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 エルス国で一人の侍女を巡って、慌ただしい動きがあった同じ日の夕方。
 若きイェルト王の住む館で、王妃付きの侍女ハルマが泣き出しそうな顔をしていた。いつも仲睦まじい筈の王と王妃が、昨日からずっと口をきかずにいるのだ。
 今も食事の時間だというのに、奇妙な静けさが漂っていた。ルイシェもリシアも端然と、品良く食事を口にしている。が、幾らも食べないうちに、二人とも席を立ってしまった。
 何も言わずにルイシェが館の出口に向かい、同じく無言のうちにリシアが自分の部屋へと向かう。お互いの目に、相手が映っていないかのような動作だ。
「リシア様……!」
 どうして良いのか分からず、ハルマはリシアを追った。リシアがいつものように柔和な笑顔でくるりと振り向く。
「なあに、ハルマ」
「あの……差し出がましいかとは存じますが、ルイシェ様と何かございましたか?」
 その質問を予め想定していたと思われるほど自然に、リシアは首を横に振った。
「いいえ。何故?」
「何故、って……」
 明らかに二人の間がおかしいじゃないですか。そう言いたかったが、ハルマには口にすることができなかった。今の質問をするのにも、相当な勇気がいったというのに。リシアの頬には、いつものように笑みが浮かんでいる。
「……申し訳ございません。私の思い過ごしにございます」
 ハルマはしょんぼりとして引き下がった。そのまま、食器を片づけにとぼとぼとテーブルへ戻っていく。
 リシアはその姿を笑顔で見送ってから、自室の扉を開いた。
 背中の後ろで戸を閉めた瞬間のリシアの顔を見たならば、ハルマは「やっぱり」と思ったことだろう。リシアの頬から笑みは去り、代わりに唇が噛みしめられていた。瞼はきつく閉じられ、睫毛が揺れている。
 リシアは滅多にかけることのない錠を、かたりと掛けた。そして、青銀の髪を撒き散らしながらソファーに身を投げる。
「ルイシェ……」
 その目から、我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出した。
 胃がムカムカする。
 一体自分はどうしてしまったというのか。あんな態度をルイシェに取るべきではないとは分かっている。なのに、口を開くことができなかった。口を開いても、誤解が解けると思えなかった。
 昨日。昼間、執務室で仕事を手伝っている時のことだった。
「どうかしたの? ここ何日か、余り喋らなくなったね」
 心配そうに尋ねるルイシェに向かって、リシアは何気なく言ってしまったのだ。
「話すことが何もないから……」
 言ってしまってから、しまったと思った。ルイシェの顔に浮かんだものをみれば、どんなことを自分が言ってしまったかは明らかだった。
 だが、「違うの!」と自分の発言を否定する声は、リシアの喉からはとうとう出てこなかった。
 ここのところ、ずっと悩んでいたのだ。自分の発言がルイシェにとっては不快なのではないかと。だから、国の運営に関する口出しを控えてきた。しかし、それは思ったよりも難しいことだったのだ。
 例えば、ルイシェが考えている新しい政策について、意見を言いそうになったり。人事の登用に関して思うことを口にしたり。国交に関して、ルイシェのささやかな誤謬を訂正したくなったり。
 ルイシェの話を頷いて聞いていればそれで済むことなのに、賢しげに口を挟んでしまいたくなる。ルイシェがそれを咎めることはないが、彼の表情を見れば、喜んでいないことは分かる。義務的な笑顔と「参考になるよ」という言葉が返ってくると、「またやってしまった」という思いばかりが膨らむ。
 だから、セルクがエルス国に発った頃から、リシアは話を一方的に聞くだけになっていた。結婚してすぐの頃に感じていた文化の違いや、暮らしでの発見も、一年という月日を経て、報告するほどのことはなくなっている。
 それが先の発言に繋がっていくのだが。
 ……否定してどうなるのだろうか? どうでもいいことを無理に話すことなどできるのか。余計な意見を言って、またルイシェの困惑した表情を見てしまったら。
 だから、小さく呟いた。
「ごめんなさい」
 その言葉に対する返事は無かった。
 それ以来、口を聞いてはいない。二人でいると、気まずい空気が流れてしまう。
 ルイシェを傷つけたことは、分かっていた。けれど、謝る以外にどうすればいいのか分からない。思い切って自分の思っていることをぶつけてしまおうか、とも思う。しかし正直な気持ちがルイシェの負担になってしまうのはないかとも。
 どうしていいのか分からなかった。
 リシアは涙にくれながら、ルイシェに心の中で謝り続けた。

 ネ・エルス市を出てしばらくは、整備された街道が続いている。森の中に入っても石の街道は続き、夕方になるまでセルクとリーザは快適な旅を続けていた。
「もう少しいけば、小さな旅籠がある。そこに泊まろう」
 リーザの耳を、後ろからセルクの声がくすぐる。リーザは落ち着かない気持ちで頷いた。
 馬に乗ってすぐに気づいたことだが、二人乗りだと、後ろに乗ったセルクが前のリーザを抱きかかえるような形で手綱を握ることになる。それだけでもドキドキするというのに、セルクが手綱を引く度に腕が触れ合い、喋る度にすぐ耳元に低く優しい声が聞こえるのだ。恥ずかしくて、声を出すこともできないくらいだった。
 後ろに乗るセルクとて、同じことだった。リーザの甘い髪の香りを嗅ぎながら馬を操るなど、考えてもいなかったことなのだ。自分の腕の中で、時折身を固くするリーザをどうしても意識してしまう。テイルに感謝すればいいのか、恨めばいいのか悩むところである。
 森が僅かに切れ、小さな村の中に旅籠が見えた時には、二人ともどちらかといえばホッとしていた。
 だがそれも、旅籠ののカウンターに立つまでのことだった。
「部屋は一つでいいの?」
 店の女将に尋ねられて、セルクとリーザは顔を見合わせた。これまで、一緒の馬に乗るのに一杯一杯で、部屋のことなど考えてもいなかったのだ。
 他人から見れば、同じ馬に仲良く乗ってきたのだ、年齢も考え合わせれば夫婦に見えることだろう。だからといって、いきなり同部屋というのはどうか。
「ええと……?」
 リーザは救いを求めるようにセルクを見上げた。
 同部屋に泊まりたいなどと言えば、はしたないような気がするし、泊まりたくないと言えば、まるで相手を嫌っているかのように思われてしまうのではないか。
 だが、セルクの方も似たような気持ちである。選択を迫られて、セルクは女将の顔をちらりと見た。
 曰くありげな二人の様子を面白そうに見守っていた女将が、「あたしは何も聞いていませんよ」と言わんばかりに視線を逸らす。
 セルクは小さく溜息をついた。
「……別の部屋でお願いします」
 リーザと、何故か女将までも小さく溜息をつく。
「分かりました。鍵はこれ。二階になります。荷物はお部屋と、荷物置き場に運ばせて頂きます」
 女将は何事も無かったかのように、愛想良く笑顔を振りまき、階段を指さした。
 階段に向かいながら、リーザはちらりとセルクを見た。同じように視線を送ってきたセルクに、咄嗟に話しかける。
「今日は、色々あったわね」
 適切な話題かどうかはともかく、セルクはすぐに乗ってきた。
「一生のうちでも、最も忙しい一日かもしれないね」
「私も。朝、起きたときはこんな風になるなんて思ってもいなかったわ」
 顔を見合わせて、つい微笑み合う。リーザは落ち着いてくるのと同時に、胸がほっと暖まるのを感じた。
 セルクと言葉を交わすと、いつも素直になれる。王宮の侍女になってから、どこか肩肘を張っていた自分が、一人の女性に戻れる気がするのだ。
 少しだけ甘えたい気持ちになって、リーザはセルクの腕に自分の腕を絡めようとした。
「……っ!」
 息を呑む音がして、セルクの身体が固くなる。照れているのかと一瞬思ったが、どうも反応がおかしい。顔を覗き込むと、眉間に軽く皺を寄せている。
「どうしたの?」
「何でもない」
 問いかけるリーザに対するセルクの答えは、少し早すぎた。リーザの目が、冷や汗を滲ませたセルクの額に向けられる。
「まさか……」
 リーザは有無を言わさずにセルクの左の袖を捲り上げた。
 馬上でこの腕の中にいて、どうして気づかなかったのだろうか。セルクの左腕が変色し、酷く腫れている。
 顔色を変えるリーザに、セルクが困ったように弁解した。
「大丈夫、折れてはいない筈だから」
「大丈夫じゃない!」
 リーザはセルクを一喝した。膨れ上がった腕を見れば、どれほど我慢していたのか分かる。手当する時間もなく、ネ・エルス市を飛び出したのは理解できる。しかし。
 くるりと身を翻し、リーザはカウンターに走った。
「すみません! 水と湿布をお願いします。連れが怪我をしているようなんです」
 愛想のいい女将は、血相を変えたリーザを見て驚いたようだったが、すぐに頷いた。
 リーザは再び身を翻し、セルクの大丈夫な方の腕を取った。そのまま無言で、ぐいぐいと部屋に向かって階段を上り出す。
 部屋に入っても、てきぱきとセルクを座らせ、袖を捲くって怪我の様子を確かめてやってはいたが、リーザは言葉を発さなかった。目が本気で怒っている。
 最初はリーザの剣幕に驚いたセルクだったが、甲斐甲斐しい姿を見ているうちに、彼女の気持ちが痛いほどに伝わってきた。怒っているのに、彼女の手はとても優しい。
「ごめん。その……心配かけて」
 セルクは目を合わせようとしないリーザに向かって、たどたどしく謝った。
「エクタ様の打ち込みが予想以上に厳しくて、盾をしていても骨にひびが入ったらしい。軽いものだし、このくらいなら、年に数度やって慣れていたものだから。そんなに心配させるつもりは本当になかった」
 リーザの堅い横顔が、ふっと和らいだ。だが、やっと聞けた声はまだ厳しかった。
「他に怪我しているところは?」
「あとは打ち身だけだよ」
「そう。上、脱いで」
 どうやら信頼を失ってしまったらしい。セルクは小さく溜息をついて、上半身の服を脱いだ。
 精悍な顔に似つかわしく、鍛え抜かれた、日に焼けた身体。リーザは軽く息を呑む。だが、何事も無かったかのように、気むずかしい顔でセルクの身体を点検し始めた。
「ここも、ここも痣になってるわ。そっちは少し腫れてる」
 冷たく柔らかい手が、そっと腫れた場所を冷やす。セルクは赤らんでくる顔を、リーザから逸らした。
 遠慮がちにノックをした女将が薬を持ってきてからは、リーザは怪我にかかりきりになった。ひびの入った腕を冷やし、添え木をあて、湿布を貼り、包帯を巻き……。
 彼女が治療に満足するまで、セルクは大人しく座っていた。
「さてと、これでいいわね」
 最後に肩から腕を吊してから、リーザはやっと納得して頷いた。
 怪我に慣れたセルクからすれば、どうも大仰には思えたが、リーザの多少なりとも満足した顔が見られるのであれば、文句を言うどころではない。それに、手当自体は実にしっかりとしており、リーザが医学の面でも教育を受けたことが分かる。
「ありがとう。いつもより早く治りそうだ」
 素直に礼を言う。
 その途端、思わぬことが起きた。
 これまでずっと厳しかったリーザの表情が心配そうなものに変わり、優しい茶色の目が、急に潤みだしたのだ。
「リーザ、さん?」
「こんな痛そうなのに……本当に慣れてるのね」
 愛しそうに、リーザはセルクの無事な右手をさすった。
「戦う人の側にいることになるのね、私」
 自分に言い聞かせるように囁くリーザの姿に、セルクは胸を打たれた。同時にどうしようもない愛しさが込み上がってくる。
 セルクは身体をずらし、無言のままリーザの額に口づけた。
 リーザが切なそうに、顎を反らす。豊かな唇が、少し震えていた。
 今まで二人を阻んでいた障害は、もうないのだということに、セルクはその時になって気づいた。
 脈がドクンと一際大きく音を立てる。
 次の瞬間、セルクは右腕でリーザを抱きしめ、強くその唇を奪っていた。
 待ちに待った瞬間だった。
 時折秘めていた情熱が、何にも隔てることなく強くぶつけられる。熱い唇が、柔らかな舌が溶け合う。
 今までの想いをお互いに全て教えあう、幾度となく繰り返される口づけ。
 忘我のまま、うっとりするような口づけだけで、どれほどの時を過ごしたのだろう。
 いつしか二人は、セルクの腕を庇うように、そのまま眠りに落ちていた。一日にあった疲労が、それほど溜まっていたのだ。
 頬を寄せ合って眠るその姿は、幸せに満ち溢れていた。
 もう一つの部屋の方は、どうやら使われることはなさそうだった。

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