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 朝、先に目を覚ましたのはセルクだった。腕の痛みで起きたのだが、目を開けるなり愛しい人の寝顔があることに、少なからず動揺する。
 リーザは身体を丸くして、穏やかな表情で眠っていた。いつのまに解いたのだろうか、豊かな栗色の髪がベッドの上に波打ち広がっている。
 見つめているうちに、最初の衝撃は徐々に去っていった。代わりに昨夜の夢のような記憶がまざまざとセルクの脳裏に甦る。それが夢ではないことは、隣にいるリーザの暖かな息づかいと体温が教えてくれた。初めて感じるような穏やかな気持ちだ。起こさないように気を付けながらセルクはリーザの顔を眺め続けた。
 リーザがやっと起きたのは、小窓から差し込む朝日が瞼にかかった頃のことだった。
 眩しそうに目を開けたリーザは、先程のセルクと全く同じように動揺して固まった。
「おはよう。良く眠れた?」
 セルクが、それまで誰にも聞かせたことのない柔らかな声音で挨拶をする。上半身裸のままのセルクのどこに視線を置いてよいのかわからず、リーザはどぎまぎしながら素早く起きあがり、挨拶を返す。
「ええ、おはよう。腕の調子はどう?」
「悪くない。多少は痛むけれど、思ったほど酷くはなさそうだ」
 名残惜しそうに身体を起こしながら、セルクがリーザに微笑みかける。精悍ながらどこか甘やかなその笑みに、リーザの心臓がドクリと音を立てる。元からセルクの顔立ちを好ましいとは思ってはいたが、こんなにも目を惹きつけるものだったろうか。他の人に言ったら苦笑されるかもしれないが、明らかに、今のセルクは全世界で一番の美男子に見える。その主な原因である優しい眼差しをさせているのは自分らしいということが信じられない。
 思わず、くしゃっとしたくなるとずっと思っていたセルクの髪に、手を伸ばした。思いがけず男性らしい強い髪の感触が指先に広がる。
「無理をしちゃだめよ。これからは、私がいるんだから」
 遠慮がちに一度くしゃっとしてから、今度は丁寧に指で整える。
 優しい女性の指で頭に触れられる心地よさに当惑しながら、セルクは言った。
「あなたに手当をしてもらえるなら、怪我をするのも悪くないと思ったな」
「もう、そんなこと言って」
 二人は目を見交わし、穏やかに微笑みあう。 
「早くイェルトに行きたい。リシア様もあなたに会いたがっていらっしゃる」
 セルクは、リーザの気持ちを考えてそう言った。
 だが、リーザは息が止まる気がした。
「姫様……」
 セルクと共にイェルトに行くということは、リシアの国へと向かうこと。リーザは明快すぎるその事実を、混乱の中でいつか忘れていた。
 忘れるなどと、思ってもみなかった人を。
「私……姫様のことを考えもしなかった……」
 自分にはもう一人命に代えがたい人がいる筈だったのに。
 主でありながら、妹とも娘とも思った人は、まだ十九歳の誕生日さえ迎えていない。この一年、殆ど見知らぬ土地で、どれほど悩んだかわからないというのに。
「私は何て自分勝手な……」
 リーザは力無く腕を落とし、俯いた。 
 リシアの名前を出した途端にもう一つの表情を浮かべたリーザを、セルクはこれ以上無いほどの強い共感の思いで見つめた。恋人、或いは家族。それらと心から愛する主とは、同様に大切で、どちらが上とも言えぬものだ。ルイシェという主を持つからこそ、リーザのことを理解することができる。主を一瞬たりとも忘れたくないという思い。それを裏切った自責の念。
「自分勝手なんて、言わせない」
 セルクは恋人を片腕でぎゅっと抱き締めた。
「俺は、あなたが俺についてきてくれたことを、誇りに思う。結果としてリシア様の許にあなたをお連れできることも」
「セルク……」
「あなたがリシア様にどんな想いを持っているのか、俺には理解できる。そんなあなたがリシア様を一瞬でも忘れて俺のことを見てくれた。どんなに嬉しいか……だから後悔してほしくない」
 離すまいと込められた腕の力が、雄弁に気持ちを物語っている。リーザは胸の中が熱くなるのを感じた。
「好きよ、セルク。あなたが好き」
 誰よりも自分を分かってくれる男性。リシアのことも含めて。
「俺もあなたが好きだよ。もう、分かっているだろうけれど」
 セルクはもう一度リーザをぎゅっと抱き締めると、その額にそっと唇を落とした。
 望んでも得られないほどの男性だ、とリーザは心から思った。この人に相応しい女性になるように、努力しなくてはならなない。
「イェルトに向かいましょう。私達の大切な人達のところへ」
 リーザは微笑み、セルクの腕を撫でた。
 それだけで、気持ちが切り替わったことを伝えるには充分だった。
 二人は立ち上がり、結局一つしか使わなかった部屋の中で、新しい一日の旅仕度を整え始めた。

 今日もリシアは、殆ど食事に手をつけなかった。
 ルイシェが仕事で席を外しているため、今日は一人での夕食である。後ろで給仕をしていたハルマは、リシアの手が動かないのを見て、心配そうに声をかけた。
「お口に合いませんでしょうか?」
 リシアははっとしたように、ハルマの顔を見つめた。
「ごめんなさい。少しぼうっとしていたの。少し食欲がないのだけれど、とても美味しいわ」
 笑顔を作るが、やはり去年見せていた天真爛漫なものではない。ハルマは胸が痛くなるのを覚えた。だが、ここで何かを言い出せるほど、積極的な性格ではない。黙って女主人の表情を見守るだけだ。
「……ハルマは」
 唐突に、ぽつりとリシアが呟いた。
「静かでいい人ね」
 それだけを言って、黙り込む。ハルマはどう捉えていいのか分からなくて、やはり黙ったままお辞儀をした。その衣擦れの音が、二人の耳を強く打つ。
 リシアが来た頃は賑やかで、こんな音など聞こえなかったとハルマが気が付いた時には、リシアがナイフとフォークを置いていた。
「ごちそうさまでした。余り食べられなくて、ごめんなさい」
 優しさの滲む、柔らかな声。そのままリシアは立ち上がり、真っ直ぐに自分の部屋へ入ってしまった。
 ハルマはどうしていいのか分からずに、呆然とした。
 リシアの言葉はとても優しいのに。同時に、心の壁を感じずにはいられない。
 主なのだから、友達のように扱うわけにはいかず。かといって、側で葛藤を眺めるにはハルマは若すぎ。
 ルイシェもリシアも悪くない。ハルマに分かっているのは、そのことだけだ。そして、ハルマは二人とも深く敬愛している。
 元通りになってほしいのに、何をすればいいのか分からない。
――静かでいい人ね――
 その言葉の意味が、重くのしかかる。
 途方に暮れた侍女は、力無く机の上を片づけ始めた。

 艶やかな黒髪を持つ、若い国王は砂埃で煙った空に向かって、窓越しに重い溜息を投げかけた。
 昨夜はひどい砂嵐だった。厳重に閉じられた鎧戸の向こうから、風に混じった砂が当たる音がずっと聞こえていた。
 いつもならその音が怖いと言って身を寄せてくるリシアは、ずっと背を向けたままだった。昨日だけではない。もう数日になる。
 とうとう嫌われたのだろうか、とルイシェは思う。
 自分のしたことを考えれば、彼女の態度も当然だった。政治に意欲を見せる発言を受け流してきたのだから。受け流すなどという口当たりの良い言葉では済まないかもしれない。無視をしているも同然だ。
 女性が口出しをすることを極端に嫌がるイェルトの政治で、リシアと自分を守る為の行動ではある。
 リシアの案は大方素晴らしかったが、イェルトの人間の発想でできるものではなかった。同時に、新体制になったばかりのイェルトには斬新すぎた。案を通せば、誰が考えたものかは一目瞭然であった。
 王妃の言いなりになる王という印象を、貴族達に決して与えてはならない。王妃も、王も蔑まれ、扱いづらくなる。それで貴族が有能ならば問題はないのだろうが、イェルトは血統という幻想に支配され、有能な貴族が数多く育つ土壌ではなかった。
 先王である父が、強い独裁色を打ち出したのも、その為である。いくら新しい体制になったとはいえ、貴族を入れ替える訳にもいかない。
 だが、リシアを傷つけた本質はそんなことにはない、とルイシェは項垂れる。
 考えるだけでも辛いが、個人的な問題を避ける訳にはいかない。
 大恋愛の末の結婚だった。しかし結婚前に二人が一緒にいたのは、そう長い時間ではなかった。熱に浮かされたような恋の期間が過ぎつつある今、夫である自分に失望を覚えているのではないだろうか。
 ルイシェの方は、リシアがいない人生など考えられないくらい、前と変わらず、いや前にも増して深くリシアを愛している。彼女を一瞬でも疎んだり嫌ったりする自分など有り得ないと断言できるくらいだ。
 とはいえ、リシアにそれを望むほど、ルイシェは自分に自信が無かった。
 他の貴族の若者のように粋な会話ができる訳でもなく。女性が好きなものを多く知っている訳でもなく。政治や経済の話題を避けると、己の見識の狭さに愕然とするばかりである。気づいてみれば、大抵リシアが楽しそうに話すのを聞いているばかりだった。ルイシェにとっては、それがとても幸せなことだったのだけれど。
 彼女が口を開かなくなった時に気づいた、己の空虚さ。
 リシアが避けるようになったのは、自分に責任があるのだ。なのにどうして良いのかもわからない。
 こんなにもリシアを愛しているのに、傷つけてしまっている。
 ルイシェは自責し続けていた。
 そんな時間を短い間ながら終わらせたのは、力強いノックの音だった。
「お邪魔いたしますぞ、陛下」
 ドアを開いた先にいたのは、イェルトの老軍団長、そして敏腕な政治家のメルハであった。幼い頃からルイシェに剣を教え、戦争の折にはルイシェへの忠誠心を最も強く表明した人物でもある。ルイシェは己を推したということとは関係なく、彼以上の「貴族」はいないと思っている。
 メルハは思いがけないほどの優雅さで一礼した。
「例の件で、お伺いいたしました」
 ルイシェは今まで途方に暮れていたことなど微塵も感じさせぬ、引き締まった顔で問いかけた。
「準備は整っているのか?」
「はい、万端です。あとはセルク殿の戻りを待つのみ」
 メルハは目を稚気たっぷりにきらめかせた。
「さて、頭の古い貴族どもがどのような反応を示すか。楽しみですな。それに……」
 一旦言葉を切り、メルハはちらりとルイシェを見た。
「リシア様も、陛下を見直されることでしょう。ですが、宜しいのですか? リシア様にこの件を伏せていらっしゃるようですが」
「ああ、これは私が独断で行うことだ。事前に彼女が知っているとなれば、周囲の者がまた余計な雑音を撒き散らす恐れがある」
「さようでございますか。陛下はつくづく愛妻家であられる」
 真面目な顔と声で言われ、ルイシェは思わず苦笑した。今の今まで悩んでいたというのに、他人の目にはそう映るのであろうか。いいような悪いような、複雑な心境である。
「そうありたいとは思っているが……なかなか難しい」
 ぽろりと漏れた本音に、メルハは経験豊かな男性らしく、頷いた。
「女性は難しいものですぞ、陛下。記念日に贈った薔薇の花束のたった一本が折れていたといって、一ヶ月口をきいてくれなかった女がおりました。三番目の妻ですが、三十年以上経った今でもそのことを持ち出します」
 笑わせようとする気遣いが嬉しくて、ルイシェは笑おうとしたが、上手くできなかった。こういうところが、まだ大人になりきれていないところだと思う。
 そんなルイシェを穏やかな顔で見つめていたメルハは、静かに口を開いた。
「ルイシェ様のお気持ちを、近く気づいてくれる日がくるでしょう。王妃は聡いお方ですから」
 ルイシェは、たまらずに溜息を一つついた。
「そうだな。そうだといいが……」
 二人は自然に、空を見上げた。さっきよりも、空は黄色く濁っている。
 今夜もまた、気を重くする砂嵐がやってきそうだった。

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