中に押し込んでから、テイルは眩しそうに上を見上げた。
「分かってる。そんなに心配しなくても、あいつは大丈夫だよ。ただ、エクタも、君の花嫁姿を見られないことだけは残念がるだろうけどね。俺も残念だ。花嫁衣装を身に纏った君は、美しいだろうね」
 これから一緒にイェルトに向かう二人を励ますように、その声は力強く、顔はどこまでも晴れやかである。リーザは、テイルにやっと、心からの幸せな笑みを送ることができた。そのリーザを見て、セルクも笑む。
「それでは、参ります」
 セルクが馬上からテイルと双子に向かい、一礼をする。
「いい判断だ。またな」
 まるで明日また会えるかのように、テイルは軽く手を挙げて答えた。その手は、下ろし際に先頭の馬の腿をポンと叩き、紐で繋がれた馬達は驚いたように歩き出した。
 ルルゥとリリィが、笑顔で手を振る。
「お元気でー」
「お幸せにぃ」
 みるみる後ろに流れていく三つの顔を、リーザとセルクは首を捻って目で追った。どこまでも明るくテイルと双子の侍女は送るつもりらしい。大袈裟な程に、手を大きく振っている。
 セルクは笑顔を返し、リーザは小さく手を振り返した。
 二人の旅が、始まった。

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